2004年の大学卒業論文「戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会、第二部

第一部 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091230 からの続きです。
第三部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071228/1256711643
第三部・最終部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071227  

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第二部 若者に降りてくる消費社会――1970〜80年代の高度消費社会 


今から思えば、戦後日本には大きな軌道修正を図るべきだった時期が少なくとも二回あったのかもしれない。経済的な豊かさや安定した生活という目標をある程度達成した時期に、国家と社会の目標や価値観を根本から議論するべきだった。つまり「個人」と「公共」が結びつく回路を作るべきだったのだ。その最初の時期が、朝鮮特需によって戦前の経済水準を回復し、ようやく人びとが貧しくも落ちついた生活を過ごせるようになった1955年前後であり、次の時期が、高度経済成長が終わり、「3種の神器」や「3C」がどの家庭にもある程度行き渡った1973年前後である。
 だが、どちらの時期も軌道修正はできず、さらなる経済成長を求めてしまった。結果的に消費社会化を深めてしまった。56年は高度経済成長の始まりを告げたが、73年以降に始まったのはいわゆる「高度消費社会化」である。それは高度成長によって確立された「企業中心社会」の構造を変えられなかったことに起因する。産業の中心が、大型製造業が中心の第二次産業から「多品種少量生産型」の第三次産業へ、工業から情報業・サービス業へと移行する中で、若者文化がそれに従う形で変化してしまったからである。
 前章で述べたように、高度成長期の消費社会化が中心的なターゲットにしたのはあくまで会社員や主婦といった大人たちだった。だが高度成長以降はターゲットの低年齢化が進行したのだ。高度成長が終わった1970年代中盤以降の消費の主役は、大学生や20代のOLといった若者たちになった。小林や福田らが「若者の内面に“消費”が深く影響している-」と指摘した現代に至る道を探るのが、この章のテーマである。


第五章 学生運動から「ニュー・ファミリー」へ――団塊世代の転換
 


連合赤軍事件で交差した2つの価値観

1973年のオイルショックにより高度経済成長が終焉した。社会では「省エネ」「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」「のんびり行こうよ俺たちは」といった標語が登場した。ノストラダムスの終末論やオカルト・超能力ブームが起きたのもこの時期であり、高度成長を見直し生活にゆとりを求める機運が高まる。
 この時期のキャッチコピーの一つに旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン」があった。このキャンペーンは特に若い女性たちに広く受け入れられたが、それには70年に創刊した女性雑誌『an・an』と『non-no』が強く影響していた。合わせて「アンノン」と呼ばれた両誌は、国内旅行ガイドを主要企画の一つにしていたからだ。そして主婦でもOLでもない若い女性に向けて新しいライフスタイルを提案し、女性誌はおろか女性たちのあり方をも大きく変えたと言われている。斎藤美奈子は以下のように整理している1)。

“アンノンが「女性解放」に果たした役割は、おそらく電気洗濯機と同じくらい大きい。なぜってそれは、すべてを「趣味=ファッション」にかえてしまったからである。アンノンのファッション革命によって、かつて「家事」や「花嫁修行」の領域にあったものは、ことごとくカジュアルな趣味・消費の対象にかわった。裁縫は流行の既製服を買うためのファッション情報に、炊事は食べ歩きやクッキングというレジャーに、住まいの手入れはインテリアという趣味にである。いままで「女の義務」だったものが「女の子の趣味」にかわる。若い娘たちの気分をこれがどれほど解放したことかわからない。……さらに数年後、成長したアンノン世代に向けて七七年に誕生した『MORE』『クロワッサン』は、「女の人生」までファッションに変えた。ファッショナブルな衣装をまとうように、ファッショナブルな人生を着る。”

主婦も家電製品も高度成長初期のような目新しい存在ではなくなった中で、個人としてのライフスタイルを「消費」によって表現することを女性たちの新しい生き方として提案する。当時の『アンノン』は、「一人旅」の魅力を盛んに主張していた。
 そして、この時期の人びとに大きな転換を印象づけた出来事がもう一つある。連合赤軍浅間山荘事件だ。事件の内容は前章で述べたが、この事件は「社会運動」や「イデオロギー」が戦後日本の中で大きく失墜した出来事として位置づけられる。それは事件の凄惨な結末により「社会運動=恐い、格好悪い」「イデオロギー=硬直している」というイメージが広まったからだ。だが評論家の大塚英志によれば、そうした変化はすでに事件が起きる前の山荘でのやりとりに表れていたという2)。

 “連合赤軍事件で殺された女性たちに共通なのは八0年代消費社会へと通底していくサブカルチャー的感受性である。したがって十二人が殺された山岳ベースで対立していたのは二種類の革命路線ではなく、意味を失う運命にあった男たちの「新左翼」のことばと、時代の変容に忠実に反応しつつあった女たちの消費社会的なことばであり、少なくとも四人の女性の「総括」はそのような「闘争」の結果生じたものではないか。”

その新しい感受性は、あらゆるモノを「かわいい」という表現を基準に判断することであり、連合赤軍に代表される新左翼イデオロギーはその中に崩れ落ちてゆく運命にあったという。若者たちが「個人」を「社会参加」ではなく「消費」と結びつける時代の始まりである。「それは、『an・an』『non-no』と同じく、オイルショック後の経済構造が生産から消費に変化していくことへ忠実に対応していたのだ。
 そして連合赤軍事件と同じ72年、歌手の井上陽水が発表したヒット曲『傘がない』は、まるで「個人」と「公共」を自らの手で結びつける試みの敗北宣言のようであった。

都会では 自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけでも問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
つめたい雨が今日は心に浸みる
君のこと以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?

テレビでは 我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
だけども問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
つめたい雨が僕の目の中に降る
君のこと以外は何も見えなくなる
それはいい事だろ?
(後略)


