「仲間」

お久しぶりです、ご無沙汰しててすいません。いろいろ考えたり葛藤したりしていました。
今年前半に一番良かった文章は『アナキズム』誌13号・noizさんの「経験の権力、無垢の権力」です。その引用で心境や自戒のうちの一つに代えさせて下さい(ひとの文章をモロ引用、怠惰でスミマセン…!)

http://anarchism.sanpal.co.jp/anarchism/653/

“……サミット反対を呼号した私たちにおそらく欠けていたものには、フラッテルニテ(情誼)の同志的感覚だけではなく、多様性を現実のものとして掴もうとする、つまり相互に他者である者たちが違いを認識しつつ、一時的にでもその差異を埋めるためにそれぞれ妥協しながら連携するしたたかさも数えられる。治安弾圧当局や戦術的反対者などと対峙しなければならない状況があるときに、限りある時間のなかで行動に直結する集合的意志をどのように形成するか、つまり多様性を一時的に綜合する決定(ときにそれは多くの人々の自制=自己瞞着を前提とせざるをえない)をいかに実効性のあるものとして結実させるのかという明解にして困難な問題に逢着したとき、わたしたちは「手慣れたつもりの少数者で決定する」ことと「人任せにする」「傍観する」ことを表裏一体のものとさせたままものごとを進めてしまったのではないか。

……人の行動や意識に対して規定力を持つ決定は、権力性をおびた行為となりうる。反権威主義を言祝ぐ者がまずこのことを認めなくてはならない。それでも人は決定しなければならない時機がある。しかも善意で構成されるからこそ人はこの集団的な意思決定、あるいは「無決定の決定」によって構成される見せかけの集合意志を前にして、批判的に検証しようとする視点も意欲も持ちにくくなる。しかし善意を「善」もしくは「正義」としてのみ捉えるなら、自らがうみだした力に押しつぶされるばかりとなる。「敵」勢力は外部にあるだけでなく、自分たちのなかにおぞましい力として存在するのだという認識を把持するのでなければ、恒常的な運動組織の中であれ一時的な行動のための共闘体においてであれ、わたしたちは真に水平的に合議しうる基礎的関係さえ築くことはできない。

……わたしたちは、運動官僚という存在と、官僚制を嫌悪しつつも、意思決定を人任せにすることで運動官僚を手助けしておきながら無垢なふりをする、あるいは無垢であることに開き直る存在との間を動揺し続けている。経験の権力と無垢の権力――それは他者―自己の間隙に発生する無主体への埋没を前提とし、かつ無主体を動員することで成立し、なりゆきの力を発動させる無為の構造において表裏一体である。そしてこの自覚せざる二重の集合意識がおりなす<空無の権力>こそ、わたしたちが運動主体として格闘すべき癌にほかならないのである。”

“……畢竟、競合する他者にいかに卑劣な(とも見える)手練手管で深手を負わされるとしても、わたしたちは寛容さによってわたしたち自身を「革命的群集」につくりかえていかなければならない。仲間を信じようとする無条件の情誼こそが、他者への寛容を保証する基本的態度である。したがって日常的に語らい、飲み、歌い、喧嘩し、そして矛盾も含んだ交錯の関係を保ち続けることによって、わたしたちは多様・多数の行動の原動力を常に蓄えていくのである。
 競争を前提とする社会において、寛容さの保持は簡単なことのようでいて実際には非常に難しい。このように書きながら、わたし自身いまだに自分の中で憎悪がうずまいているのを感じる。しかしそうした狭量な感情さえ単に他者へのうらみつらみであるばかりでなく、わたし自身への叱責として内向するものでもあるのだから、やがてさらなる自省への意志に転化することもあるだろうと楽観的に考えている。そう思わなければやってられないということもあるが、やはりわたしの目前には、何の見返りも求めずに(人のために)闘いにあけくれる友人たちがいるのだ。自己欺瞞といわばいえ。たとえ無私の情誼がごく少数のものであるとしても、それは人が気っ風のよい名もなき「群衆」の一員であろうとするときの実にえがたい手本であり続ける。そしてそうした<わたし>を一時的に投げ捨てようと苦慮する、ある意味で孤独な闘いこそが<わたしたち>の内と外を貫くいびつな関係――人間集団の内部と集団間に横たわる力の不均衡性――を直截に捉え、断続的にであれ問題にしていくしたたかさを育んでいくであろう。”