2004年の大学卒業論文「戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会、第三部


第二部 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071229 からの続きです。
序章・第一部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091230
第三部の続き・最終部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071227

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第三部 10代を覆う消費社会――1990年代以降の若者たち


 1980年代の楽観的な消費社会論を支えていた日本のバブル経済は、1991年前後に崩壊した。また89年に世界の東西冷戦体制も崩壊し、1990年代の日本は政治、経済、社会とあらゆる分野で混迷の度合いを深めていく。
経済の混乱は「経済大国」と言われ続けた日本の自己像やプライドを揺るがし、終身雇用や年功序列の日本型雇用システムが急速に消えていった。政治の混乱は、日本という国の戦後のあり方を問い直さずにはいられなかった。それは「左」の立場からは国民国家批判や戦争責任を、「右」の立場からは戦後批判としての「愛国心」を主張していくことになった。「右」の代表例が序章で取り上げた小林よしのり福田和也だったが、彼らが批判していた若者たちこそこの章で取り上げる1990年代の若者である。
確かに「援助交際」や「キレる少年」といったそれまでの常識を越えた10代の少年少女の振るまいが話題になり、大人世代によるバッシングはかつてなく盛んになる(なお、本章では80年代までの若者論が「20代の若者」を中心にしていた事と区別するために、90年代の10代を「少年少女」と呼ぶ)。だがここでは安易なバッシングに与するのではなく、彼らがこれまで見てきた消費社会化と情報化の結果に登場したと考えたい。「若者論」の主役が80年代までの20代から90年代の10代へ移行したように、90年代の企業社会もターゲットの中心を10代へ移行させていったからだ。その中でまだ若い「個人」と「社会」の関係はどのようなものになったのだろうか。またそれが生み出した問題とは何なのだろうか。


第九章 渋谷と「コギャル」の深き関係――90年代消費社会と女子高生

10代を覆い始めた消費文化

I’m proud
こわれそうでくずれそな
情熱を つなぎとめる何か
いつも探し続けていた
どうしてあんなに夢が
素直に見れなくなってた?
街中でいる場所なんて
どこにもない
身体中から愛がこぼれていた

ひとごみをすりぬける
大人が誘いの手をひく
経験がふえてゆく
避けて通れなくなってた
さまよったって
愛すること誇れる誰かに
会えなさそうで
会えそな気がしてたから
生きてた  
華原朋美『I'm proud』)

東京・渋谷の街が「ストリート」と呼ばれ始め、そこに集う10代の少年少女たちが「チーマー」「コギャル」などと注目されるようになったのはいつからなのだろうか。
 渋谷はもともと1970年代に西武コクドグループが若者向けの街として再開発した。街全体を単一のコンセプトで設計したことにより、渋谷は現在のような「消費」に特化された都市になっていった。それでも1980年代までは文化産業の流行に敏感な「新人類」の若者や「ギョーカイ」の人びとを中心に動いており、彼らは西武パルコや各種レコード店から発信される最先端の文化を探し求めていた。
 そこから10代の少年少女たちが渋谷へ集まり始め、マスコミも注目するようになったのは、80年代末に「チーマー」と呼ばれる粗暴な少年グループが渋谷で起こす抗争が話題になったからだろう。それは外見や組織のあり方が日本の従来の暴走族よりも米国の少年ギャング集団に近かったため、彼らがよく居た渋谷の「センター街」が日本における「危険なストリート」の代名詞になっていったのだ。
 また「チーマー」と時を同じくした89年頃に、渋谷に集まる10代の少年少女たちのカジュアルなファッションが「渋カジ」と呼ばれ注目された。それはポロ・ラルフローレンやニューバランスのスニーカーや紺のブレザーといった定番アイテムを「自分流」に着こなすスタイルであり、トレンドアイテムの低年齢化を一気に推し進めた。現代の若者たちが古着や輸入品を駆使して作る多種多様なカジュアルスタイルはここから始まっているほど話題になった。
 「チーマー」を構成していたのも「渋カジファッション」をしていたのも、1971〜74年に生まれた「団塊ジュニア」世代である。それゆえ彼らは中高生の頃から「若者論」の標的になったが、それはまた彼らの時代から企業の商品開発やマーケティングが中高生を中心にしていくことでもあった。「団塊ジュニア」の世代は親の団塊世代と同じく人数が多かったため、企業には彼らを取り込まなければ生き残っていけないという危機感があった。そのため「新人類」を対象とした若者マーケティングが頭打ちになる80年代後半頃から、10代向けの新しい商品が様々な分野で増えていく。
 まず87年に女子中高生が朝の登校前に洗髪することが社会現象になり、「朝シャン」なる流行語が生まれ、企業は専用洗面台やリンスインシャンプーといった関連商品を開発した。またムースやジェルといった男性化粧品も種類を増やし、若い男性向けファッション専門誌『メンズノンノ』や『ファインボーイズ』の創刊で男子高校生のお洒落が日常化した。また15歳をメインターゲットにしたソニーのミニコンポ『リバティ』や、高校生をターゲットにした『日清パワーステーション』といったライブハウスが作られた。87〜88年にはアメリカンキャラクターの小物グッズが少女たちの間で大ブームになり、渋谷の『ソニープラザ』がアメリカ小物主体の商品構成に変えて売り上げを急増させ、88年には『渋谷ロフト』も開店。シンプルでファッショナブルな雑貨や文房具は10代向けの大きな市場を形成していくことになる。ちまちました小物や何十色も作られたカラーペンは、80年代前半に語られた「多品種少量生産」の産業構造をまさに体現していた。また80年代後半は日本のバブル経済絶頂期でもあり、高校生アルバイターの需要増加と親に余剰所得のできたことが10代の消費を支えていた。 
 この時期に、10代の少年少女たちを消費の主役として分析するマーケティング書籍が相次いで出版されている。『団塊ジュニア――15世代白書』(辻中俊樹編著、88年)、『「団塊ジュニア」をつかまえる法』(辻中俊樹、89年)、『ティーンズ解体新書――「超適応世代」は消費社会をどう変えるのか』(ODSティーンズ研究会、90年)、『「女の子」マーケティング 消費トレンドをリードする団塊ジュニアの研究』(水喜習平、91年)といったものである。        
このように「団塊ジュニア世代」を取り巻く環境はその後の10代へと続く様々な変化を見せていたが、中でも重要なのは87〜88年頃に私立高校が行った制服のモデルチェンジである。人数の多い「団塊ジュニア」世代が高校へ入学し、後は入学生が減っていくだけという状況になった時、私立高校はお洒落な制服に変えることで他校との生き残りをかけた差別化を図ったのだ。若者の流行を観測する雑誌『アクロス』の編集部は以下のようにまとめている1)。