「ニュー・ファミリー」の形成
 
女性たちが消費社会に適応し男性たちがイデオロギーから離れていった団塊世代が向かったのは、のちに「ニュー・ファミリー」と呼ばれる家族づくりだった。まず71年に結婚・挙式ラッシュが起きる。団塊世代自体が非常に人数が多かったため、それはブライダル産業を創出するほどの数になった。72年前後には『結婚しようよ』『花嫁』『てんとう虫のサンバ』といった結婚の歌がヒットする。71年にTV番組の『新婚さんいらっしゃい』が始まり、漫画も『同棲時代』や『赤色エレジー』や『愛と誠』といった恋愛生活の素晴らしさを描く作品がヒットした。
 結婚ラッシュの次は出産だった。71年から始まった出産ラッシュは、73年にピークを迎えてベビー市場を作りだし、74年まで続く(この71〜74年に生まれた若者たちは後に「団塊ジュニア」と呼ばれる。彼らが1990年代の若者であり、次章で述べる)。
 そして数の多い「ニュー・ファミリー」が住む場所として、この時期団地に替わり一気に増大したのが郊外の「ニュータウン」である。1970年に大阪の千里に国内初のニュータウンが完成し、翌71年には東京の多摩ニュータウンで入居が始まる。さらに関東では東京近県の人口増大も著しかった。1969年に神奈川・埼玉・千葉の三県を合わせた住宅戸数が東京都とほぼ同数になり、以降は住宅建設が鈍化した東京を三県が追い抜いて伸び続ける。ニュータウンは、まさに団塊世代が幸せな家庭生活を築く場所としてイメージされた。
またニュータウンが従来の団地と異なっていたのは、郊外の一戸建て住宅をも実現できる点であった。72年から75年にかけて住宅の広告宣伝費用が業種別の2位に浮上し、70年代後半に30代になった団塊世代が一定の収入を得ると、郊外の持ち家を手にし始めた。それを当て込んだ『MORE』や『クロワッサン』がインテリア特集を組んだ。彼らが週末に食事をする場所としてファミリーレストランが増大し、71年に登場した『すかいらーく』が78年に100店舗を突破する。そんな彼らのモノに囲まれたやさしい夫婦関係や親子関係は「友達夫婦」「友達親子」と形容された。
 そして家族作りに向かう若者たちを象徴するように、1974年に小坂明子の「あなた」という曲がヒットする。

もしもわたしが家を建てたなら
 小さな家を建てたでしょう
 大きな窓と小さなドアーと
 部屋には古い暖炉があるのよ
 (中略)
 家の外では坊やが遊び
 坊やの横には
 あなた、あなた、あなたがいてほしい
 (後略)

 この曲は少なからぬ話題を呼んだ。大規模な学生運動で社会に異議申し立てをしたはずの若者たちが、一転して「私生活主義」「小市民」になっていくように見えたため、そのギャップと変化の早さが話題になったのだ。またこの歌詞では、家庭生活のイメージが“大きな窓”や“古い暖炉”といったモノの細かいディテールで表現されていることに注目したい。社会学者の三浦展は、この時期のテレビコマーシャルの雰囲気をこう分析している3)。

“「愛情はつらつ」では、ジーンズにスニーカーの夫とギンガムチェックのマタニティウェアを着た妻が二人並んで陽の当たる坂道を下ってくる。「金曜日はワインを買う日」では、夫が会社の帰りにスーパーマーケットの紙袋をかかえ、「金曜日には、花買って、パン買って、ワインを買って帰ります」と歌う。新聞広告にはフランスパンとチーズとソーセージとワインの写真が使われた。それがリッチな消費生活の記号だった。
  ここで重要なのは、「ニュー・ファミリー」という言葉とともに、家族がかつてのような生産や労働の単位ではなく、「消費の単位」として確立されていったということである。それは単に必要なものを買うだけでなく、豊かさの記号として物を買うという意味で、「消費社会型」の家族の誕生であった。“

 産業構造が転換する中で若い女性に消費や旅行で自己表現することが宣伝されたように、家族生活もまた消費の場になった。とはいえ大型家電製品は普及を終えていたので、今度は製品の外見やアンティークとしての価値が宣伝され始めた。またその製品に囲まれることがより良いライフスタイルを演出することになると宣伝された。そうした基準でモノを選ぶことは、フランスの思想家ボードリヤールによって「“記号”としてのモノの消費」と呼ばれ、1980年代の消費社会論の流行につながっていく。
そう、団塊世代が「ニュー・ファミリー」を「学生運動に変わる新しい自立だ」と思っても、「自分たちが作り上げたんだ」と思っても、結局の所それは政府や大企業の消費社会が必要としたイメージだった。そして彼らが「家庭」と「消費」を結びつけながら大人になる中で、年少の頃からより純化された消費文化を生きる若者たちが出現してくる。彼らは「シラケ世代」と呼ばれたように、イデオロギーが失墜した後の空虚さの中で生きていた。その替わりに、「消費」を通して自己実現を成し遂げ人間関係を作ろうとするのである。


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第六章 「若者文化」とコミュニケーション――1970年代後半の若者たち


「シラケ世代」の登場
 
学生運動が終わった後に高校や大学へ入学した1950年代半ば生まれの若者たちは、1976年頃に「シラケ世代」と呼ばれるようになる。ではなぜ彼らは「シラケ」ていたのか。1956年生まれの社会学者小谷敏は、「シラケ」の理由を自らの学生時代を振り返って述べている4)。

“われわれが「しらけ世代」と呼ばれ、アパシーにとりつかれていたのは、明らかに全共闘運動の反動である。全共闘の若者たちは熱く盛り上がり、体制に対する異議申し立てを行った。しかし、その結果たるや、安田講堂浅間山荘が象徴する全面敗北であった。若者たちが熱く盛り上がっても、社会の支配的な力の前では無力なものでしかない。そして、セクト的な「連帯」は内ゲバとリンチ殺人の陰惨な結末を迎える。これが、全共闘運動の残した「教訓」であった。だとすれば、全共闘の挫折の後で青春の歩みをはじめた世代が、「盛り上がること」や「連帯」に対して、徹底的に「しらけ」てみせたのも故なきことではない。”

 団塊世代の「盛り上がり」や「連帯」を見せつけられ、しかしいざ自分たちが学生になる頃にはそれが不可能になる。このような屈折した経験が彼らの姿勢を「シラケ」させた。
1959年に生まれた社会学者の宮台真司も、“私たちは上の世代と比べられ、「シラケ世代」と呼ばれたが、むしろ「輝かしさ」を夢見た世代だったからこそ、革命幻想を生きた団塊世代への羨望ゆえに屈折したのである。”と振り返っている5)。
そして78年には「モラトリアム人間」が流行語になる。それを提唱した社会学者の小此木啓吾によれば、いつまでも大人になることを拒否し、自らの社会的立場を決めようとしない若者たちの心性を指す。それは当時の日本社会全体が豊かになったからであり、生業に就かなくても何とか食べていける、明確な思想を持たなくても生きていける、そう若者に思わせたからだった。
小此木の著書を読んだ小谷は、“当時大学四年生で進路決定を迫られていた筆者は、この論文を読んで、ひどく関心したものだ。大学院進学という自分の決定のなかにも、多分に「モラトリアム延長」の気分は含まれていた。そして筆者のまわりには、いつまでも大学を卒業しない連中がごろごろしていた。”と述回している6)。
そして小谷によれば、自分たちには巨大な「若者文化」を生み出した全共闘世代から引き継いだ心性があったが、それは「シラケ」や「モラトリアム」が広がる中で次第に変質したのだという7)。

 “「やさしさ」は70年代のキーワードであった。それは全共闘世代から引き継いだ心性である。しかし、全共闘運動の時代には「世界の若者」に向けられていた「やさしさ」に基づく連帯の感覚が、七0年代にいたると「四畳半」の広さにまで収縮してしまう。閉じた小宇宙のなかで親密な他者とともに、互いの傷口をなめあう「やさしさ」。しかし、この「やさしさ」には欺瞞の匂いがつきまとう。「やさしさ」のベクトルが、他者ではなく自分自身に向いているからだ。”
 
