2008年のはじめに−−「セイジと社会は生きられる」

●前編

“「ただ、俺にとって残っている武器は、人を信頼することくらいなんだ」”
“「信じたい気持ちは分かる? おまえに分かるのか? いいか、俺は信じたいんじゃない。知ってんだよ。俺は知ってんだ。あいつは犯人じゃねえよ」”(伊坂幸太郎/『ゴールデンスランバー』)

“言語はすべての人間に与えられている。したがって、すべての人間が政治について発言できるはずである。しかし、現実には、一部の人間にしか許されていない。……すなわちデモクラシーとは、「見えていなかったものが見えるようになり、それまで仕事をするだけでよいとされていた人々が共に話し、行動することができる者として自らを示す共通の場面を開く」ことであった。”
“…従って選挙はあってもデモや集会やストライキが滅多にない社会には民主主義は存在しないと断言できよう。”
(『現代思想』2008年1月号「特集・民意」より、松葉祥一&関廣野)

年末に読んだ二冊の小説と雑誌の内容が偶然にもつながっていて、どちらもすごく面白かった。そこで二冊をてがかりに、ぼくの問題意識−いったい今私たちはどんなシャカイで生きていて、何に苦しんでいるのか−−を考えてみたいと思います。これは憲法カフェが始まる時から自分が思っていたことでもあります。

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1.現代的な政治的・社会的排除のはじまり

あなたがもし、毎日仕事やバイトで忙しい人なら、政治や社会のニュースはヤフーのトップページかたまたま映るテレビでしか見られないことも多いと思う。
ぼくも8月に始めた編集の仕事は慣れるにつれどんどんやることが増え、気付けばリアルタイムで知った政治ニュースは小沢の辞任劇くらい。夜遅くに帰ると新聞もネットも読む気になれない。それより自分のココロへ優しく入り込む音楽やマンガや動画やDVDを見たい。それが普通だと思うんだ。疲れと孤独感が蓄積されていく。

また、あなたがもし学生やいわゆるニート状態の人なら、自分で自由に使える時間は多い。
だから何か大きな事件が起きればテレビやネットで色んな情報収集ができる。
画面で踊る政治家や事件の犯人、詳しく解説するテレビ局、みんなが感想を書き込む2ちゃんねるニコニコ動画。自分が出来事の渦中にノリノリで加わっている気分になるかもしれない。
けれど事件はあなたの近くではなく、「みんな」もあなたの隣ではなく、基本的に画面を通してやってくる。ヒマがあるからといって他人や社会とつながれる訳じゃない。よくあるメディア批判をしたいのではなく、単に事実としてそうだと思うんだ。つまり、孤独感や実感のなさは残る。

ところで時間の無い人もある人も、去年一番記憶に残る出来事って何だろう?
安倍首相の辞任劇?OK。沢尻エリカの「KY」?OK。朝昇龍や亀田兄弟のふるまいにムカついた?OK。 これって、それまで人気絶頂だった人が急に手のみんなに平返してバッシングされたことが共通していると思う。
ぼくは見ていて「一体このバッシングは何だ?」と感じた。そういう人は案外多いんじゃないだろうか。

毎日忙しければ政治や社会といった難しいことは考えられない。忙しいと家と職場の往復になるから他者との出会いが無くなる。ヒマがある人は考えられるけど、他者との出会いは同じく難しい。そして忙しくてもヒマでも自分の生活が経済的に苦しければ他人や社会に関心を広げられない。私たちが「ワーキングプア」とか「ニート」とか呼ばれる現象には、経済的な問題だけでなく「社会に関わりが持てない」という問題もある。

すると人はどうなるだろう。
まず、見知らぬ他人とリアルに色々話し合うという感覚がよく分からなくなってくると思うんだ。例えば海外のカフェやパブはとにかく人に出会うために行く人が多いけど、日本は居酒屋もカラオケもあらかじめ友達どうしのための個室が多い。ワンルームアパートも物凄く多い。
そして忙しさは他人と話す気持ちの余裕をうばい、むしろ他人は障害物にすら見える時も多いだろう。満員電車や朝の新宿駅のように。
(さらに続きは:http://srysrysry.blogzine.jp/meniutsuru/2006/04/post_1.html