“セーラー服や紺の車ひだジャンパースカートが定番だった制服が、今街でよく見かけるブレザー+チェックのミニスカートといったタイプに一斉に変わり始めたのだ。いかにもお嬢様校の雰囲気を作り上げたり、DCブランドのデザイナーが起用されたり、もはや校風や偏差値ではなく制服で高校選びをする時代になったともいえる。87年に初版が出版された森伸之著『東京女子高制服図鑑』は、どちらかというと男性マニア向けオタク本といった趣だが、いつのまにか書店の受験コーナーに並べられるようになっていた。……ちなみにこの本によると、81年にはわずか一校しかなかったタータンチェック柄の制服が、モデルチェンジが盛んだった88年に18校、94年には36校と、急速に増えていることがわかる。”

これは学校教育までもが少年少女を消費社会の中に位置づけられていくことであり、80年代前半に校内暴力やいじめで荒廃した学校が、ブランドやファッションの記号へと意味を変えながら再興することでもあった。そして女子高生の制服がファッションアイテムになったことが、90年代の女子高生の消費社会化と風俗現象化に大きな影響を与えた。その後の女子高生は“……制服もだんだん自分たちなりにおしゃれに見えるよう、スカートの丈をもっと短くしたり、ソックスの長さにこだわってみたり、学校指定以外のかばんを持ったりという変化が見えてきた。”からである2)。


10代に降りる「情報化」と自己/他者の記号化

 それでは、消費社会が低年齢化していく中で育ってきた少年少女の社会関係や人間関係はどのようなものになったのだろうか。
 「団塊ジュニア」が10代後半で注目されていた88年頃から、彼らにとってのメディアである10代向けの雑誌『セブンティーン』や『プチセブン』が内容の方向転換を始める。
少女コミックの連載を中止し、アイドル・芸能情報も減らし、ファッション情報・ダイエット・恋愛・生活情報などを中心にしていった。雑誌を読者にとってより身近なものにする試みであり、それにより両誌は90年代に部数を大幅に伸ばした。
身近な生活情報は、雑誌による「上からの押しつけ」ではなく、雑誌と読者の双方向のコミュニケーションが可能なメディアだと思われたのだ。それはいわば読者にとって「雑誌が友達化」することであった。このため雑誌メディアではそれまでのジャニーズのスター等ではなく、より等身大なモデル出身の女性が中心になり、彼女が自らの私生活を雑誌で公開することでブーム商品や消費のモデル生まれていく。そして90年代半ばになると『egg』や『Cawaii!』といった一般の女子高生がそのまま「読者モデル」として登場する雑誌が人気を博していった。
 そして10代向けメディアがより読者へ歩み寄るだけでなく、女子高生の側からも最近身の回りで流行している商品やスポットの情報を投稿や読者アンケートで雑誌へ提供するようになった。そしてここに企業のマーケッターが目をつけて商品を開発するようになった。つまり、80年代には主に大学生や20代の若者が参加していた商品の消費と開発のサイクルへ、90年代になると10代の女子高生が参加するようになったのである。『流行観測アクロス』は、団塊ジュニアのさらに下の世代を取り上げながら10代とメディアと企業の情報サイクルを解説している。3)

“なかでも彼らのくちコミは影響力絶大な情報として注目度が高い。雑誌には「高校生の流行はこれだ!」といったフレーズが目立つし、実際にヒット商品を見てみると缶紅茶のピコー、つぶつぶいちごポッキー、パンテーンシャンプーなど、高校生の口コミが人気に火をつけた商品がかなりある。『プチセブン』『セブンティーン』などのティーンズ誌には、定期的に5000人、1万人規模のアンケート調査を行い、彼女たちの好きなお菓子から文房具のブランドまでをランキングにする目玉企画があるが、そのデータは彼女たちだけではなく、企業のマーケティング担当者に明らかにアピールしている。『プチセブン』はあの「電通報」に広告を掲載していたほど。高校生のくちコミは雑誌に掲載されて拡張され、さらに企業にマーケティングされて商品が作られ、またそれがくちコミにより広まり……そんなサイクルがビジネスに組み込まれているような構図になっている。”

女子高生は、ある商品を「良品」と認める選択権が自分たちの手にゆだねられることで、誰よりも早く意外なヒット商品を見つけ出せば、それで仲間内のヒーローになれるようになった。それが雑誌メディアに載れば「女子高生」全体のヒーローになれる。そして「意外」「自分なり」のヒット商品を見つけ出すために動き続ける消費者は、商品が多品種少量生産されている社会にとって最適な顧客だった。
こうして女子高校生が商品の情報サイクルに組み込まれていくことで、彼女たちの日常は一気に「情報化」していった。多様な情報を整理するのに最適な『システム手帳』がこの時期急速に普及し、93年からは『ポケットベル』がクチこみなどを広めるのに最適な女子高生の必需品になっていく。つまりマーケティングの対象が低年齢化したことにより、80年代には20代の「新人類」が当てはまると考えられていた「高度な情報処理能力」がまだ10代の女子高生へも求められるようになったのだ。ちなみにこの93年頃には「『電子手帳』を持つ小学生」も話題になっている。