誰もが自閉していく中で、他者との連帯を「四畳半の広さ」に求めていった若者たちは、団塊世代の幅広い「盛り上がり」や「連帯」を可能にしたコミュニケーションとは別のやり方を探ることが必要になった。団塊世代のそれを支えていたのは、宮台真司によれば“ベトナム戦争に代表される大きな社会的出来事”と、“それを処理するための「大人/若者」「体制/反体制」「強者/弱者」といった二項対立図式”であった。そのどちらも失った「シラケ世代」は、オイルショック後の消費社会化を背景に、自分が選び取った商品やサブカルチャーの話題を共有できる相手と人間関係を作り始める。
 

『POPEYE』と『JJ』――カタログが覆っていく若者生活
 
まず72年に創刊した雑誌『ぴあ』は、映画や演劇の上映から音楽のコンサートまで、メジャーな作品からマイナーな作品まで、あらゆる情報を網羅し平等に並列していたため、商品の情報が若者たちにとって重要になる時代の始まりを予感させた。そして76年に創刊された『POPEYE』と75年に創刊された『JJ』は、若者たちの商品やサブカルチャーを利用した人間関係作りを促進した。
特に『POPEYE』は、まだ米国文化の情報が少なかった時代に現地の豊かな文化や商品を次々と紹介し、いくつものブームを巻き起こした。当時は73年に創刊した雑誌『宝島』がアメリカ西海岸のヒッピー的思想をすでに紹介していたが、『POPEYE』は同じ西海岸でもよりポップに洗練されたカレッジ生徒のライフスタイルを紹介した。ジーンズ、コーデュロイパンツといったファッションアイテム。フリスビー、ローラースケートといったアウトドアでの遊び方。そこには細かい商品情報が溢れていた。
また『JJ』は、『an・an』『non・no』が築いた女子大生向けの分野をさらに拡大した。だが『アン・ノン』が商品や旅行を一つのライフスタイルに昇華させていたのに対し、『JJ』は洋服や化粧品の情報をどれだけ多く詰め込めるかという面で勝負していた。同誌は海外の高級なブランドも積極的に紹介し、女子大生のブランドブームを作る。これが『POPEYE』と共通する「カタログ文化」である。
そして『POPEYE』が生み出した最大のブームが「サーファースタイル」だ。『POPEYE』が紹介した米国西海岸のサーファースタイルは当時の若者たちの心をとらえた。神奈川県の湘南海岸に多くの若者がサーフボードを持ってつめかけ、車の上部にサーフボードを固定して街を徘徊する「陸(おか)サーファー」までもが登場した。湘南に集まった若者たちの多さは、一本の波に100人が同時に乗ろうとするほどだった。さらに77年には湘南出身のバンド・サザンオールスターズがデビューしてサーファーたちの文化を歌い上げた。
湘南に集まった若者たちがサーフィンという文化を通して恋愛関係や友人関係を築いたように、78年に若者たちの間で「ディスコ・ブーム」が起きる。それは当時公開されたアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』に主演したジョン・トラボルタの影響だった。彼を真似て「フィーバー」という言葉や男性が女性を踊りに誘う「チークタイム」の作法が流行し、ディスコは若い男女の出会いの場として一気に定着した。もちろんそこでかかる音楽も「ディスコ系」という売れ筋ジャンルになり、今では「ダンス・クラシック」と呼ばれそれを回顧する動きも起きている。こうして「消費文化」を媒介にした人間関係が、若者たちにとっての「公共性」になっていくのである。

 
消費によるコミュニケーション――「なんとなく、クリスタル」

ディスコでかかる音楽が一つのジャンルになったように、この70年代末から若者たちが好む音楽のジャンルが細分化して「○○系」と呼ばれるようになった。「ニューミュージック系」「パンクロック系」「ポップス系」「歌謡曲系」といった具合だ。さらに78年にデビューしたYMOの大ヒットを機に「テクノポップ系」「ニューウエーブ系」とさらに細分化していく。
 若者たちの人間関係は文化と商品で成り立っていたため、文化や商品の細分化により人間関係もいくつかのグループに分かれていった。そして細かくなったグループ内の人間関係を保つために、さらに特有の文化や商品が必要になっていく。若者たちはこのようなループ構造を強めながら70年代から80年代へ向かっていた。それは同時期の団塊世代の「ニュー・ファミリー」が消費によって家族生活を作っていったことと同じ動きであり、細かいモノや情報の差異で利益を生み出す新しい産業構造の結果である点も同じだった。
 若者たちが「個人」と「消費」の関係をより深めていった動きを当時の小説も反映していた。79年に『風の歌を聴け』でデビューした村上春樹の小説は、「ぼく」としか言わない主人公の人格の輪郭が曖昧である分、コーヒーカップやたばこやビールといった様々なモノが描かれ、それが自己像の曖昧さを補完していた。
 そして80年から81年にかけて、現・長野県知事田中康夫のデビュー小説『なんとなく、クリスタル』がベストセラーになり、「クリスタル族」なる流行語を生み出した。この作品は細分化していく若者たちのうちのハイ・センスなグループに属する女子大生の生活を描いていた。東京に住む女子大生は、ファッションや音楽やグルメ料理を消費し、それを扱う店やディスコに通いながら流行の最先端で日々を過ごしている。    この作品の特徴は、その日々の描き方である。作中に出てくる商品や店や街の固有名詞全てに注釈をつけて同時解説することで、主人公の生活がモノの消費を中心に成り立っていることを浮き彫りにしているのである。その注釈の数は何と442個に及ぶ。
 主人公は自らの行動を「結局、私は“なんとなくの気分”で生きているらしい。そんな退廃的で、主体性のない生き方なんて、けしからん、と言われてしまいそうだけれど、昭和三十四年に生まれた、この私は、“気分”が行動のメジャーになってしまっている」と言っている8)。その後に描かれているのは、学校帰りにケーキのお店に寄り、夜はディスコクラブに繰り出しながら、最も新しくて洗練されたスタイルを探す生活である。「ケーキは、六本木のルコントか、銀座のエルドールで買ってみる。」「ディスコ・パーティーがあるのなら、やはりサン・ローランかディオールのワンピース。輸入レコードを買うのなら、青山のパイド・パイパー・ハウスがいい。」といったように9)。
 それは、センスの違いこそあれ当時の都市部の若者たちに顕在してきた行動様式だった。さらには消費都市と化していく東京の姿も反映していた。1980年代の始まりであり、それは若者と社会の関係が店や洋服の名前といった記号の集積で語られ、バブル経済の反映に至る時代である。だが若者たちの文化を媒介にしたコミュニケーションも、産業構造の変化に忠実に対応しただけだったのではないだろうか。全共闘世代の「社会運動」に替わる新しい人間関係だと若者たちが思っていても、高度消費社会が無ければ成り立たないものであった。日本経済が強大な輸出力で世界経済の「ひとり勝ち状態」になる中で、国内では「高度消費社会化」「情報化」と呼ばれながら内需拡大の方針が取られた。そうして20代の若者たちを爛熟した消費文化が覆っていくのである。
(「その2」http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091229/1256711318 につづく)


