園良太のブログ(3/11原発事故避難者/人民新聞/2002年から社会運動

更新再開。1981年東京生まれ・関西在住。社会変革を目指し続ける原発事故避難者です。

連載:来たるべきその時(革命)のために③ 野党共闘路線の終わりと、2011年3月11日~4月10日からの総括開始

連載:来たるべきその時(革命)のために③ 野党共闘路線の終わりと、2011年3月11日~4月10日からの総括開始
 
長く体調不良になり中断してました。書ける日が出てきたため、連載再開します。
また今年の都知事選、衆院選兵庫県知事選の結果は、一つの運動時代が完全に終わったと思いました。次を考える時でしょう。
<運動の爆発も革命情勢も必ず来る。いつ、どう来るかは誰にもわからない。でもそれに備えることはできるし最も大事な事だから、近い過去の経験から今をたたかう人々の備えに役立てる。>
なお2000年代の情勢と運動は、今後の連載で同時に触れていきます。
 
 今は運動も社会も「3.11以降」だ。その運動は、11年~15年の国会前など街頭直接行動と、16年~今までの野党共闘路線に大別される。後者が意味や役割を終えたのだ。
自民党の石破は「平成の琉球処分」といわれた、2013年に自民党の沖縄選出議員5人に辺野古移設反対の公約を反故にするよう恫喝をかけて屈服させた人物である。
立憲民主党の野田は、2012年の首相在任時に多くの反対の声を振り切り、原発事故以降初めて大飯原発の再稼働をおこない、公約に一切なかった消費税の10%への増税をおこなった。
このような2人の国家主義者を党首とする2大政党によって争われる今回の選挙は、2012年の民主党政権の崩壊以降に始まった、多党化と2016年の安保法制反対運動によって主導された野党共闘路線の政治サイクルとしての一つの終焉を物語っている。”(人民新聞10月20日号、末岡友行)
 
これは都知事選で蓮舫が石丸伸二にすら負け、兵庫県知事選で斉藤が勝ってしまった事とも共通する。議会オルタナティブの消滅2024年。
僕は東京や大阪で街頭直接行動に全力をかけ、結果身体を壊しながら、状況を見てきたつもりだ。そもそも論を確認したい。
 
①首都圏発の「国民連合政府」~野党共闘は、戦争法や自民党を止める手段を、街頭でできる全てを尽くしきらないまま、戦争法成立により選挙に「移した」こと(消去法)
②その現代選挙は、小選挙区制で一本化しないと自民に勝てないという、「負け戦」に近い舞台だったこと。
③負け戦で何とか勝つために、「立憲主義」以外の合意点や課題を後ろに下げる「譲歩」、社会変革的には「後退」から進めたこと。
(以上は一定必要だったと思うし、頑張ってきた人々をくさすつもりはない)
④それを「共闘の前進」と言い続けてきたが、今や「選挙」は、保守二大政党、ポッと出の石丸、デマまみれの斉藤に収斂されてきたこと。一方で社会変革は、待ったなしで求められていること。ここは世界共通だ。
こうした総括をしながら、私達は絶望も同じ事の繰り返しもせず、第3ステージの民衆運動を作る時だと思う。
 
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それは、第1ステージの振り返りが基礎になる。近年最大の盛り上がりの経過・良い点・反省点で、今なぜこうなっているのか・次の高揚時にはどうしたらいいかがわかるからだ。
 
「3.11以降」とは、①日本列島(広くは北半球)が放射能汚染で壊滅し始めた事。また壊滅を隠す嘘と強権の政治が始まった事。それはここでまとめたのでぜひ一読を。https://note.com/jinminshinbun/n/n804f912ef677 
②数十年ぶりに大勢の人々が運動に関わり始めた事。核と戦後日本、経済成長などを根底から反省し拒否する可能性があったこと。シールズやその同世代は3.11が学生で直撃して始動したし、僕より年上の大人も大挙してやってきた。
これから振り返るのは、要はそうした新旧の人々が同時行動する時に起きる、ハレーションと試行錯誤の現代版だ。これはとても普遍的だから。
 
時系列で書くと、
①新旧が協力する奇跡と高揚
②改良か、革命か。つまり原発廃止だけでまとまるのか?それとも放射能汚染や原発労働者差別などの単純な「反原発」に収まらない問題を掘り下げたり、沖縄・安保・戦争責任・反資本主義などの社会変革に広げるのか? ということ。
③反弾圧か、警察ともなあなあでやるか。
④そうした時、僕や周囲はどんな経験な対話や失敗をしてきたか
snsを交えた主導権争い、罵倒や暴力的行為
⑥党派的引き回しや囲い込み
⑦議会と街頭。
 
次から国の動きに加え、自分、素人の乱、東電前アクションなど、フリーター労組、旧ヘイトスピーチに反対する会、首都圏反原発連合、共産党民主党など、大飯原発~汚染がれき反対運動への大弾圧、しばき隊&あざらし、シールズと「直接行動」など、やり取りと、今だったらどうするかを具体的に書きたい。今後のために。
 