しかしこうした情報化は、彼女たちの人間把握をも変えた可能性がある。80年代に情報化社会が20代の若者を覆った時、彼らは他者を「ネクラ/ネアカ」「マルキンマルビ」などと記号化して分類していた。それが90年代になると10代の若者に降りてきて、援助交際の相手となる「オヤジたち」が記号化されたのではないだろうか。
複数の相手と金銭を通して次々関係する援助交際は、相手に対して特別な感情を抱かないからこそ可能になる。相手に固有の感情を抱いていたら非効率で売春などできないからだ。そのため彼女たちはよく「偉そうなオヤジでも服脱げばみんな一緒じゃん」と言っていた。そしてそれは、日本社会の男たちが「女子高生」を記号化して、「制服」や「清楚」といった要素を勝手に読み込み興奮していたことの裏返しだった。
そして女子高生の特徴でよく挙げられた彼女たちの突っかかりぎみで何でも省略する話し方は、彼女たちを取り巻く環境の情報化が顕著になる92年頃から始まっている。話し方にも情報化の影響が出たのである。


都市の流動性への適応と、日常(人生)の断片化


 こうして「渋谷で消費する女子高生」が若者の象徴になっていくが、都市というのは基本的に人間関係が流動的であり、渋谷のようなモノと情報に溢れた街は流動性をさらに加速させる。第8章で見たように、80年代以降の都市生活は個人化と流動化が著しく進んでいた。そこに10代の少年少女が参加するのは、当人たちがまだ「流動的な空間である」と自覚出来ないうちからそれを所与の前提として求められることであった。つまりどんな出来事が起きてもどんな人と出会っても、それを断片的な記憶に変えてまた別の出来事や相手に向き合っていくことを10代のうちから行わなければいけなかった。
この時期は歌謡曲の流行歌が80年代の松任谷由実から90年代のドリームズ・カム・トゥルーへ移行したが、社会学者の宮台真司によればそれは“ユーミンの作品世界は、主人公の「世界内でのあり方」を唱い込む。それがドリカムになると、「それって、あるある!」と盛り上がれるような十五秒CF的シーンの羅列。”というような変化であり、ここにも10代の変化が反映されていたのではないだろうか。宮台はそれを“要するにユーミンからドリカムへの移行は、「これって、あたし!」的な「関係の複雑性」から、「それって、あるある!」的な「シーンのモザイク的寄せ集め」への移行である。”と定義している4)。例えば彼らの代表曲の一つ『サンキュ』は、<季節外れの花火 水はったバケツ持って 煙に襲われて走りながら “キレイ”涙目で言うから 笑っちゃったじゃない><話のきっかけを探して黙ったら 急に鼻歌 歌うから 笑っちゃったじゃない><“ちょっとカッコ悪いけど 髪切るならつきあうよ”なんて笑っちゃったじゃない>などと日常のシーンをいくつも積み重ねている。
 情報化した街を生き抜くために、日常をいくつかの断片の積み重ねとして把握していくこと。例え援助交際で嫌な思いをしても、断片的な記憶に出来れば忘れていくことができる。そしてまた次の相手と向き合うことができる。90年代に一斉を風靡する「援助交際」で、見知らぬ「オヤジ」と性交渉ができる女子高生の身体感覚は、間違いなくこうした変化の中で形成されていた。
そんな女子高生は、第一章の小林よしのりのようにしばしば「他者に無関心である」と批判されたが、渋谷が消費をさせるために生み出す凄まじい情報量や刻々と移り変わる人間関係の中で生きていれば、関わり合いがなさそうに見えた相手ならある程度無関心にならなければやっていけなかったのではないだろうか? ただしそれは、自らの人生が一歩一歩積み重なり建設的に進んでいく実感を得られなくなることと引き換えとなっただろう。その後出てくる「生きづらさ」の大きな要因の一つがここにある。
“夢なんて過去にはない 未来にもない 現在(いま)追うものだから”(安室奈美恵/『Chase The Chance』) 