第七章 高度消費社会に覆われる若者たち――1980年代と「新人類」


内需拡大と「広告ブーム」

1980年代に消費社会が爆発した根本には、日本政府が取った「内需拡大」の方針がある。1970年代に自動車を海外へ輸出し続けていた日本は、79年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるほどの輸出大国へ変貌していた。そして翌80年に日本の自動車生産台数は一千万台を突破して世界一になる。日本車の対米輸出は181万台に及んだため、米国との間に貿易摩擦を引き起こし、80年代の大きな外交問題になっていく。そこで81年に自動車の対米輸出自主規制が行われ、替わりに日本国内でモノの消費を促進する方針が取られた。この年の『生活白書』は、「生活の質的充実とその課題」を副題にしていた。
とはいえ、何度も述べてきたように生活に必要な製品はほぼ出回っており、この頃には「国民の9割が中流意識を持っている」と言われていた。つまり『生活白書』の「課題」とは個々の人生やライフスタイルを充実させるために消費させることであり、身も蓋もない表現をすれば「いかにいらないモノを買ってもらうか」であった。
そうした流れの中で始まったのがいわゆる「広告ブーム」である。世間が『なんとなく、クリスタル』のヒットで新しい若者に注目していた81年、西武百貨店が「不思議、大好き」というキャッチコピーを発表する。それを作成したのは団塊世代のコピーライター糸井重里であった。彼はその前後にも「じぶん、新発見」「おいしい生活」という西武のヒットコピーを作成し、80年代を代表する売れっ子コピーライターになっていく。そして中畑貴志、川崎徹らも続き、「コピー一行が数十万」と言われるほどの広告ブームが巻き起こる。
 糸井が西武で作成したコピーに共通していたのは、「いらないモノを買いに行くこと」を「自己表現」や「新しい生活」に読み替えていく作業だった。「じぶん、新発見」では“できるかぎり、あなたの可能性発見に手をかしたい。西武も、いま、可能性を発見中。期待してください。”と唄われ、「不思議、大好き」では“春になったら、ますます、不思議大好き! 春の西武にいらっしゃいな。不思議の種子がいっぱいですよ。”と唄われ、「おいしい生活」では“自分のおいしさをさがすトリップは、そのまま、自分の生活をさがすことらしい。……あなたと一緒に、西武も、もっと食しん坊になるつもりの一九八二年です。“と唄われていた。
 それはまた、人間は本来自分なりの欲望を持っており、自分なりの欲望に忠実になることが前時代からの「解放」にもなるということだった。糸井は『不思議、大好き』のコンセプトについて“……高度成長で浮き足立っていると思ったら、エネルギーショックでしょげかえったり、なにかいつも物理的な条件で動かされていた時代へのあかんべえみたいな感じ。”と語っている10)。これは明らかに高度成長期の日本社会で価値観が画一化していたことへのアンチテーゼだろう。一躍売れっ子になる糸井は、以前から雑誌『ビックリハウス』で自分が取りまとめ役の連載を始めており、それも渋谷を若者都市として再編成しようとする西武がスポンサーになっていた。糸井が『ヘンタイよいこ新聞』という題名の連載について語る言葉からも、前の時代へのアンチテーゼが伺える11)。

“これだけ多様な価値観が、チカチカと点滅しているいまの時代に、「ワタシ、正常。アノヒト、変態」と、冗談でなく言い放つことのできる人がいたら、もう、それだけで変態である。……自分の「ヘンタイ」性を客観的に見つめられること。これは、想像力の翼をぐんと広げることになる。「いわゆる」で決められた感動や感覚から、自由になれる。……イモ虫を美しいと思う瞬間だって、あってもおかしくないのに、それを言うと「ヘンタイ」と思われる。でも、ヘンタイよいこの間では「へぇ、なるほど」となるのではないか。これは、ある種のユートピア思想ではある。”

 恐らく団塊世代であった糸井の中には、かつての学生運動イデオロギーという“「いわゆる」で決められた感動や感覚”で凝り固まっていったために崩壊したという思いがあったのではないだろうか。「感性」に基づいた行動は、それまでの時代と対置されることで肯定されるのである。それは後述する浅田彰ら、1980年代のオピニオンリーダーたちに共通する論法であるが、団塊世代の糸井の場合は少し違うようだ。それを大塚英志は「遅れてきた階級闘争である」と見なしている12)。

  “……糸井が「うれしい」と喜ぼうと消費者に語りかけているのは、「ヨコナラビの差異」を消費することで「階級」が喪失し、誰もが等しく豊かになった事態であり、つまり「中流幻想」の左翼的肯定こそが糸井のコピーの根幹にある。……広告コピーという記号の操作で糸井は日本が貧乏だった時代に存在した「階層」を消費を通して解体しうる、という感情を隠さない。”

 また大塚は西武新宿線沿線で生まれ育った自らの実感として、西武グループという企業自体が資本主義化の富の再配分によって階層性を無くしていく思考を持っていたと述べている。 
 確かに時代ごとのリアリティがある。当時の日本社会には貧しい時代の記憶がまだ残っていたし、高度成長と学生運動に続くあらたな時代の価値観を見つけられずにいた。そうした中で「さらなる豊かさ」と「自己実現」が結びつけられれば、それは今の私たちでは想像出来ないほど新鮮な価値観に見えたのだろう。モノの豊かさが飽和しきった現代の感覚から1980年代の消費社会を断罪する事は慎むべきだろう。
また学生運動のように単一のイデオロギーが失敗を犯した記憶が生々しく、それを乗り越えるために自分なりの欲望に忠実になることがキャッチコピーに託された。そのコピーを「自分なりの欲望」や「価値観の多様性」が行き着く所まで来た現代の視点から一概に否定することはできないだろう。
 とはいえ、価値観を提示することがどんなに当人たちにとって主体的なことでも、やはりそれは大塚英志も言うように西武のような大資本の力があって初めて可能だったのではないか。その根本には内需を拡大したい日本政府の政策があった。ましてキャッチコピーに託された価値観を受け取る側の若者たちにとってはなおさら主体的とは言えなかっただろう。当時の状況で消費をポジティブに捉えることは、結果的に見れば与えられた自由に過ぎないものを積極的な自由だと思わせていたのではないだろうか。
だからだろうか、当時高校生で『ビックリハウス』に投書していたライターの水元犬太郎は後に“何をやってもいいと言われた自習時間だから、子どもたちは勝手なことをした。でも、誰かが「この時間は自習時間だ」と言ってくれなかったら、何もできない不自由さのなかに、『ビックリハウス』の読者がいたことも事実だ。”“もしどうしても『ビックリハウス』が欲しければ、自分で作ればいいんだ。今度は企業の金抜きで。”と述べている13)。それは言わば若者が自らの手で「公共性」を作り直す作業ではないだろうか。

