怒涛の8月14日、15日――僕にはわかる、手に取るようにわかる。だから反対するんだ。



8/14写真:http://mkimpo.blog.shinobi.jp/Entry/820/
8/14報告(日刊ベリタ):http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200908160743450
8/14報告(ウェブフェミ):http://www.webfemi.net/?page_id=668
8/15の靖国周辺写真(右翼など)http://www.mkimpo.com/minibbs/kamex/imgboard.cgi
8/15詳細レポート:http://www.labornetjp.org/news/2009/0815shasin
8/15映像:http://www.youtube.com/watch?v=kZJUaxrOmjU
8/15写真:http://www.mkimpo.com/diary/2009/yasukunix2009.html

8月14日の文京区民でのイベント、そして15日午後「アキヒト天皇制20年 「戦争国家で安心安全」を問う8.15行動」の集会とデモに参加してきた。本当に、本当に色々あった2日間だった。14日はほとんど右翼は来なくて、200人を超える人が集まりすごい盛況だった。だが15日の午後のデモ、靖国神社の手前の交差点には400人のプロ右翼や若いネット右翼が集まり、デモへのすさまじいヘイトスピーチや乱入、殴る蹴るを繰り返してきた。ぼくらデモ参加者はたくさんのケガを負い、モノを奪い取られた。

あんな光景は始めてみたよ。ファシズムってこういうことなのだろう。今この問題と向き合わなければ、これから必ず取り返しのつかないことになるだろう。警察すらも若いネット右翼の勢いにパニックになって僕自身がパクられるかと思った。

だが、彼らの表情やことばや行動を見て、僕には手に取るようにわかるんだ。彼らがどうしてこうなったか、なぜ現代に暴力的な若いネット右翼が増えてきてしまっているか。理由がわかるからこそ、反対するんだ。この先には、自分も他者も破滅させる未来しか無いから。
その交差点でネット右翼が僕らに押し寄せる姿を見て、僕はトラメガフォンを持ってこなかったことを心底後悔した。叫び語りたかったんだ、「目を覚ませ!」と。

今書いている文章の最初を載せます。今の日本のナショナリズムはどう始まったか――いっしょに考え、向き合っていきましょう。

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2000年代のナショナリズム反戦平和運動、そして希望のために

 1991年前後、僕が10歳だったころに日本のバブル経済は崩壊し、それまでの経済成長神話は音を立てて崩れていった。同時期に東西冷戦も崩壊し、戦後日本を規定してきたアメリカやアジアとの関係が変化していく。その結果日本は対米依存と戦争参加をこれまで以上に強めていき、人々の間でのナショナリズムや排外主義も高まっていく。ここではそれらを進めてきた政府の政策と人々の「心情」は何だったのかを批判的に考えたい。そして、思春期でもあった自分はそれに対して何を考えどう動いてきたかも紹介し、平和運動・社会運動がつくりだす展望や関係性に希望を見出したい。

1:前史その1――1990年代の「戦後」
 
 経済グローバリズムによる1990年代以降の長引く不況は、格差と貧困を拡大し、人々に不安と不満を定着させた。また企業活動を最優先させて作られた日本の家庭や教育は、「終身雇用のサラリーマン+専業主婦+親と同じになることを目指して勉強する子ども」という仕組みになっていた。それは70年代から崩れ始めていたが、不況は変化を加速させ、新たな関係性を自分たちで作っていかなければならなくなった。経済的な苦しさと、価値観の混乱が、多くの人に同時に訪れたのである。1997年には山一證券が倒産し、98年には自殺者が3万人を突破する。そして「政治も経済もとにかく変わらなければいけない」と叫ばれ、ネオリベラリズム式の「改革」へ走り始める。

 ここで特に重要なのは、不況は若者たちも直撃したことだ。1994年には「就職氷河期」が訪れ、のちに「ロストジェネレーション」と呼ばれる非正規雇用の若者たちが急速に増えていった。変化が生む不安、不満、焦燥感は、多感な下の世代になるほど当たり前になっただろう。僕は大人たちが慌てふためく姿を見ながら、同じ10代の援助交際や少年犯罪が社会不安のシンボル扱いされ、企業社会へ出る頃には不況がより深刻化する、そんな時代を育ってきた。