ブルセラ援助交際と「消費欲求」

 このように10代の環境が消費社会化・情報化していった結果、93年に女子中高生が自分の着用した下着を販売店に売る「ブルセラ」が大きな話題になる。続いて94年にお金を払って女子中高生と仲を持つための「デートクラブ」が、95〜96年には女子中高生が自ら年長の男性と掛け合って売春する「援助交際」が話題になり、女子高生と性産業の結びつきは90年代を代表する社会現象になっていった。宮台真司の試算では93年夏の時点の都内では六千人〜一万人の女子高生がブルセラショップに出入りしていたという。また94年夏の都内には35店のデートクラブ業者が営業し、八千人〜一万人の女子高生が登録していた5)。そして援助交際を経験した女子高生は“女子高生全体でならせば六〜八パーセントだが、「街に生きる」タイプの子に限れば二割から三割に及ぶだろう”という6)。
それは「女子高生」という付加価値に大きな金額がついたからだった。93年から女子高生の制服の着崩しが始まったことはすでに述べた。同じ93年に渋谷の『ソニープラザ』で販売されていた『ルーズソックス』が爆発的に売り上げを伸ばし、「茶髪、制服、ルーズソックス」という女子高生のスタイルが定式化された。
 ブルセラ援助交際をする女子高生たちは、大人世代から「金が全てなのか」「倫理を無くした」などと批判されたが、こうした紋切り型の批判はそれが90年代に登場した社会的な意味を見失わせる。売春の是非についてここでは問わないし、筆者にはそれを判断するだけの見識が欠けている。それより筆者が問題にしたいのは、90年代の女子高生たちがなぜそこまでして金を稼がなければならなくなったのかという事にある。やはりそれは、90年代に10代の少年少女がより深く消費文化による自己実現を行うようになり、女子高生はその中で最も先端的な存在になったからではないだろうか。渋谷のような繁華街で一日中過ごしたりブランド品を買ったりするには、多くの金が必要なのである。
ブルセラ援助交際で得た金を消費に使うことを繰り返していく具体例を挙げてみたい。黒沼克史のルポルタージュ援助交際』によれば、最初に取材した少女が援助交際した理由は“世界の一流品を手に入れたいという欲望に目覚めた”からだったという。“ユミちゃんに初めて会った時、彼女の化粧ポーチにはシャネルがぎっしり詰まっていた。サワコちゃんは、「ユミちゃんはファッション知識人なの」と言った。それはどうやら、世界の一流品が持つ魔力を知った上で、その魔力に気持ちよく負けるということのようだった。7)”
 高校一年生の“トモコちゃん”は“伝言ダイヤルのメソッドはすべて先輩から学んだ。「お金がなくて困っている」と言うと、先輩が何から何までセッティングしてくれた。そして、一年足らずで十八人のオジサンたちと援助交際をしてきたという。”彼女はまた“親がたまに買ってきてくれる洋服の趣味がまったく合わないことが、トモコちゃんをウリに走らせる一因にはなった”のだという8)。
 あえて直接援助交際をやらずにテレクラでアルバイトをしている高校三年生によれば、“(援助交際を)やってる子は、洋服をバンバン買ったりすぐに新しいボードを欲しがるような子で、彼氏に貢いだり友だちにおごったりして、人生楽しいよ、とか言ってる。私はブランド物はあんまり欲しいと思わなくて、どっかに行く時にポイントで着てればいいってタイプだから、やってないのかな。何が何でもシャネルってなっちゃった人は、だいたい売春とかにいきますね。”というのだ9)。続けて中学3年生で初めて援助交際した女子は“その時はD&G(ドルチェ&ガッバーナ)のTシャツとかが欲しかったの。ノースリーブのTシャツとかなのに、ブランド名がついてるだけで三万するんです。それで、ウリをやって買っちゃった。10)”
 80年代後半のバブル経済円高・ドル安により大量に輸入されてきた海外の高級ブランド品は、90年代の不況になると買い手を減らし始めた。そこで目を付けられた消費者が10代の少年少女であり、この時期の女子高生向け雑誌にもブランド品が頻繁に登場するようになり、ブランド品が載る女子大生向け雑誌を高校生も読むようになる。援助交際をする女子高生たちのブランド志向は明らかにこれらの影響を受けているだろう。またブランド品とまではいかなくとも、ショッピングビルの『渋谷109』では10代の少女向けに五千円から一万円台の非常に様々な洋服が作られ始めた。そのため『渋谷109』は90年代に急成長を遂げて今や渋谷の代名詞になった。
1980年代の女性が消費によって「自己実現」しようとしたように、その洋服を買って身につけることが女子高生にとっての「自己実現」になっていったのである。そこでは援助交際をした金で買えば買うほど「自己実現」になっただろう。他者との社会関係を実感出来ただろう。ルポライター井田真木子によれば、ある女子高生は援助交際をする友だちを評して“で、ヴェルサーチ命だって、その子言ってる。ヴェルサーチで固めるためだったら、あたし、なんでもするわよって、誰にでも言うの。悪びれないの。……世間でどう思おうと、自分がやりたいわがまま通しちゃうっていう決心ですか、そういうの、個性だし、いいってことじゃないですかね……あたし、その子のこと、ある意味ですごく尊敬しているし、憧れてるんです。”というように消費することが自己実現になると思い賞賛している11)。80年代には20代の女性たちが行っていた「消費による自己実現」が、10代の少年少女に降りてきたのだ。