だが高度消費社会化は尚も強まっていった。広告ブームでは受け手に位置していた1960年代前半生まれの若者たちが今度は主役として注目され始める。彼らは「新人類」と呼ばれ、消費社会に加えて情報化社会をも生き抜く新世代のように持ち上げられていく。


「新人類」と「高度消費社会」

「新人類」の盛り上がりには「ニューアカデミズム」がお墨付きを与えていた。それは80年代前半から構造主義ポスト構造主義といったフランス現代思想を日本に紹介し始めた人びとの動きを指しているが、それらの言説は当時の消費社会と結びついたことで大きな流行になった。糸井重里が新しい時代の感性を広告に託したように、「ニューアカデミズム」の主導者たちもまた、それまでの時代と決別するための新しい行動指針をフランス現代思想に託していた。『構造と力』『逃走論』と立て続けに話題作を書いた経済学者の浅田彰がそれを最も明確にしていた14)。

“ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになって久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。そのことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。……その上であえて言うのだが、ここで「評論家」になってしまうのはいただけない。……対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。……簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。”

全体主義を生み出した近代哲学の主体思想に抗するため、西洋人が自らの問題として練り上げた(ポスト)構造主義思想が、日本では「一時的に対象に没入しつつ、しばらくしたらそれを突き放して次の対象を探す」というわかりやすい行動指針に置き換えられた。この行動指針はどこかで見たものではないだろうか。そう、それは次から次へとモノを消費していくことが求められていた当時の高度消費社会に適合した思想だった。他人と同じモノを求めることが次第に時代遅れになり、それを“いかにも一般大衆が喜びそうなアイデアですね”と自嘲するサントリービールのCMがヒットした。
浅田と同じく中沢新一栗本慎一郎といった若手のスター学者が生まれ、左派論壇の大御所であった吉本隆明は当時の最先端ファッションブランド『コム・デ・ギャルソン』の服を着て『an・an』に登場した。彼らに求められていたのは、使用価値に乏しくデザインにしか差異がないような商品でも、舶来の記号論を用いてそれを消費することに意味を与えることだった。浅田や中沢にとって自らの言説がマーケッターたちに重宝されたことは予想外だったのかも知れないが、結果的に見れば両者は強く結びついてしまった。
城戸秀之はその奇妙な現象を“……消費記号論は、社会科学のパラダイム転換を商品論へと転用し、「記号」をコードの集合的論理から商品差別化の個別的論理に変形する。マーケットへの拘束性を隠しつつ、消費の文化性・個性を強調する一方で、イメージによる商品の消費者への「刷り込み」をねらった商品開発を強調するように[星野1985b:47-48]、人間の「個性」はマーケットを活性化する動員として操作される。”と指摘している15)。
そして消費者として期待されたのが当時の若者たちであり、彼らにその自覚を持たせたのもまた「ニューアカデミズム」の当事者たちだった。浅田彰は、高度経済成長期の日本のような一つの価値観に執着する近代社会を「パラノ型」と名付け、それを超えるような「分裂症的」に行動する消費者のあり方を「スキゾ型」と名付けた。そして「スキゾ型」は近代社会の元で抑圧されてきたが、近代社会の成長は限界に来ており、「スキゾ型」が表舞台に出る時が来たという。浅田はその担い手に若者を“言うまでもなく、子どもたちというのは例外なくスキゾ・キッズだ。すぐに気が散る、よそ見をする、より道をする。”と言いながら指名した16)。そして“スキゾ・キッズの本領を発揮して、メディア・スペースで遊び戯れる時が来た”と宣言した17)。それは浅田自身の20代半ばという年齢の若さや「神童」を思わせる独特の風貌と相まって、若者たちや彼らを取り巻く大人たちへダイレクトに伝わった。
 そうして注目された若者たちが「新人類」と呼ばれるには、『朝日ジャーナル』の「若者たちの神々」という連載も大きな役割を果たした。筑紫哲也編集長は84年第一回・浅田彰から、最終回の田中康夫まで、様々な分野で時代の先端を走る人びとを招き寄せた。そこで語られる時代の感性が、当時の若者たちを象徴するものだと思われていったのだ。そうして「新人類」たち、性格に言えば1960年代前半生まれの若者たちは、様々なモノの消費へ向かっていった。『コム・デ・ギャルソン』に代表されるDCブランドファッションのブーム。ますます細分化する音楽。コンビニエンスストアには『森永おっとっと』のようなガジェット商品が溢れ、すでに出回っていたカップ麺やスナック菓子には「激辛」味のブームが起きる。83年には『東京ディズニーランド』がオープンして関連商品が大ヒットしていき、CMからエリマキトカゲやコアラといった珍奇な動物が人気者になる。都市には高度消費社会の影響で様々な商品が溢れていた。
 だが若者たちが「新人類」と呼ばれたのは、「消費社会」だけでなくもう一つの大きな社会変化に適応していると見られたからだった。それは「情報化」である。


