連載「Will you?」第1回 さびしさの帝国

“友達ほしい
でもできない なんでかな
不細工だから 終了
眠くて、痒くて、眠れない
彼女さえいればこんなに惨めに生きなくていいのに”

(08年秋葉原通り魔事件の容疑者の書き込みより http://www11.atwiki.jp/akb_080608/pages/25.html

 “そもそも、「なぜ、生きなければならないのか」という問いを、それこそ、「なぜ」抱え込まなければならないのだろうか。消えてしまいそうな<.生>へのエネルギー。たとえば、「レズビアンである」ことで、<生>へのエネルギーが奪われているとすれば、それは紛れもなく、「レズビアンであるわたし(たち)」ではなく、問いを生み出す社会環境のただなかにこそ問題があるはずだ。であるとすれば、問われるべきは「なぜ、レズビアンであってはいけないのか」、なのだろう。……哀しみや怒りを、そして絶望的な思いを、「怒り」という感情にベクトルを転換していくこと。共有できる誰かとつながっていくこと。わたしがピア・サポートの現場で学んだのは、そんなことだったように思う。”

(堀江友里「個人的なことは政治的なこと――その<復権>を求めて」、『オルタ』09年9、10月号)

 「反戦と抵抗の祭<フェスタ>09」の直前会議を終えた11月末の深夜、僕は地元で友人と食事していた。大きなイベントを目前にした緊張感から少し離れて、世の中のできごととかを振り返っていた。80年代以降の日本は非正規雇用を増やし続け、今や違法行為や大量解雇が簡単にできるようにしてしまった。生み出された貧困はぼくらを凄まじい状況に追いやっている。

その上で、彼はこう話した。「ここ数年“ロスジェネ論壇”とでも言えるものが作られ、世代論や若者の内面が当事者の立場から盛んに語られたけど、それは欺瞞もあると思う。例えば秋葉原事件の加藤君の内面にはいわば何もなかった。なぜ「何もないから殺人になるのか」という問いの立て方をした方がいい。人間が機械にされているんだ。」

 若年雇用の問題を自己責任から社会の責任に変え、バッシングをはね返した意義は大きいと僕は思う。けれど問題を世代論に閉じ込めたままでは、ある世代の権利獲得のためだけの動きに収れんされていくだろうし、私たち自身の試行錯誤より政策論や制度設計を優先することにしかならないだろう。普遍的な所から問題を考えたいと思うようになっていた僕はうなずいたのだった。
不安定な労働・生活や孤独感はすべての世代と世界中に広がっている。資本主義のもとでは私たちの行動は使用者に管理される。私たちが生み出すものは私たちから引きはがされ、お金を通して交換可能なものに変えられていく。そして「所有権」が肥大していく。

その最新バージョンである「新自由主義」とは、ふくらみすぎた金融経済や競争社会のことだけを指すのではなかった。世の中のありとあらゆる領域に資本主義が入り込み、私たちの生活、身体、こころのすべてを交換可能なものに変えていくことでもあるのだ。

誰もが職種や住まいを不安定に変えさせられる中で、秋葉事件の彼はその代表の派遣社員だった。誰もが職場や地域から孤立し、公園から野宿者が・大学からビラ配りが排除され、代わりにNIKEやコンビニや監視カメラがその場を囲い込んでいく中で、彼の周りには誰もいなかった。「草食系/肉食系」「モテ/非モテ」「コミュニケーション能力」と見た目や内面を交換可能なカテゴリーにされた上で評価にさらされる中で、彼は自分が「不細工でモテない」から全てがうまくいかないと苦悩していた。

90年代から2000年代の日本は、<帝国>よろしくトヨタに代表される大企業が海外進出で莫大な利益を上げながら、政府がアメリカの戦争に全面協力しながら、国内では孤独と貧困に苦しむたくさんの人々を生み出してきた。いわば「さびしさの帝国」であり、その苦しさはとても普遍的なものだ。

それでも私たち若者世代に特徴があるとしたら、そもそも自らの人生が前向きに積み重なると思えることや安定した人間関係を一度も経験していない人が増え続けていることだろう。そうして私たちは空っぽの自分、自信のない自分、常に他者と見比べ他者におびえる自分を抱えながら、資本主義の侵入を許してきた。