援助交際――情報化された身体と、消費という目的

そして消費の要素としては他に「繁華街の居場所代」が挙げられる。繁華街で遊ぶ10代が増え、10代向けのスポットも増えていったが、繁華街で遊ぶには地元や友人宅で遊ぶ以上に金がかかる。しかし10代の稼ぎには限度があるため、ブルセラ援助交際で金を稼ぎたい。援助交際にはこうした動機も多かったのではないだろうか。
 前述の援助交際をしている女子高生は“こうやってフツーに暮らしてても、月に四、五十万は使ってるもん。”という12)。その内実は“べつに高い買い物してないよ。シャネルのマスカラだって五千円しないしね。クラブとかパーティーとかカラオケとか遊びに行って飲んだり食べたりすると、積もり積もっていつの間にか五万なくなってる。”13)というように、街中に留まり遊んでいるだけで大金が無くなっていく様子が伺える。
 カラオケボックスは1990年に「団塊ジュニア」向けの遊び場として激増する。それに合わせて91年からドラマとタイアップしカラオケで歌われることを狙いにした大ヒット曲が続出する。カラオケは10代の主要な遊び場になり、大きな繁華街にも私鉄のマイナーな駅にも次々と作られていき、前述のドリームズ・カム・トゥルーやBzやミスターチルドレンといった出す曲出す曲100万枚を超えていくメガヒットアーティストを生みだした。これにより歌謡曲は「J−POP」と呼ばれるようになり、10代や20代にとって最も影響力のあるメディアになっていった。
 そしてプロデューサーの小室哲哉は、90年代半ばにカラオケで歌われるための曲作りで空前の大ヒットを連発した。それは援助交際が話題になっていたのと同時期であり、女子高生たちはこぞって小室がプロデュースする安室奈美恵華原朋美の曲をカラオケで歌っていたが、何とその歌詞には、当の女子高生たちの行動や思考を入念にマーケティングしたことが明確に分かるのだ。
 例えば本節の冒頭で引用した安室奈美恵の歌詞は、女子高生の身体的な「欲望」を解放させることを勧めているように見えるし、華原朋美は『I’m proud』で<人混みをすり抜ける 大人が誘いの手を引く 経験が増えていく 避けて通れなくなってた><彷徨ったって 愛すること誇れる誰かに 会えなさそうで会えそな気がしてたから生きてた“などとどう見ても援助交際する女子中高生の姿を歌っていたのだ。
 言うまでもないことだが、音楽ビジネスは受け手の少年少女にとって等身大のアーティストだけで成り立っている訳ではない。アーティストの所属レコード会社があり、CDを生産する工場や全国へ運送する会社があり、CDの販売店があり、アーティストを取り上げるメディアがあり、それは全てスーツを着た「大人世代」が自らの利潤を手にするために行っている。プロデューサーの小室も当時すでに30代後半である。これだけ女子高生の意見をマーケティングして商品化し、彼女たちに金を使わせることで産業を作り出している「大人世代」が、同時に女子高生の援助交際等をバッシングするのなら、これは消費社会が行き着いた果ての壮大な「マッチポンプ」ではないだろうか? 消費社会を作り出した「大人世代」が、消費社会の生み出す副産物に気づかないまま自らの影に怯えているのである。
 企業のマーケッターも女子高生の消費社会化へ積極的に荷担した。PARCOの『アクロス』は90年代の10代の女子を「他人に媚びない“無性化”が進む」と言い、「……“性差”の壁は、若者の間では一気に崩れてしまったかに見えた。そして“人に媚びない、自然体の明るさ”こそが女の子が最優先する価値観として浮上してきたのである」と言ってそれを女子高生の消費活動へ注目する理由に挙げている14)。しかしこの「女性の自立」を「消費社会で主役になること」へすり替える言説は、まるで1980年代に女子大生やOLへ向けられてきた「自分らしくなるためにモノを買おう」という言説の反復ではないだろうか。つまりマーケッターも企業も新たな消費主体を見つけるためにより低い年齢を賞賛しているだけなのである。あまつさえ彼女たちを“新人類世代に通ずる感覚を感じる”などと評している15)。彼らは自らが盛り上げた80年代の新人類論が「おたく」や「オウム真理教」によって破綻したことの落とし前をきちんとつけたのか?
 宮台真司は“売春というと「物欲主義」や「消費社会の退廃」を問題にしがちだが、実際に調べてみると多様な動機が見えてくる”として援助交際の動機をいくつかに類型化している16)。確かに金銭崇拝を紋切り型で批判してもあまり適切ではないだろう。しかしそれならなぜ多様な動機が「援助交際」という多額の金銭が得られる手段に集約されたのかを解明する必要があるのではないだろうか。これまで見てきたように、若年層には80年代までの上昇志向に裏打ちされた分かりやすい金銭崇拝とは異なる状況が表れていると思うのだ。それが、自分の存在を証明するためには消費をするしかないという感覚である。
 井田真木子によれば、デートクラブの店長は自分が接している女子中高生を“……あの子たちの価値観、お金とブランドだけなんです。/たとえばお客さんから二万円手にするでしょう。そしたら瞬間的に、まったく考えることなく、贋シャネル・ショップに行きますね。彼女たち。ためらうってこと知らないですよね。ふと、立ち止まる子どもっていないんですよね。”と評しているが17)、これはいわゆる「欲に目がくらむ」というような状況よりも、薬物依存に近い。消費に依存しなければ自己の感触を得られない、そういう少女が増えてきているのではないだろうか。
 また黒沼も井田も、ブルセラ援助交際をする女子中高生の一部に「親からはお金をもらえる余裕がない」という意識があることを指摘している。90年代の不況が子どもにモノや金を与える経済的な余裕を親から無くさせたのだ。井田はもう一歩進めてブルセラ援助交際を“……九二年以来ストリート・サヴァイバーが顕現してきているのではないか。これが私の推論です。具体的には性を売る商売に、ほとんど自分が何をしているのか意識していない子供が流入したこと、それから薬物濫用が一般化したということ。いわば無意識のうちの一般化、それが、子供の危機を呼び、社会の変質を招き、中産階級の溶解をもたらしていると思います。”と分析している18)。
 1990年代の消費社会と情報化社会が10代をターゲットにしたことで、ブルセラ援助交際といったそれまでの常識を越えた10代の社会現象を生み出した。少なくともそれを促進した。そしてこの現象は女子中高生に限られたものではなかった。90年代後半からはまるでそれまでの性差バランスを覆すかのように中高生の少年犯罪が話題になるが、そこにも消費社会と情報化社会の深い影響が存在していたのだ。


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第十章 少年犯罪と郊外消費社会の限界


神戸連続児童殺傷事件と地域社会

 1997年に日本中を震撼させた神戸の中学3年生による連続児童殺傷事件は、コギャル女子高生と並んで90年代以降の若者像を規定した。それは「いつ“キレる”のか分からない心の闇を抱えた少年」という見方である。だがここでもその事象を心理主義的に理解するのではなく、女子高生と同じように戦後の社会変化の中に位置づけてみたい。神戸の加害少年の周囲にもまた、これまで見てきた総消費社会化の負の側面が表れているからだ。
それは高度成長期に産声を上げ、70年代以降の団塊世代が発展させ、80年代にその夢が醒めてきた「郊外ニュータウン社会」である。 
 神戸の加害少年は、神戸市須磨区須磨ニュータウンという1970年代初頭に開発された典型的な郊外ニュータウンに住んでいた。少年の父親は1950年生まれのほぼ団塊世代であり、その世代が築いてきた郊外ニュータウンの幸せな家族幻想が1980年代になると次第に薄れてきたことは第三章で触れた。三浦展は、郊外社会の黎明期とオウム真理教の事件を結びつけ“……おそらくオウム事件とは高度経済成長の郊外中流家庭で育った、いわゆる新人類世代以降の若者たちが中心となって引き起こした事件のようなのである”と言い、それに対して“……同じような郊外的環境で育った青少年はその後ますます増えているのだから、郊外を舞台にしてもっと悲惨な事件が起こるのではないかと推測することは理の当然である”と論じているように19)、神戸の少年の事件は郊外から幻想が薄れてそれが持つ矛盾が徐々に表面化してきた中で起きた事件だったのではないだろうか。
 では、その矛盾とは何か。少年にはどのように感じられたのか。少年は、犯行声明文で自らを“透明な存在”と規定している。“……しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。……ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。”というように自分の存在が社会から遊離していることを強調し、その状態からの回復のために殺人を犯したと主張している。
 彼は“透明な存在であるボクを作り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復習も忘れてはいない。”とも書いている。彼には自分を取り巻く家庭や地域といった全ての環境に不満があり、しかしそれらの環境が全て有機的に絡みあっていることを把握するだけの力は年齢的にまだ無かったため、その中で最も目の前にある「学校」を名指ししたのではないだろうか。もちろん全てが絡み合う環境とは「郊外ニュータウン社会」のことである。