「新人類」と「情報化社会」
 
1980年代は日本社会で情報テクノロジーが急速に発達・普及した時代だった。83年にパソコンの普及台数が100万台を突破し、オフィス環境のOA化が始まっていった。通産省と郵政省が「高度情報社会」を提唱するのは1983年で、85年のつくば科学万博では大型ディスプレイから映像や音響の体感装置まで様々な最新のメディア機器が披露された。この急速な変化の中で生きていた大人世代は、自分たちが変化に対応出来るかのという不安を抱えていた。それに対して、生まれたときから家庭にテレビがある中で育ってきた「新人類」は、情報処理能力や親メディア性の高さで高度情報化社会に対応できる世代だと思われたのである。
実際彼らは10代から20代をメディアの発達と共に過ごしてきた。コンピュータの大幅なダウンサイジングにより、70年代末から次々と新商品が開発されたからである。79年に『インベーダーゲーム』が大流行し、ソニーから『ウォークマン』が発売された。82年にはCDプレイヤーと100万円を切る日本語ワープロが、83年に家庭用ビデオデッキが発売された。そして最も話題を呼んだのは83年のファミリーコンピューター(通称“ファミコン”)の発売だった。浅田彰が“メディア・スペースで遊び戯れる時が来た”と宣言したように、若者文化は映像メディアとの結びつきを強めていく。
映像メディアや情報機器を自在に操る若者たちは、主に次のように評価された。仕事は言われたことだけをテキパキとこなし、仕事後に上司と飲むような従来のコミュニケーションを避ける。その代わりメディア相手だと積極的になり創造性を発揮する。ここには現在の若者とメディアの関係を論じるときの原型が伺えるだろう。言うまでもなくパソコンやテレビゲームやビデオ機器の発達は現在まで続いている。だが若者たちへの見方は、異物を見るような猜疑心も含めつつ、やはりまだ持ち上げる見方の方が多かった。
この時期に発生し現在まで連続している点では、いわゆる「ギョーカイ」を裏読みする現象が挙げられる。これもまた、テレビメディアなどの発達による現象だった。「ギョーカイ」とはコピーライター、放送作家、編集者といったテレビ・雑誌などのマスコミ関係者の総体を指す言葉で、それは片仮名に変換されているように若者たちに自分たちの感性を活かせる職業世界だと思われた。そして、「ギョーカイ」の当事者たちが内幕を自ら暴露する『ホイチョイ・プロダクション』の漫画や放送作家秋元康が手がけた『夕やけニャンニャン』といった作品がヒットした。それは、それまでなら作り手側しか知りようがなかった番組製作の内幕やスタッフの裏話を受け手になる若者も共有するコミュニケーションであった。それにより受け手の側は作り手の意図をあらかじめ読み込むようになっていった。
社会学者の北田暁大はこの若者たちを“この世代に特徴的なのは、斜めに構えることなくしては理解することのできない「笑い」に満たされたメディア体験、およびその体験において獲得した≪裏≫読みのリテラシーの共有だ。”と特徴付け、そのメディアとの共犯関係により“≪巨大な内輪空間≫とでも呼ぶべき奇妙な社会性の磁場が形成された”と指摘している。しかもそれだけではなく、“八0年代テレビ文化によって育まれたお約束に対するアイロニカルな感性は同時に、テレビを含むマスメディア一般に対するシニシズムをも生み出しつつあった”のであり、そうしたマスメディア一般への接し方はその後の若者文化に広がっていったため、“マスコミを愛し嘲笑する「2ちゃんねらー」的心性の素地をそこに見ることができるだろう”というのである18)。
内幕の暴露により、他者をなし崩し的に≪内輪空間≫へ引き込むコミュニケーションの始まりは、現代の若者たちが互いの長所を伸ばし合うよりは互いを相対化して「どっちもどっちさ」と低い次元に落ち着いていくことに影響しているのだろう。
 こうして「消費社会」と「情報化社会」が若者たちのあり方を強く規定していった。高度成長や学生運動のような「社会参加」や「熱い理想」に自己実現を託してきた過去が「ダサイ」と嘲笑され、大人世代もそんな新人類たちを新時代の旗手と見なしていく。ブームは最高潮を迎え、1986年に「新人類」が流行語大賞を獲得する。


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第八章 「おたく」と新興宗教の若者たち――高度消費社会の落とし穴


都市生活者の環境変化

 「新人類」をめぐる盛り上がりが落ち着いてきた1987年頃、日本は空前のバブル景気へ突入していた。土地の地上げ屋や株取引のディーラーが幅をきかせ、普通の人びとがマネーゲームに乗り出す狂騒が幕を開ける。これまで見てきたものが若者をめぐる言説の変化なら、若者の日常生活の環境も同じように変化していた。言説面で「自由な消費者」と持ち上げられたように、実際の都市生活もよく言えば自由で悪く言えば孤独になった。若者が持ち上げられる事が無くなった現代でも、生活の孤独化は進んでいる。ここではその始まりを追ってみたい。
 80年代の都市生活に最も影響したのは、恐らくワンルームマンションとコンビニエンスストアの急増である。まずワンルームマンションは82年から83年にかけて東京二十三区内で建築ラッシュが起き、83年の建築申確認請数は前年の四倍近くに及んだ。そこに入居したのは親元を離れた独身の若者たちであった。彼らを引きつけたのは都市の単身生活者が感じるような孤独なイメージがなく、「自由で自分らしい生活が出来る」といったキャッチコピーがあるからだった。また、彼らがバブル経済に向かって巨大化していく東京で学生生活や仕事生活を送るための受け皿を求めているからでもあった。評論家の芹沢俊介は当時のワンルームマンションが選ばれる動機を“情報産業のなかにいること、そこで生きていることがすべての優先ごとであるという認識。これがワンルームマンションを選ばせている”と位置づけている。19)”“ワンルームは、高度情報化社会を生きようとする情報人間(発信し受信する主体)を容れる身体のようなものである。”と推測している20)。さらに84年からは建築ラッシュが東京の郊外や地方都市にも広がっていく。
 ワンルームマンションに住む単身者の増加を狙って様々な商売が成立する。まず82年から86年にかけてコンビニエンスストアの総数が1.7倍に増加し、24時間営業が定着していく。業界最大手の『セブンイレブン』は82年に商品の売り上げ情報が一目で表示される「POSシステム」の導入を始める。これにより売れ筋商品と死に筋商品の把握が容易になり、24時間売れ筋商品のみが棚に陳列されるようになる。そこで売られる様々なガジェット商品やレトルト食品が開発され売り上げを伸ばしていく。そして「POSシステム」が評価された『セブンイレブン』では87年から東京電力の料金支払いが可能になり、様々な公共料金や宅配便、チケット販売などのサービスを扱うようになる。それは多忙な都市生活者にとって非常に便利なシステムだっただろう。こうしてコンビニエンスストアは単身者の若者を引き寄せると共に地域の情報発信地になっていく。そして『セブンイレブン』は03年に一万店を突破した。
 そしてこれらが生み出す新しい生活様式を人びとに印象付けたのが、『セブンイレブン』の『けいこさんのいなり寿司』というCMだ。マンションの一室で夜中に急にいなり寿司を食べたくなった若い女性が、「いなりずし、いなりずし」とメモし始め、『セブンイレブン』に駆け込んでいなり寿司を買い「空いてて良かった」と微笑むストーリーだ。そこに「けいこさんにはけいこさんのセブンイレブン」というアナウンスが被せられる。つまり単身者の若者にはそれぞれの欲望があり、コンビニエンスストアがそれを満たすべくいつでも待機しているというメッセージだろう。またこれまでなら近所の人目を気にして夜中にいなり寿司を買いに行くことなど出来なかったが、こうしたCMのライトなイメージがそれを可能にした。
 さらに同じ時期、一人暮らしや家族と一緒に暮らす若者でも、テレビや電話を一人一台手に入れられるようになった。電話は85年の電電公社の民営化で買い切り制に移行し、単身者は自分用に買い、家族が居る若者でも多機能電話の普及で家族に聞かれず自分の部屋で電話が出来るようになったからだ。またテレビやビデオや冷蔵庫といった大型家電製品も、87年から韓国や台湾といったアジアの新興工業国で作られた安価な製品が都内のスーパーやデパートに置かれ始めた。値段は3〜4万円で、単身者の若者でも一式を揃えられる値段であり、それらを扱う『ダイクマ』のようなロードサイドショップも増加した。ビデオデッキが若者の間で普及した結果、レンタルビデオ店が急速に増えていく。これが前節で述べたような若者とメディアとの強い結びつきの一例だ。89年に昭和天皇が死去した時、テレビが天皇報道一色になる中で、若者たちがレンタルビデオ店に詰めかけた事が話題になった。そして言うまでもなく、これらの変化は1980年代の高度消費社会の産物だった。
宮台真司は、80年代の都市生活の変化を、高度成長期の団地の増加に続く「第二段階の郊外化」と名付けている。そしてそこに住む若者の行動は“ワンルームマンションに住む単身者、あるいは家族と一緒に住んでいるのに「個室化」した「疑似単身者」が、なぜか夜中にいなり寿司が食べたくなってコンビニに行く。ところが、なぜかレディコミ・告白投稿誌・写真週刊誌があって、暇つぶしに買って帰宅。ところが、なぜか手元にコードレスホンがあり、家族を気にせずテレクラに電話する”ということを可能にしたとまとめている21)。ちなみに“なぜか”という点がポイントだろう。それは消費者の主体的な選択ではなくいつのまにか高度消費社会に誘導されていたことを表しているのではないだろうか。
 都会で一人暮らしを始める若者たち。彼の住居をワンルームマンションが、彼の買い物をコンビニエンスストアが、文化との関わりをテレビやビデオが担い、都市生活につきものの孤独感を自由の謳歌に変えてくれる。これまで食事や文化体験には他者との関わりが必要だったが、それを無くして自分のペースで欲求を満たせるようになった。1960年代末の学生運動の若者たちは“近代的なビルの中に生きていることは、いいようのない人間空白”と言っていたが、1980年代の若者たちにはお洒落で理想的な生活だと思われるようになった。生活環境の個別化は1990年代にますます強まっていくのだが、バブルが崩壊した若者たちとってそれは理想でも幻想でも無くなっていく。
 さてもう一つ、団塊世代が築いた「ニュー・ファミリー」のその後に触れておきたい。70年代には新しく理想的だった家族像も、80年代中盤にはごくありふれたものになり、その矛盾が噴出してきた。それを象徴するのが83年の『金曜日の妻たちへ』というドラマのヒットである。団塊世代の三組の夫婦が主人公で、舞台は代表的なニュータウンの一つ・『たまプラーザ』で、夫の不在に空虚さを感じた妻たちが不倫をする物語だった。その後も同種のドラマが続出し、主婦の不倫ドラマが一般化する。ここに来て「ニュー・ファミリー」の幻想は完全に冷めてきていた。いわばそれが「消費のための家族」でしかないことが露見し始めたのである。彼らの子どもである「団塊ジュニア世代」は冷めていく家庭の中で育ってきたため、90年代は家庭作りに幻想を持たない若者たちが主流になっていく。このように、都市生活でも家庭生活でも、1990年代の若者たちは80年代までのような幻想を持たなくなっていくのである。
 だが90年代の若者たちを論じる前に、80年代の若者と社会の関係が破綻していったことを見る必要がある。それを象徴したのが、89年の連続幼女殺害事件と、95年のオウム真理教事件である。