それは例えばガツガツした恋愛には乗らない人が増えてきたとする(時代を考えれば当然だし、全然悪いことじゃない)。それがまず「草食系」と名付けられ、それが今度は「今は草食系がモテる」などと本来拒否していた価値観に変換され、草食系になるためのノウハウが作られていくことだと思う。

あるいは、さびしい男女を孤立した部屋の画面の前で慰めるために、どれだけ多くのAV、「イケメン」、おたくカルチャー、新種の風俗という「商品」が開発されてきただろうか。

そうして新自由主義が深刻化し続け、その分「つながり」がより激しく求められる中、秋葉事件の彼はインターネットですらもつながることができず、そのことによってさらに失望を深めていった。ネットでのコミュニケーションも競争の場にされているからである。彼は様々なパフォーマンスや空気を読むことが求められる「2ちゃんねる」などの掲示板では居場所を作り出すことが出来ず、もっとマイナーな掲示板へ向かっていった。人目を引きつけることが目的になり、自分の振る舞いをどんどんその場に合わせざるを得なくなるのは、もちろんmixiでもほとんど変わらない。

より広い枠組みで言えば、哲学者のG.ドゥルーズやA.ネグリは「規律社会から管理社会へ」と言う。近代の「規律社会」が学校や工場などで上から指令を注入しようとするのに対して、グローバル資本があらゆる領域を覆う現代の「管理社会」では、個々人が自らのコミュニケーションを自らチェックすることで、権力や規範を内面化するようになっていく。国家権力はそれができる者を「生きさせる」し、できない者は「死ぬに任せる」ようになっていく。

それでも――
秋葉事件の彼(K)のように「自分には何もない」「何もできない」と思っても、存在を示す方法があった。それは、

“しかしKの犯行後、ネット上では、非モテ男性としての彼の話題がもちきりになる。このことは、きっとK自身も予測していただろう。ここにいる限り居場所はなかったが、ここを去れば、ここに居場所ができる。社会的に存在を消してしまえば、社会的に存在は承認される。そんな自己破滅のストーリーは簡単に描くことができる。承認欲求に従っていくと、承認自体が不可能になるという逆説の中、Kは人殺しになり、多くの犠牲者が出た。”
(小松原織香「承認欲求の牢獄から抜け出すために」『オルタ』08年11、12月号)

人間が交換可能になってしまい、あとは人目を引きつけたものが勝つ。それを加藤君自身がきっとよくわかっていた。

けれど、もし私たちが殺人や自殺、そしてその拡大である戦争とは違う未来を望むのならば、自己や他者を消していく方向ではなく、まさに自らの怒り、悲しみ、喜びの叫びを上げながら、それを通した他者とのつながりをどこまでも広げていくことが求められていると思うんだ。新自由主義に留まらず資本主義そのものを問題にしていかなければいけないんだ。

この連載では、去年の世界恐慌の始まりと「麻生邸リアリティツアー」で不当逮捕事件が起きたことから書き始めて、今がどういう時代かを考え、自分と仲間がまさに行動や関係性によってこうした現状を乗り越えようとしてきたか、そして今まさに乗り越えようとしているかを僕なりにドキュメントしていきたい。なるべくわかりやすい言葉で、内在的な立場で。未来はあなたや僕の考えと行動がつくる。そして「はじめに、叫び、ありき」だ。

“資本主義の時間は、私たちの生を包み込む時間です。私たちの外に立って、私たちの行為を測り、私たちがすることを限界づけている時間なのです。私たちの努力は、「われらはおこなう」がなんの限界ももたない社会に向けられています。そこでは、時間は私たちの生とともにある時間になっていくでしょう。……自己決定に向かう営みは、歴史から解き放たれた社会、現在の行動が過去によって決定されることから解き放たれた社会に向かう努力なのです。……そこでは、行動が過去によって決定されることはなく、何よりも未来の端緒という性格をもつようになるのです。”
(ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』)


★次回、「電子のナショナリズム」に続きます。


※タイトルの「Will you?」は、親友が10年以上前に作っていたパンクのファンジンの名前をからリスペクトしてつけました。もっと気持ちの入った文章にできるよううまくなりたいな〜。あと最近勉強不足だったからいろいろ読まないとー!