他人と距離ができ、不信感に変わっていく。
そんな私たちの手元には、それでもケータイ電話やインターネットやテレビがある。
身近なあの子はどうしてるかな。でも、世間のニュースもそこからどんどん入ってくる。実感は無い。でも何か言いたくなる。人と共有したい。人がどう思っているのかを知りたい。そもそも私はこんなに苦労してるのに、世間には偉そうにふんぞり返ってるやつらばかりじゃないか。私はこの手元にある道具を使えば世間とつながれるかもしれない−−。

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2.「ゴールデンスランバー」と他人への信頼

いまの日本小説を代表する作家のひとり・伊坂幸太郎の最新作『ゴールデンスランバー
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC-%E4%BC%8A%E5%9D%82-%E5%B9%B8%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4104596035
は500ページに及ぶ長編。首相暗殺のぬれぎぬを着せられた主人公・青柳が、大学時代の同級生ら色々な人の力を借りて仙台市内を逃げ続ける。
キャッチコピーの通りぐいぐい一気に読めるエンターテイメントでありながら、国家権力・メディア・人々の不信感がからみあうと何が起きるかも描いたとても現代的なストーリーだ。

仙台市内をパレードしていた新首相が、突然上空から近づいたラジコンへりで爆殺された。物語は青柳ではなく、それをテレビで見ていた人たちの会話から先に始まる所がポイントだろう。
テレビは我先にとホントかウソか分からない犯人の目撃情報を大量に流し始めるが、事件翌日、警察が容疑者として青柳の名前と顔写真を公表する。
彼は以前ちがう出来事により良い意味で注目された人物だった。テレビ局は当時の映像を悪く見えるように加工しつつ流す。
その後もさまざまな場所で青柳の目撃情報が流れ、みな一様に「危ない人だった」と口にする。

青柳をテレビで間接的に見る人は、人気者の凋落を楽しんで「危ない奴だな」「もう自殺してるかも」などと好きなだけ妄想をふくらませる。入院中で良かった、もしパソコンが使えたら24時間へばりついていたと思いながら。た
そして街中の人たちがみな話題にし始め、“国内の変質犯罪のありとあらゆるものが、青柳雅春の仕業で、彼さえ逮捕され、何らかの方法で始末されてしまえばそれで一安心とでもいうような気配”が広がっていく。

そもそも仙台市内には、正体不明の連続殺人事件を機に「セキュリティポッド」が何百台も導入されていた。監視カメラのように人々を撮影するだけでなく、近くのパソコンやケータイ電話の通話やメールの内容までも全て記録・保存してしまう。
つまり、見えない殺人犯の恐怖=「他者への不信感」をやわらげることと引き替えに、人々は
自分たちの情報やコミュニケーションの自由を差し出した。
セキュリティポッドに自信を持つケーサツは、これで青柳を逮捕できると豪語する。

そして、物語は反転する。青柳と彼を助ける人たちの視点による本編がはじまる。
青柳は犯人ではなく、それこそ国家権力としか呼べないような大きな力が彼を犯人に仕立て上げようと様々なしかけをしていたという設定。
青柳は逃げる、ひたすら逃げる。
それでも彼が行き詰まった時は、彼を「直接」知っている元恋人、同級生、職場仲間が救いの手を差し伸べる。知恵を絞り、体を動かす。
迫る警察やマスコミ報道に対しては「あんたに青柳君の何が分かるのよ」とやり返す。
セキュリティポッドの原因となった殺人犯や街の不良少年は、「いつもぬれぎぬ着せられるから気持ちは分かるよ」と奇妙な連帯感を見せ協力する。
そして、冒頭の青柳の思いと、マスコミを前にして言い放つ親の思い。

小説だから誇張もあるし、個々人が協力する理由はたしかに書き込みが足りないだろうけど、「信じる」「協力する」こと自体が作者のメッセージなのだろう。

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3.現代的な政治的・社会的排除(マスメディアとインターネットの無限スパイラル)