消費社会化されすぎた郊外ニュータウンの閉塞感

そして、彼が住んでいた「須磨ニュータウン」は他のニュータウンと比べても固有の問題があったようだ。宮台真司はそれを“同質性の圧力の中での異質化競争”と表現している。家に分譲と賃貸の区別があり、分譲にも収入に応じて三千万円や四千万円といったクラスがあり、それで生活水準が判別出来るようになっている。では収入が同程度ならどこで差異をつけるかという時に、教育と車しかないという。これが実に息苦しい“競争”なのだ20)。
 
“だから須磨ニュータウンの人はみんな、いい車を持っているんですよ。ところがぜんぶ国産なの。なんでぜんぶ国産なんですかって聞いたら、外車はやりすぎなんですって。外車を買っちゃったら、ゲームから降りちゃったことだと。
細かくいうと、国産車は二00万円くらいから始まって、四00万円ぐらいまでの幅がある。このなかでセンスのある高級な車を買う。外車になったら、そのなかから飛びだしてしまう。(ベンツの)SLクラスなんか、一台一五00万円というところまでいっちゃう。そしたら郊外のみなさんがやるゲームではなくなるんですよ。ゲームのルールを壊すやつは、また嫌われちゃう。“

 70年代から80年代にかけての郊外ではまだ家や車を持つことに夢があったが、それが行き着く所まで行けば他者との差異を図るための消費財でしかなくなる。さらに現地を取材した三浦展は、須磨ニュータウンで駅から大学に向かう学生の姿を見て“ゾッとした”という。それは学生たちが“ほとんど一列になって、おしゃべりをするでもなく、ただ黙々と大学に向かって歩いている。”からだ21)。
それは須磨の道造りの構造に原因がある。“おそらく駅から大学までの道がまっすぐな一本道であり、街路樹もなければ一軒の店もない通りだからである。まわりは主に集合住宅だから、横道にそれても喫茶店があるわけでもない。こういう環境であるから、ただただ目的地まで脇目もふらず歩くしかないのだ。”“実は事件のあった中学校の校門までの道も同じである。……校門の直前で生徒をすべて一つの流れに合流させた方が、学校側は何かと管理しやすいという考え方が、この街の設計思想にあったのではないかという気がしてならない。”と三浦は推測している22)。
ニュータウン固有の問題として、宮台が挙げたような収入や生活環境や家族構成の「均質性」があり、三浦が挙げたような「管理された街並み」がある。例えば郊外では道に商店や公園がほとんどなく、駅前にのみ集中しているため、人は車で移動する。その結果道から人がいなくなり、歩いているのは学生のようにただ黙々と目的地を目指す人だけだ。つまり道の中で立ち止まって地域住民と何かを共有することが出来ずに、人は「点」で移動するしかなくなってしまう。
 そもそもニュータウンの居住者とは生まれ故郷を離れてきた人たちである。それに加えて地域社会の中で他者と交流する習慣が無くなってしまえば、差異化のゲームに勤しむしかないのも納得がいくだろう。このようなただでさえ息苦しい環境で育つ少年がいつも「点」でしか動けていないとしたら、それはどれだけ息苦しいだろうか?
 そしてこうした問題の根本にあるのは、郊外がそもそも「消費のための場所」に純化されていることだ。郊外を成立させたのはそこで家事を行う主婦と都心へ働きに出る夫という性別役割分業の普及であり、従って主婦と子どもしかいない郊外では「消費」が主役になるしかないのだ。夫が買ってきたテレビやミニコンポといった家電製品を消費する。子どもはそれを自室にも持つようになる。後で詳しく述べるがファーストフードやTSUTAYAといった典型的な消費社会の商店は、まさに郊外で繁盛している。郊外こそ戦後日本が果たしてきた消費社会化が最も「画一的」で「隙間無く」達成された場所なのだ。
 それは東京・渋谷とはまた違った息苦しさがあるだろう。渋谷は確かに日本最大の消費都市だが、そこには都市ならではの活気があり、渋谷にしかないお店も幾つもある。何より「ここが首都・東京だ」という自負が街にも人にも存在している。
 だが須磨ニュータウンのような場所は違う。駅前にあるファーストフードなどは全国どこにでもあるものであり、それに何らかの誇りや新鮮さを感じることは困難だろう。ニュータウンでは「自分らしさ」を発揮すると思われている消費行為すら均質化されているのだ。だから、車で言えば外車に乗ることはゲームオーバーになる。
 三浦は“郊外では、人生が思い通りにならないとき、それが「失敗」だと感じられる。郊外は、明るい理想の家族が住む場として設計されているからだ。ホワイトカラーの夫と専業主婦と勉強熱心な子供が住む場として設計されているからだ。失業した夫とフルタイムで働く妻と勉強嫌いの子供の街としては設計されていないのだ。”と述べている23)。
もし少年に、勉強や消費とは別に思春期に誰もが持つ「自分とは何か」「世界とは何か」という疑問や不安が生まれても、郊外では共有出来る場など初めから無かったのではないだろうか。だから彼は“透明な存在”“国籍がない”などとひたすら内に向かっていくか、一気に飛躍して中学校の校門前に死体を遺棄するような行為で疑問や不安を解決するかしか選択肢が無くなったのではないだろうか。
 宮台真司は、学校や塾や家庭といった機能的空間以外の空間を“ダークサイド”“屋上的な無意味な空間”と表現し、それが郊外には決定的に欠けていると指摘している。それは筆者が言い換えるなら、自己と他者でコミュニケーションを重ねながら相互承認が出来る「公共空間」と呼びたい。昔の地域社会をもっと風通し良くしたものと言っても良い。それは言うまでもなく団塊世代がかつての学生運動に求め、その後の「ニュー・ファミリー」や「ニュータウン」に求め、結果的に消費社会に飲み込まれてしまったものでもあるのだ。