 変化を求められたのは外政もだった。湾岸戦争多国籍軍へ十数兆円のカネを支払うも、「人の姿が見えない」と批判され、日本はついにカンボジアPKO自衛隊を派兵した。以降アメリカは日本へより全面的な軍事協力を求め始め、日米新ガイドライン有事法制アフガニスタンイラク戦争への協力や派兵と加速していく。それは憲法9条を完全に空洞化させ、その都度「9条は戦後の遺物であり、もう今の現実に合わないのだ」という声を強くさせた。既成事実を先に作りだして理想を打ち捨てることが常態化する。そして冷戦崩壊期にアジア各国が民主化してきたため、各国の「従軍慰安婦」が第二次大戦中に日本軍に強制連行された痛ましい体験談を語り始めた。これまで抑え込まれて来た声は、日本政府や私たちへ戦争責任を追及する大きな動きになったのだ。

 それらはすべて、多くの人にとって「戦後日本」のあり方を問い直さずにはいられなかった。70年代以降の日本の若者は「政治や社会に無関心」と言われ続けてきたが、この混乱期に育った若者たちには関心が次第に戻ってきた。ここで、今までの理想は「古くなった」のではなく「実現できていなかったのだ」と振り返っていたら。アジアの人々の声に応えて過去を真摯に振り返っていたら。天皇制に代表される戦争責任、日米安保の戦争協力、経済成長一直線の社会を反省し、誰もが共生できる新たな時代へ踏み出すことができたかもしれない。

 だが、そうはならなかった。日本にはアジア差別が根深く存在し、国内の戦争体験も風化していた。また平和運動も一国平和主義に陥り、リアルな問題意識と多くの人に届くことばや行動をあまり作り出せなかった限界もあっただろう。そうした所に一つのわかりやすくて歪んだ答えを作り出したのが、漫画家で『ゴーマニズム宣言』を書いた小林よしのりである。若者にも大きな影響を与えた彼を小熊英二はこう分析する。

 “私は小林よしのりの『戦争論』を読んで、共感はしなかったけれど、「これは売れるだろうな」と思った。記述は間違いだらけだけど、今の時代の気分というか、現代社会に対する漠然とした不満をつかまえていると思ったからです。
 たとえば『戦争論』の冒頭は、渋谷の街頭でサラリーマンがぼんやりした顔で歩き、女子高生が座りこんでいる絵が書かれて、「平和だ…。あちこちがただれてくるような平和さだ」「家族はバラバラ、離婚率は急上昇、援助交際という名でごまかす少女売春、中学生はキレる流行に乗ってナイフで刺しまくり」などと書かれている。そして「戦後の日本」は、アメリカに影響された「戦後民主主義」のもとでミーイズムと利己主義が蔓延し、モラルが崩壊してしまった時代であるとされ、それに対照させて「人びとが公に尽くしていた時代」としての戦争や特攻隊が美化されているわけです。
 つまりあの本は、正確にいえば「戦争論」ではなくて、「戦後批判論」なんです。もちろんこうした戦争認識、戦後認識は大間違いなのですが、ミーイズムにうんざりし、「公」と呼ばれるものを求めたり、何らかの形で政治や社会に関心を持ちたいという今の若者の気分はとらえている。だから『戦争論』は売れるだろうなと思った。”
(「小熊英二さん『<民主>と<愛国>を語る』上下)http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/Democracy_vol1
 
 そして小林は「アメリカの支配から脱却するために」と、憲法改正をして日本も核武装などをすることを主張した。また「謝罪と賠償を求められ続けた歴史を変えるために」と、従軍慰安婦の強制連行を否定する「新しい歴史教科書を作る会」の運動も始めた。どちらもそれによって戦後日本の「誇り」を骨抜きにされたからという目的だった。前者は解決策にならないし、後者は歴史の事実と責任を無視している。だがグローバリズムによる大きな変化の中で、自分の不安や不満を説明してくれるものを求めていた人々は、「そうか、これが日本をダメにした理由だったんだ」と思った。そして「攻撃される日本」に自己を同一化していく。
 