くりかえそう。
誰もが身近に思える大事件が起きたとき、共通の話題が生まれ、それを誰かと共有していくことでひとはこの「社会」や「セカイ」に生きていることを実感すると思うんだ。今のように、自分の生活への不満や不安が高まればそれだけ意見も言いたくなるだろう。
けれど、他人が信頼できなければメディアと向き合うしかなく、メディアを頼れば他人の情報はますます間接的になる。

「民意」を特集した『現代思想』1月号で、伊藤守さんや樫村愛子さんは去年の「亀田バッシング」や安倍の辞任を分析している。
今のテレビはインターネットと切り離せない。特にニコニコ動画やユーチューブという映像保存の影響力がすごく、みんながリアルタイムで映像の感想を書き込める。
そのためテレビは全体の冷静な背景ではなく、まさに亀田という個人をむきだしに映して、表情、しぐさ、発言の一つひとつが拡大される。ネットでは「これは本気だ」「いや嘘だ」といった深読みが繰り広げられる。本気に見えればまた一転して同情が広がる。
だからこそ民意は、右から左へ左から右へととらえどころなく動く。
テレビはぼくたち受け手を安全で特権的な場所に置いてくれる。そこから政治をジャッジすれば、「自分にどう関係するか」ではなく、パッと見の面白さやその場の「説得力」が基準になるだろう。
実感を欠いた情報は、いったい自分たちが何をやっているのか分からぬまま、他人の痛みへの共感を欠いて暴走するのではないだろうか。

そして巻頭対談の森達也によれば、95年のオウム事件と2001年の9.11事件により「社会には何をするか分からない連中がいる」というイメージが普遍化した。他者との距離は他者への不安に変わってしまうのである。もちろんそれは「セキュリティポッド」のような国家の監視システムを求める気持ちになる。

森達也
“資本主義社会におけるメディアというのは競争原理で動いていますから、みんなに合わせてしまうわけですよね。つまり民意が絶えず増幅される。”と言い、
続けて萱野稔人
“だから例えばヨーロッパから来た人に、何で日本はこんな変なニュースと3面記事ばかりやっているのかと聞かれたら、こう切り返すべきでしょう。これが世界の最先端なんだ、と(笑)。これが資本主義世界の行き着く先なのであり、そこでは人びとはこのように、自分の狭い範囲での快楽とセキュリティ感覚を満足させてくれるようなものだけを追求して終わるんだ、と。”

現状への不満。他者不信。代わりとしてのメディア(や監視システム)。大きな話題。
そうして生み出された私たちの切実な思いが、いま「世論調査結果」とか「民意」とか呼ばれているものだと思うんだ。
でも、それで本当に私たちは幸せになっているかい? もう少しリアルな他人といかにつながることができるのかを考えたくない?
いざ後編へ。

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●後編

“その運動あるいは団体あるいはその「連合」が全体としてどの程度「非同質的」であるか、換言すれば異なる職種、経済的地位、学歴、性別、出自の人びとで構成されているかが重要なのである”(木下ちがや

“意思をどんどん出していかないと、やられる一方でしょう。昔、運動がもっと盛んだった時代は、こっちが押していたじゃないですか。でも向こうも押し返してくるわけだから、こっちが力を緩めれば、権利なんかものすごい勢いでなくなっていく。”(松本哉

「前編」では今のぼくらがメディアを通して他者や社会とつながっていること、それがどんな問題を生んでいるかを早足で考えてきました。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=673425467&owner_id=6309461
次はそこに「政治」を入れます。

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4.2000年代の新しい密室政治

日本の政治、と聞いて何を思い浮かべるだろう。実感のわかない遠く汚い世界。人間味の感じられない政治家や官僚が自組織のために機械的にものごとを決める。そんなイメージの中で、「私たちの声をもっと反映させろ」という参加への欲求は高まってきた。
そこへ21世紀になると小泉首相が登場する。彼は「自民党をぶっ壊す」と宣言し、「改革」を実行した。彼の登場でテレビと政治の結びつきはより深まり、人々は魅了され、参加欲求は満たされた気がしただろう。