「キレる少年」と日本の総郊外化
 
神戸の少年事件は動機の不透明な少年犯罪というイメージを決定づけ、翌98年に栃木県黒磯市で中学一年生が学校に持ってきたバタフライナイフで女教師を殺害した事件により、「いきなり激高して人を傷つける」=「キレる少年」という呼び方が定着した。そして2000年5月には神戸の少年と同い年の高校3年生が立て続けに殺人事件を起こし、97年の「14歳」と同様に「17歳」が話題になる。愛知県の豊川市で老女を殺害した少年は動機について「人を殺す経験をしてみたかった」と言い、彼に「先を越された」と思った佐賀県の少年はバスジャックをして「東京へ向かえ」といい、主婦を殺害した。そうした不透明な動機に社会は衝撃を受けたのだった。
 だが三浦展の『ファスト風土化する日本』によれば、それらの事件も神戸の事件と同様に「郊外社会」、あるいはそれに近づいている田園地帯で起きた出来事だった。言われてみれば近年の少年犯罪は、東京や大阪といった大都市ではなくみな北関東や中国地方といった地方で起きている。三浦によれば、1985年の少年犯罪件数は東京が最多だったが、2002年には香川県山口県鳥取県高知県宮城県福島県といった地方が東京を追い抜いている24)。
 それは、東京の多摩や大阪の千里から始まった郊外ニュータウン社会が、神戸の須磨のみならず今や全国へ広がっているからだという。バブル経済時代の「国土の近衡ある発達」計画や、バブル崩壊後の景気対策型公共事業により、地方がどこも似たような風景になった。その変化を三浦は“新幹線や道路の整備は交通量の増加を生む。それは産業を誘発し、経済を伸ばす。同時に、社会の貨幣経済化・消費社会化を進め、生活を一変させた。日本中の田圃の真ん中を走る新幹線や幹線道路沿いには、大企業の工場、流通拠点などが立地するようになり、巨大ショッピングセンターができ、ディスカウント店ができた。そしてパチンコ屋ができ、カラオケボックスができ、テレホンクラブができ、サラ金ができ、ラブホテルもできた。その光景は東京郊外と何も変わらない。いや、東京以上に徹底的に郊外的だ。”とまとめている25)。
 しかしそれが青少年に与える影響はまだ社会的に自覚されていないため、少年犯罪は“キレる”といった突発的な印象の言葉で表現されてしまう。しかし青少年文化を追う社会学者の中西新太郎は、少年犯罪の形容詞が「キレる」という言葉になったのは大人世代が“「キレる」状況にいたるまでの前史が分かっていない”からだという。“現代の青少年が何をどのように「こらえて」いるのか、その「がまん」のかたちについて大人があらかじめ知っているわけではない。それを自覚せずに、「いきなりキレる」若者という像を描くのは大きなまちがいだろう”と中西は指摘している26)。
 それに加えて、中西によれば“キレる若者という像にはカウンターパートに当たるもう一つの像が存在する”という。それは“嬉しいのか悲しいのか、何を考えているのかさっぱりわからない若者”という像だ。“「キレる」という印象が成り立つためには、キレる前段階が、感情の波立ちを感じさせない、のっぺりと「平静な」状態に映っていなければならない”からだという27)。つまり大人世代は、少年少女の「キレる」という特徴とそれを成り立たせる平静状態の両方を異端視しているのだ。
思えば、「何を考えているのか分からない若者」という視線は80年代の職場などで「新人類」に向けられたものだった。しかしその視線が90年代後半には10代の少年少女へ降りてきたのである。20代の「新人類」には年齢に応じた社会経験があったが、経験の少ない10代の少年少女にあったのは地域環境と消費文化環境だけだろう。従って「キレる」に至る前の段階や「何を考えているのか分からない」ように見える理由を知るには彼らが生きていた環境の実体を知る必要があるのだ。


二人の「17歳」の犯罪と郊外社会

愛知県豊川市で老女を殺害した少年は名古屋から少し離れた田園地帯に住んでいた。少年はとても規則正しい生活を送っていたが、人間の生死に対する興味も沸いてきたという。しかしその供述を聞いていると、純粋な愉快犯的な殺人とはくくれない面が見える。それは「自己実現のための殺人」である。少年は全く面識の無かった老女を殺害した理由について“自分の求めるもののために、人を殺すとはどういうことか知ることが必要だった。”“自分は物事を理解したり知識を得るために、人の話を聞いたり本を読んだりしただけではだめで、経験してみなければ知識にはならないと思っていた。殺害という行為が自分にとって必要だった”と述べていたという。つまり彼は自分が成長していく中で沸いてきた疑問を自分で解決しなければ前へ進めないと思い、そのために殺人を犯したのではないだろうか。
また愛知の事件から2日後に佐賀県で起きたバスジャック事件では、17歳の少年が動機について“派手なことをして、社会に自分をアピールしたかった”という趣旨のことを述べている。それは高慢な物言いに見えるが、実際の少年は中学時代にいじめを受けて不登校になっていた。そのいじめの中で起きた事故で入院した結果、第一志望の県内最難関の高校に合格できず、実際に入学した高校をわずか九日間で中退した。
 少年法の壁の中で漏れ伝わる情報のみで判断する事には慎重になるべきだが、少年がジャックしたバスの中で乗客に向かって「これが僕の宝物なんだ」といいながら高速道路の領収書を見せたことは間違いないようだ。それは少年が父親と共に車で中国地方や近畿地方へドライブした時のものだった。家に閉じこもりがちだった少年にとって、遠く離れた地方へ行ったことが最高の思い出だったのではないだろうか。実際、少年がジャックしたバスを走らせたコースは父親とのドライブコースと同じだった。そして少年はその終着点に「東京の霞ヶ関」を指名した。
 少年が「自宅」へ閉じこもりがちになったことを、「佐賀」という地域に置き換えるとどうなるだろうか。現地を取材した三浦展は、佐賀から福岡へは高速バスを使って格安で行けるようになっているため、“かくして佐賀の現状は、まるで精気を吸い尽くされて骨と皮だけになったような状態である”と指摘している28)。
 
 “受験の失敗がバスジャックに関係したかどうかは知らない。そんなことはどうでもよい。それより問題は、もしそれなりに優秀な少年が、この停滞した佐賀という土地で生きていたら、何をどう感じただろうかということだ。自分の能力と佐賀の現実を対比して、自分の将来を悲観したとしてもおかしくはない。こんなところにいちゃだめだと思っても、当然だろうと私は思った。
 何もない。何の刺激もない。驚きもない。ただ福岡に吸い尽くされているだけの街。その先には当然東京がある。少年は、ひたすら中心によって吸い尽くされる佐賀ではなく、その中心にこそ自分がいるべきだと思うだろう。だから彼がバスジャックをして、霞ヶ関へ行けと言った気持ちは、実際佐賀の地に立ってみるとごく素直に共感できる。“