 こうして90年代後半に小林が作り出したスタイルの延長に「2ちゃんねる」でのヘイトスピーチや『嫌韓流』が生まれ、アジア差別とナショナリズムサブカルチャーとして定着していく。ヘイトスピーチはより一般化・匿名化し、朝鮮や中国や日本の市民運動陰謀論で解釈することも肥大化していった。それがどんなに滅茶苦茶な理由であっても、自分の実存と結びつけば簡単には変わらない。核武装はアジアの他国にとって本当に脅威だ。そして慰安婦批判は女性の人権を踏みにじるウーマンヘイトに基づいている。だが彼ら自身が被害者意識を持っているため、「相手がどう感じているか」に気づけないのだ。

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2:前史その2――消費社会と情報社会がすり減らす「わたし」

 だが、自己の不満や望みを仮託したくなったとき、なぜナショナリズムなのだろう。自己に確信を持てない人が抽象的な「国家」に頼りたくなるのは普遍的なことだと言われる。では現代日本で自己を空洞化させた大きな要因は何か。社会学に興味を持った自分は、短絡的な精神論や「外の敵」ではなく自分たちの社会変化からきちんと考えたかった。それは消費資本主義の全面化だ。
 
 学生運動の高揚が終息に向かった70年代以降、資本主義もまた柔軟なサービス業や情報業がメインになり、それが生み出す高度消費社会に多くの人々が適応していった。多くの若者たちも消費する自らの欲望を肯定し、狭い範囲の人間関係を選び取り、日本社会全体が保守化していく。社会学者の吉見俊哉は、若者に人気を集めた「PARCO」の消費戦略や東京ディズニーランドを例に挙げながら、“現代日本社会における日常的現実も、次第にメディアによって提示される平面的な世界の拡張として経験されていくようになった”と書く。チェーン店にインターネット。私たちの周りを娯楽情報と世界への間接的な関わり方が覆っていく。そうした中で日本社会は、今ある現実と向き合いそれを変革するのではなく、天皇制や安保体制、その下での高度資本主義という現実の虚構性を肯定していった。

 そしてそこに、社会を震撼させつつ同世代からは「自分たちの時代の象徴だ」とも語られた89年の宮崎勤事件と97年の神戸連続児童殺傷事件の主要因が見出せる。こうした戦後史の変化は多くの社会学者が共有している。宮崎は公判中に「自分は夢の中にいるようだ」と述べ、少年Aは自らを「透明な存在」と呼んでいた。

 “高度成長を経て、日本各地に広大な郊外が広がり、無数のニュータウンに林立する無数の「演技するハコ」に人びとの人生が閉じ込められていくなかで生じていったのは、他者がいて、自分とは異なる他者たちとの関係性において社会が存在しているという感覚そのものの喪失であった。宮崎勤も少年Aも、そのような他者=自己の存在感を回復するためには、どうしても想像力で祖父や神を召還し、その目の前で他者であるのかどうだかはっきりしない相手を犠牲にしていかなければならないという考えに取り憑かれていった。”(吉見俊哉『ポスト戦後社会』)

 90年代以降の社会変動だけでなく、高度な消費社会、メディア社会もまた若者の自己を空洞化させていた。そして戦後のナショナリズムは漫画や映画といった親しみやすいメディアで表現され、90年代末にインターネットで一気に開花してきた。日本のインターネットはおたくカルチャーとともに発展してきた。もともと「おたく」の若者は、70年代以降に自己を取り巻く現実への不満や虚しさを溜め込みながら生まれていた。彼らの表現行為は、社会変革の代替として始まっていたのだ。「萌え」にメジャー化する一方で、若者の根っこにある閉塞感はメディアを介してナショナリズムで埋め合わせていくことが一つのスタイルになっていく。
 
 もともと高度経済成長以降の日本のナショナリズムは、太平洋戦争の死者に現代人が自分の思い入れを託すことで続いてきた。実際には無残な餓死や命令された玉砕死でしかなくても、「彼らの死の上に今の日本の平和がある」と美化する8月15日の靖国神社が典型である。また冒頭の小林のように「豊かな現代から失われたものがここにある」と言う人々も以前から存在した。だがそこには天皇のために死んだ人しか祭られていないし、東京や大阪の空襲で「虫けらのように」殺された「名も無きひとびと」はもちろん入っていない。人が自分から命令で死にたいと望むだろうか? 昔も今も、誰もが本当は生きたかった。現代人が自分の不満や閉塞感に基づいて、自分のなかで都合よくイメージをつくりだしているだけだ。