だが現実には彼の「改革」は貧困を増大させる「新自由主義」改革であり、アフガンとイラクの二つの侵略戦争を支持して戦後初めて自衛隊を派兵した。

経済政策や外交・軍事の政策は、あらかじめ大きな方向性が決められているものだろう。では、それはどこで決められたか。
自民党と官僚の力が弱まったなら国会のオープンな議論で決められてきたはずだ。
だけど国会の記憶は首相のパフォーマンスの方が強いだろう。
小泉時代に完成した党でも官僚でも国会でも無い新しい場所、それは「経済諮問会議」に代表される首相直属の会議だった。そこには選ばれた基準が不明な企業のトップや大学教授が集まり、「民間出身」であるため私たちの参加欲求を代表したことになっていた。

だが彼らはみな競争と規制緩和を最優先する考え方だった。
そしてイラク大量破壊兵器は無かったのに、戦争支持が今に至るまできちんと追求されていない(他国はみな追求されている)。

また、安倍政権で教育基本法が「改正」(愛国心教育、生徒の教育格差の拡大、教員&学校の競争激化など問題だらけなので「改悪」と呼びたい)された時も、タウンミーティングはやらせの連続、「教育再生会議」のメンツはまたも首相周辺の独断で集められ、「改正派」ばかりになっていた。
こうして権力者はぼくら一人ひとりを物事の決定からどこまでも排除していくのだ。

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5.「強行採決」−−現代的な政治的・社会的排除その4

そして安倍政権では「強行採決」という民主主義の否定が加速する。2006年の年末の国会前。教基法の改悪に反対する人々が数千人集まり、僕やとむやおおえくろしおさんといった後に「憲法カフェ」を始める人たちも雨や寒さの中声を上げていた。

だがそれは無視される。ヒューマンチェーンでは「歩行者の邪魔になるな、壁に張り付け、前に出るな」。
官邸にシュプレヒコールしようとすれば「これ以上近づくな」。フライパンを叩けば「音を出すな」。根拠不明。そして12月15日に強行採決され、怒った人たちは制止を振り切り歩道に溢れて爆発した。
また07年4月には「憲法改正のための国民投票法案」がまたもでたらめと適当な審議の連続で採決され、国会の議論を傍聴しようとした人たちは何度も妨害された。

こうしたリアルな「葛藤」や「悔しさ」や「ぶつかり・交渉」ではなく、流れたのは政治家パフォーマンスと「●月●日、成立の見込み」といった当事者意識の無い予測ばかりであり、それが思い切り外れた朝日新聞に対してとむと「朝日のお葬式デモをやろう」などと盛り上がったものだった。
教育基本法改憲につながる危機感だけでなく、政治から排除されていることへの怒り。ここに憲法カフェの原点がある。

そして2007年に注目されたのは小沢民主党の突然の「大連立」構想と辞任劇だった。
現代思想』1月号でそれを分析した関廣野さんは、まず去年の選挙の与野党逆転劇で国会は完全に空回りしており、通常は100以上提出される法案がろくに審議すらされていなかったことを確認する。
そして小沢なりにそれを打開しようと動いた結果が「大連立」だった。
だが、小沢に欠けていたのは戦後日本の政党政治が限界に来ているという認識だった。
僕なりに言えば「永田町ゲーム」を終わらせようとした事自体が「永田町ゲーム」であり、全国を回った彼は参院選で自分たちを勝たせた「世論」をほとんど信用せずに「次は負ける」と判断したのだった。

そては日本だけではない。
“先進諸国の主要政党は冷戦期の惰性で存続しているだけで、ヨーロッパでは保身のための無原則な連立が目立つ。緑の党や反移民の極右政党は周辺的存在にとどまる。
……こうして伝統的な政党政治は求心力を失い、現代世界では政治生活の予見不可能な断片化が進行している。”(「政党政治はまだ生きているか」)