「おたく」と宮崎勤事件――消える若者幻想

 一つの時代に盛り上がった出来事に対しては、必ず後で反動が来る。89年の連続幼女誘拐殺害事件を機に起こった「おたく」へのバッシングは、80年代に一斉を風靡した新人類論への反動だったのではないだろうか。
 1980年代の若者たちは、誰もが革新的な「新人類」として振る舞っていた訳ではない。ごく普通に過ごしていた若者も多いだろうし、さらに暗く孤独な生活を送っていた若者もいただろう。80年代前半に「ネクラ(根暗)/ネアカ(根明)」という分類が流行していたように、コミュニケーションが不得手な若者も一定数存在していた。そのような人びとが漫画やアニメといったメディアに耽溺するようになったのがいわゆる「おたく」である。そして「新人類」と「おたく」はまさに同じ世代の若者だった。
 「新人類」論が世間を席巻する影で、「おたく」と言われる人びとも独自の文化を形成していた。70年代終わりの『宇宙戦艦ヤマト』や、80年代初頭のロリコン漫画や、『機動戦士ガンダム』の大ヒット。様々な漫画やアニメが流行し、プロ作品のパロディ漫画である「同人誌」が幕張メッセを貸し切って販売されるほど増えていった。共に宇宙を舞台にしていた『ヤマト』や『ガンダム』に共通していたのは、大塚英志によれば作品の中に現実の世界を肩代わりするような「大きな物語」が構築されているということだった。大塚は作品という虚構の中に「大きな物語」を求める受け手の心理を“こういう受け手の側の過剰な読み込みこそが「おたく」の最大の特徴である。虚構の世界を現実世界と同等の統辞で成り立っているのだと見なす思考と、それを出発点とする想像力のあり方こそが「おたく」表現の本質である。”と規定している22)。
 この時代のおたく表現が「大きな物語」を求めるに至った背景を、大塚英志は“現実の世界にマルクス主義的な歴史像を描き出すことが困難になった後、その代償として、仮想世界に歴史が求められていく”と述べている23)。すなわちよく言われているような対人関係を忌避した結果「おたく」になるという解釈は(少なくともこの時期の「おたく」に対しては)正しくない。世界に意味を求め、他者との交流を通して世界観を成就させたいが、それが不可能になったから「おたく」系の文化を通して世界と関わっているのである。その世界とは学生運動も高度成長も無くなった1970年代後半から80年代の日本だった。そして文化の選択で自己像を確保するのも他者とコミュニケーションするのも「新人類」と同じ行動原理であり、「おたく」という名称はそもそも彼らが他人に「お宅さあ……」と呼びかけることから取られたのである。このように、「おたく」は決して一部の特異な人種ではなく、同時代の若者たちに広く見られた特徴を内包している。
 だが89年に宮崎勤青年が起こした連続幼女殺害事件により、「おたく」はネガティブな人種であるというイメージが一気に広まってしまった。それは宮崎青年が4人の幼女を誘拐・殺害した理由にある。ロリコン漫画やアニメやビデオといったメディアに耽溺しており、その影響で“現実と虚構の区別がつかない”状態となり幼女にわいせつしようと思ったからだ、と広く宣伝されたからである。数千本のビデオテープやアダルトコミックが山のように積まれた宮崎青年の部屋の写真がその印象を強くした(だが大塚英志は部屋の配置が取材記者によって意図的に作られたと主張している)。
 この事件で若者が「高度情報化社会」の悪影響を受けていると批判されたのは、それまで「新人類」が「情報化社会の主役」と持ち上げられてきたことの反動なのではないだろうか。守弘仁志は当時の報道を振り返りながら“……「情報新人類」である若者に対して、大人社会が根底にもっていた胡散臭い感情が「それ見たことか」という口調で発散されたものとしてみることができるだろう”“八0年代の情報・メディアに関する若者論は、一方で若者をおだて、他方でその椅子を速やかに外すということをやったようだ”と述べている24)。そのため、「現実と虚構の区別がつかない」という急に降ってわいたような批判は紋切り型の面が否めないだろう。
批評家の東浩紀も、“オタクたちが社会的現実よりも虚構を選ぶのは、その両者の区別がつかなくなっているからではなく、社会的現実が与えてくれる価値規範と虚構が与えてくれる価値規範のあいだのどちらが彼らの人間関係にとって有効なのか、たとえば、朝日新聞を読んで選挙に行くことと、アニメ誌を片手に即売会に並ぶことと、そのどちらが友人たちとのコミュニケーションをより円滑に進ませるのか、その有効性が天秤にかけられた結果である。”と反論している25)。
 だが東が言うように80年代の日本でもはや社会的現実が価値規範を与えてくれなくなっていることも事実だった。そして社会の方は問題にされることなく、「おたく」という特定人種のメンタリティの問題にされてしまった。そのため90年代以降の「おたく」たちはバッシングに対応して表面的にはあか抜けたが、日本における情報社会のあり方は変わらなかった。そして次第に低年齢化されていく。だが問われるべきだったのは、(朝日)新聞を読んで知るような社会事象への関心も、選挙に行くような公共政策に関わるプロセスも失墜した状態で、メディア情報やメディアコミュニケーションだけを増幅させていいのかという事である。そこに成立する「公共性」は果たして本当の「公共性」だと言えるのだろうか?