 他者との出会いや対話のなかで自己形成するのではなく、どこまでも自己へ閉塞していく(社会や時代の)なかでは、攻撃相手のイメージも自己に都合の良い形で勝手に形成されていく。だから小林も『2ch』も『嫌韓流』も、批判相手には「日本を貶めるプロ市民」「中韓に洗脳されたマスゴミ」「朝鮮人は国へ帰れ」といった紋切り型の妄想イメージをぶつけるようになった。その方が楽でもあるだろう。
そして2000年代も終わりに近づいたいま、彼らは街頭に出てきて直接妄想イメージをぶつけるようになった。彼らは「従軍慰安婦は歴史捏造」といった事実評価を超えて「単なる売春婦、クソだ」などと露骨な個人攻撃をするようになったこと、そして妄想は憎悪に変わり街頭で直接暴力で訴えるようになったことが特長だ。自己へとどこまでも閉塞しながら、街頭で直接暴力に訴える時代が始まったのである。

 不況が深刻になったから排外主義が出てきたと言われる。これも自己が空洞化して、自分の不満や不安と向き合い声に出すことができないからだ。貧困や孤独を作りだしたネオリベラリズムという直接の原因を叩くのではなく、アジアの人たちを自分の根本とは『無関係だからこそ』叩く。排外主義は普遍的なことだが、僕は自己の空洞化の激しさこそが現代日本ならではの特徴と感じている。学校で、職場で、家庭で、地域で、メディアが流す情報の中で、自分を押し殺し主体性を奪われながら生きている人がどれだけ多いだろうか? だからこそこれは、過激な行動が収まったとしても今後もより洗練・定着した形で広まるだろう。

 まとめたい。戦後の日本は、天皇制を存続させ、アメリカに依拠した安保体制を作ってアジアへの戦争責任を逃れたからこそ、経済成長に専念して高度資本主義を達成し、豊かになることができた。それが行き過ぎた結果、国内ではいまや社会への不満や自己の空洞化が生まれた。それをナショナリズムや外国との戦争や外国人への攻撃で回復させようとすることは、不満のそもそもの原因である安保体制と高度資本主義を増幅させるだけのマッチポンプなのだ。それは結果的に自らを追い詰めるだけであり、他者に対する責任放棄と憎悪にもなっていくのだ。

 自分の10代も閉塞していたし、社会に不満を持っていた。だが、僕はそこにはいかなかった。彼らがすり減らした自己を回復させるための行為も、より抽象的な「日本」に自己を同化することで、実際にはさらに自己をすり減らしていると思うからだ。そして私たちには「他者」がいる。戦争や差別が解決策だと思いたくないし、問題は今ある社会構造を誠実に見つめることで解決すべきだ――。また軍事化は政府の政策という現状を追認し、アジア差別は自分より弱いと見える他者でストレスの解消をすること。どちらも人が生きていく上での精神の退廃ではないだろうか。ぼくらはもっと自分自身を活かしながら他者とポジティブな形で関わっていくことができるはずだ――。アメリカの「9.11事件」のあとに自分がアフガニスタンイラク反戦運動に参加し、またここ数年のプレカリアート運動にも参加していくなかで分かってきたのは、そうした希望だったのだ。

 2000年代、自己の空洞化に悩む若者に支持を集め続けた「BUMP OF CHICKEN」は、『Stage of the ground』で“強さを求められる君が 弱くても 唄ってくれるよ ルララ あの月も あの星も すべて君の為の舞台照明 叫んでやれ 絞った声で そこに君がいるってこと”と唄っていた。僕が8月15日に押し寄せた若い右翼を見て言いたくなったのも、「他者を攻撃するのではなく、君がそこにいるってことを叫べ!」ということだったのだ。全てはそこから始まるのだから。(つづく)