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2011年3月11日~18日

2011年3月11日、東日本大震災福島原発事故。東北の人々は、地震津波で多大な死者を出し、それらと放射能からの大規模な避難を余儀なくされた。
関東の人々は地震被害が直撃ではなかったものの、放射能が広く降り注いだ。そして「意味不明な計画停電で動けない」「家にこもって原発作業員に祈れ」「頑張ろう日本の洪水CM」にさらされた。
これは支配層の計画的な扇動だ。社会統合の崩壊→人々が大規模に西へ避難したり、政府や原子力村の打倒に立ち上がる事を恐れたからだ。

twitterはここで最初の力を発揮した。「安全、大丈夫」と言い張る国に対し、そうではない事実を探し、知り、共有する場として一気に広がったからだ。
そして敏感な人々や仲間は、すぐ西日本へ保養や避難に行った。被曝の知識と移動の経験が足りなかった僕は東京に留まり、運動仲間と互いの生存を確かめながら、反原発の緊急学習会などへ通った。

そして僕は、動く自分達と「全員家で祈れ」との落差から、これは戦前戦中の手法を使った支配戦略だと気づいた。それを打ち破るには、事故の責任者を名指す行動が必要だと思い、首相や大臣らが集合していた新橋の東電本店前で3月18日から抗議を始めた(なお最初の抗議はたんぽぽ舎の3月12日)。

この状況は、次の原発大事故、大震災、侵略戦争の発生時にも必ず作られる。当時まとめた文章を読んで下さい(自著『僕が東電前に立ったわけ』のベース)。https://ryota1981.hatenadiary.org/entries/2011/03/21
 
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2011年3月18日~4月10日

snsや動画配信の世界は、今でこそ炎上・有象無象・デマ拡散が極まったと言われる。マスコミ不信を前提に、ネットに対する評価も割れている。だが3.11後の時は、「嘘ばかりつき私達を黙らせるマスコミ/事実がわかって反原発の声を上げられるネット」という構図が明確化した。

つまり、最高の権力者や命を壊す放射能に、被害者の民衆が対決するという、本来の階級対立とネットの使い道がはっきりした。今でも最大の成功例ではないだろうか。
(つまり99%VS1%。この普遍的な階級対立の構造がうやむやにされてるから、例えば「兵庫の斉藤&立花に協力することが権力との対決だ」と錯誤されてしまう)。

まず、動画配信。僕らが東電前抗議を始めた時、黎明期のIWJ、個人配信者、海外メディアが次々配信や取材をしてくれた。「ようやく抗議が始まった」と。街頭での声は配信で家にいた人々に伝わり、責任追及の必要性を共有した。
そして参加・協力者が3人から増え始め、3月27日・4月1日に東電前には400人が集まり、終了後の話し合いで「東電前アクション」を立ち上げた。3月27日の既存団体の定例デモにも1200人集まった。前の月は20人だ。

東電前では、様々な人々が、重苦しさの中で溜め込んでいた思いや主張を爆発させた。それがそのまま責任者全員への追求になった。
東電抗議とその拡散は、震災と原発を同じ扱いにして黙らせる最初期の圧力を突破した。

次に、SnS。「原発やめろ」という言葉とデモだ。人々が声を上げ始めると、今度は「電気が足りなくなる、対案出してみろ」「原発は専門的問題だ、無知な素人は黙っていろ」という権力者や右派の圧力が降り注いだ。よく見る光景だが、人々の覚醒を防ぐために相手も必死で圧力をかけてきた。

これに対し、「#原発やめろ」という投稿がtwitterを席巻した。西日本への初期保養から戻ってきた素人の乱の人々が、4月10日に「原発やめろデモ」を企画して投稿した事がきっかけだ。

彼らの強みは、皆高円寺近くに住んでて毎晩集まり、体験や状況について様々話し合いながらデモを準備できたことだ。―「ぐちゃぐちゃ言われるけど、原発やめろでいいじゃん!」ー心の叫びであり一番シンプルな言葉が、デモ参加と結びついた。
こうして「専門家/素人」で黙らせる次の圧力をこれまた突破した。
 

3つ目に国際連帯。この場合は海外からの(やや情けない)影響と言える。事故直後から欧州各国で反原発デモが多発し、ドイツは脱原発を決断した。Twitterで日本にもすぐ伝わり、「遠方ですぐ動いてるのに当事者の自分達が動かないのはおかしい」とデモへ促した。
世界民衆の同時課題、同時行動であり、ネットはそれを媒介した。それが本来の使い道と可能性だ。今年のガザデモで発揮されているが、もっと、常に行われれば世界は変わる。

そうして迎えた原発やめろデモ第一回は、ぺぺ長谷川氏が亡くなる前に「個人的に過去最高のデモ」と書いていたと思う。高円寺駅から集合場所へ人の波がうねり続けた。デモは路上とゴール場所の公園を占拠した。


初参加者は同じ思いの人が大勢いる勇気を、企画者やスタッフは見たことない人々が次々参加する感動と衝撃を味わった。根底には共に、国家の圧力や事故の絶望感を行動で打ち破る解放感があった。

こうして東電前抗議や、原発やめろデモ第1回は、人々が立ち上がる時に必須な「共感と勇気の連鎖」を生んだ。
これを作り成功させることこそが、今も日々最も問われていると思う。(続く)
 
※ここまで読んで、「今の運動はダメ、自分達は良かったと言いたいだけじゃん」と思う方もいるかもしれません。そんな事を言いたいのではなく、これから自分(達)の葛藤や失敗もたくさん書いていきます。
 

2011年3月18日

3月27日