新興宗教オウム真理教事件――80年代への反動

 大塚や東が説明した「おたく」の行動原理は、1995年に日本中を震撼させたオウム真理教にも共通していた。この事件は非常に規模が大きく、多岐に渡って論じられたため、その中からここでは「世代」に注目してみたい。
オウム真理教の幹部達は、1955年生まれの麻原教祖を始めそのほとんどが50年代後半〜60年代前半生まれであり、80年代の若者たちだった。1980年代は消費社会の反映の影で新興宗教ブームが起こった時代でもあったのだ。幸福の科学統一教会、エホバの商人といった宗教団体が若者の支持を獲得していくが、オウム真理教もその一つだった。
そこに集まった若者は、80年代の消費社会に馴染めなかった人びとが多かった。ある人は最初から消費社会に馴染めず、自らの良心を満たせないその社会に違和を感じていた。宮台真司は、そのようにして行き場を無くして苛立つ若者達にオウム真理教が活躍の場を与えたのだと主張している。また、ある人は消費社会の中で様々な「自己実現」を目指しながら結局そのどれもに満足することができなかった。
例えば大塚英志は“これらオウムの女性たちの前歴から浮かび上がるのは、一つには彼女たちの職業が今はその呼び名さえ死語になってしまったカタカナ職業に集中することだ。……それらは八0年代の消費社会が女性たちに示した華やかな可能性であり、それらはまさに自己実現なり自己表現の手だてとなるような職業であった”と述べている26)。総じて、「おたく」と同じように80年代消費社会が生み出した負の側面を新興宗教が引き受けていったということになる。
ちなみに新興宗教の参加者が増えただけでなく、いわゆる「自己改造セミナー」も80年代後半にブームになっている。三浦展によれば、1960年代に連続射殺事件を起こした永山則夫の時代と比べて、自らを取り巻く社会という環境がもはや動かし難くなっており、自己改造セミナーのブームはその反動だという27)。

永山則夫は極貧の家庭に生まれ、集団就職し、貧富の差のある社会を憎み、殺人を犯した。彼にとって自己の不幸の理由が社会の貧富の差にあることはまったく自明であった。……それに対して、オウム真理教の信者の多くは、経済大国日本を支えた郊外中流家庭の出身である。したがって彼らが自分の不幸の原因が社会にあると考えることは困難であり、むしろ自分の親とか、自分自身に不幸の原因があると考える傾向が強まっていく。が、親は変えることができない。しかし親からは逃げることはできる。だが自分からは絶対に逃れることができない。もし自分を不幸であると感じ、そこからの脱出を求めるなら、自己そのものを修行によって変革し、まったく異なる自分に生まれ変わるしかない。それはどうしたら可能か? そこに自己啓発セミナーや新興宗教の市場が成立した。”

 日本のような高度に純化された資本主義社会では、誰もが情報や商品の受け手になるしかない。社会を作り上げていく過程に関われない閉塞感が、若者たちの関心を自己の意識と身体に向かわせた。
そして大塚英志によれば、「おたく」の若者たちや「新人類」の若者たちがサブカルチャーで自己と他者の関係を築いたように、そもそもオウム真理教の教義自体が70年代や80年代のサブカルチャーを繋ぎ合わせたものだったという。確かにオウムの施設には『宇宙戦艦ヤマト』から取られた名前が付けられ、陰謀史観を持ち出すときの「核」「毒ガス」といったイメージも漫画の『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』からの明らかな影響を受けている。
だからこそ1958生まれの大塚は“……ぼくは彼らの思考を構成する一つひとつのことばや彼らのふるまいの出自を手にとるように記述できる。それはサブカルチャー的な断片の集積に他ならず、稀に思想や宗教の語が紛れ込んでいたとしても、それらは八0年代の<知の商品化>の残滓以外の何ものでもない。”と語っている28)。
 だが情報化を生きる若者たちがやがて「おたく」バッシングを受けたように、1990年代の日本にはもはやサブカルチャーの思想化を受け入れる余地は無く、それが一般社会からは奇怪に見える新興宗教であれば尚更だった。91年から92年にかけて幸福の科学統一協会が社会問題になり、信者の若者たちを「一般社会」へ「引き戻す」ための報道や運動が行われた。そしてオウム真理教は、1994年に長野県松本市と95年に東京の営団地下鉄へそれぞれ猛毒のサリンを散布するテロを起こし、計18人を死亡させた。彼らが引き起こした数々の大事件は、「80年代の若者像の破綻」「おたくの連合赤軍」などと同世代の識者によって熱心に論じられ、やがて冷めていった。
 こうして、「消費社会を軽やかに生きる新人類」や「おたく」といった1980年代の若者像は崩壊していった。しかし彼らを生んだ高度消費社会が変わった訳でもなく、失われた「個人」と「公共」を結びつける回路が再生した訳でもなく、消費社会の根本にある高度資本主義が省みられることはついになかった。
むしろ1990年代も消費社会は強化を続けていく。1980年代の「消費する若者」はあくまで大学生や若手社会人といった「20代」の若者たちであり、それに替わる新たな消費のターゲットを開拓していくからだ。それはさらなる低年齢化――つまり10代の少年少女たちだった。まだ自我が成長過程にある頃から取り囲まれることで、少年少女の内面は消費文化とより深く結びついていくのである。

第3部 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071228/1256711643 に続く。