「国会」や「政党」は誠実に政策議論をする場として機能しておらず、マスコミはそれを埋めるように政治家個人の情報を大量に流してお茶をにごす。政治家もそれを利用する(麻生のオタク趣味のひけらかし)。つまりぼくらは代表されているようで何にも代表されていないのではないだろうか。

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6.あふれだす思い、歴史の転換点

2007年、雨宮処凛さんは自らの内側にある「生きづらさ」が経済的な格差や貧困の広がりと結びつくことを明らかにした。それを「経済的な排除」と呼ぶなら、僕はその根底には「政治的排除」があり、そこに私たちの不安や無力感の根源があると思っている。
政治に関わるとは単に選挙の投票でもなく政治ニュースを見ることでもなく、戦争や経済といった大きなできごとへ誰もが意見を反映できること、また自分たちの生活を自分たちの力とアイデアで決められることだ。

逆に言えばその力とアイデアを持っていないとき、奪われたときに、私たちの不安や閉塞や絶望感が始まっているのではないだろうか。世の中で起きるできごと全てに「どうせ自分は関われないし、勝手に物事決められていくし」と思わされているなら、それはどんなに人を追いつめていくだろう。

ぼくらが生きているのは激動の時代であり、それは世界史的な変化でもある。
いわゆる「近代(モダン)」が終わり始めており、時代は1968年以降・「ポストモダン」へと入っている。それは世界で難民のように世界中を移動する(させられる)人が増え、身近な僕やあなたも仕事や人間関係をどんどん移り変わっていく「流動化」の時代である。
そして両者は「不安定さ=プレカリティ」が共通している。
他国の政治はそれを何とかしようと様々な試行錯誤をしてきた。思想では「マルチチュード」が出てきた。南米では人々の自治運動が盛り上がる。が、それが遅れた日本はありとあらゆる制度が閉塞している。

それゆえぼくらの不安も新しい制度を求める気持ちも増していく。しかし古い制度が残る中で資本主義が強化され続けた結果、『現代思想』1月号で樫村愛子氏が書くように今やシステム化され超スピードで表示される「世論調査」でしか表現されていない。他者とのつながりはインターネットで、政治への参加は世論調査。全てが間接的だ。
そして、情報の裏読みと集団バッシングに明け暮れる。

あふれる情報が私たちに隠しているのは、出来事への実感と、何が本質的な問題かを伝えることだ。
前者は例えば年金や社会保険だけでなく改憲や経済の「改革」の意味をつかみ、それが進んだ世界で生きる自分たちを想像できるようになること。
後者は例えば沖縄や岩国や全国のアメリカ軍基地問題、全く情報の入らないイラク・アフガン自衛隊の今、そして世界は今どうなっていて、今自分たちはどこにいるのか。
活路は政党政治でもなく、選挙だけでもなく、社会運動をどこまでも広げていくことにあるのではないだろうか。
デモで意思表示すること。大小の集会を開くこと。柔軟に労働運動をすること。その過程からさまざまな人に関わってもらい、水平な関係を実現していくこと。

そして、運動や場づくりを通して現代の他者不信を乗り越えていくこと。
これからもますます競争は熾烈になり、生活も苦しく、現状に不満を感じる人は増えるだろう。そして改憲が近づけば反対の動きも盛り上がってゆく。だが監視カメラや街の警備体制も同時に強化されていくはずだ。
何か行動を起こしたいと思っても、例えばデモの規模を広げようとしても、事前に押さえつけられることがこれまで以上に増える。これはこれから真剣なたたかいになっていく。同じ民衆の側も、他者不信では「弾圧される方が悪い」と切り捨ててしまう。結果誰もが行動を起こしづらくなり、社会は悪化し続けてゆくのだから。
だからこそ、今ある(若者)運動の分厚い横のつながりを作っていきたいとも強く思っています。

これが今年始めにあたっての僕の現状認識です。
これからどうしていくかは、「現代思想」の木下ちがやさんの文章、森分大輔さんのハンナ・アレント理解、松葉祥一さんのランシエール理解、「素人の乱」松本さんインタビュー、そして今読んでる「インパクション」の南米(ボリビアやアルゼンチン)の自治運動特集などがとても参考になるでしょう。