 ではなぜ佐賀は福岡に近いというだけで「吸い尽くされて」しまうのか。それはショッピングセンターやアミューズメントパークといった消費社会の豊かさが全て福岡にあるからだ。そのため人びとは休日に福岡へ買い物や遊びに行くからだ。それは大人でも子どもでも同様だろう。東京にあるモノが愛知や福岡といった準大都市に作られ、それを求めて周囲から人が集まり、自分の地元にもそのようなモノを欲しがる。それが三浦の言う「ファスト風土化」である。「東京的な消費社会」を招き寄せた場所が元から何もない場所であるほど、あるいは伝統的な地域社会を破壊した場所であるほど、そこは消費のための地域に純化されていくのではないだろうか。前節で90年代半ばに数々のメガヒット曲が生まれたことに触れたが、それは恐らく日本中でディスカウントショップやタワーレコードが作られていく郊外化の時期と重なったからだと思われる。そして今では富山県山形県といった地方が東京都の家計支出を追い抜いている。


郊外消費社会と「自己実現欲求」は両立しない

 愛知県豊川市佐賀県の少年に共通していたのは、近代以前の「通過儀礼」に当たるような自己の成長と社会から社会からの承認を求める気持ちではないだろうか。しかしそれを実感するのは消費社会と郊外社会の中では困難なこともこれまで見てきた中で明らかになったのではないだろうか。他者との差異を認め合い話し合いながら共存できる公共空間ではないからだ。
 だから少年たちにとっての公共空間は漫画やゲームやインターネットといったサブカルチャーとメディアだった。愛知県の少年は“死へのイメージは、本やテレビ、他人との会話やゲームで膨らませていった”と答えている。また佐賀県の少年は犯行予告をインターネットの掲示板に書き込んだように、引きこもりの最中にインターネットに夢中になっていた。栃木県で女教師をバタフライナイフで刺した少年もテレビドラマからの影響を語っているし、神戸の少年は様々なサブカルチャーからの引用で犯行声明文を構成していた。
 だが皮肉なのは、少年達が揺れ動く自己を仮託したサブカルチャーやメディアですらも消費社会化と情報化が生み出したものであることだ。事件の責任をビデオやインターネットといったニューメディアのみに帰結させることは、いつの時代でも表れる技術発達への過剰反応にすぎないので、そのつもりはない。だがもし佐賀のような何もない場所や、何もかも画一的な風景に囲まれた郊外ニュータウンや、田園地帯にいきなり道路と大型ディスカウントショップが出来るような場所で、サブカルチャーやメディアに一人で浸っていたらどうなるだろうか? 一人で悶々と思いつめるしかなくなるだろう。それ故これまでなら感情表現が豊かだと思われていた「若い10代」が、その若さゆえに周囲から「何を考えているのか分からない」と見えるようになっていってしまう。
ニューメディアが悪いのではなく、それを異質な他者と現実の中で公共空間を作るためのツールにできないことが問題なのだ。与えられたモノを消費者として使うだけなので、自ら能動的に使いこなすことができないことが問題なのだ。そう、消費社会とそれに主導される情報化社会は、「個人」と「公共」を結びつけるよりもむしろ一人ひとりを消費者として分解させるのである。それが最も純化されたのが郊外ニュータウン社会であり、そこには「ニュー・ファミリー」から始まった戦後社会の失敗が積み重なっている。その失敗とはこれまで何でも述べてきたように、前の時代からの「解放策」を消費社会の枠組みの中でやり続けてしまったことだ。一連の少年犯罪は、失敗が積み重なった環境と自己実現を求める少年たちとの軋轢の結果生まれたのではないだろうか。


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第十一章 止まらない消費文化の低年齢化


10代前半に降りていく消費文化

前節で紹介した「ファスト風土化」が日本中の地域へ広がっているのは、今の日本のような高度資本主義経済はどこまでも消費対象を求め続けるからだ。そのため現代の消費文化もより低年齢化されてきている。その新たな主役は小学校5〜6年生から中学生にまで下がっており、特に女子にその傾向が顕著だ。それは簡単に言えば、90年代前半に女子高生が享受してい音楽やファッションや性の情報を10代前半の少女が享受するようになったということだ。その大きな切っ掛けを作ったのは、恐らく安室奈美恵や女子高生ブームの絶頂期だった96年にデビューしたミュージシャンの『SPEED』である。彼女たちはデビュー当時小学校6年生〜中学3年生だった4人組であり、同年代の少女たちのまさにカリスマと化していったが、その歌詞はまるで女子高生が築いた世界をより低年齢へ移植したようなものだった。

『Go! Go! Heaven』という曲の“成熟した果実のように あふれ出してく 欲望に正直なだけ 満たされてたい!”という歌詞は、安室奈美恵の“A to Z だけじゃ足りなそうだから 身体で話そう”という部分に、“矛盾だらけの世の中じゃ 良いも悪いも興味がないよね”という歌詞は安室の“もう なんだってアリみたいな時代だから モタモタしてちゃ損だから ”という部分にそれぞれそっくりだ。
 このような背伸びしてせっぱ詰まった歌詞が、激しいダンスビートに乗せて歌われていた。恐らくここから女子高生の直面していた現実がより下の世代へ移っていったのだ。それはより低年齢が「市場化」されていったと言うこともできるだろう。 
現在の渋谷109にはよく見れば小学校高学年の少女も出入りしているし、中学生は普通に見かける。『ピチレモン』や『エルティーン』といった10代前半の少女向けの雑誌も、90年代後半にファッション情報やリアルな恋愛・生活情報を増やしていくことで急速に売り上げを伸ばした。そう、80年代末に女子高生向けの雑誌が行った転換と同じだった。現在の両誌は洋服から細かいアクセサリーまで様々な商品の情報に満たされている。ちなみに『ピチレモン』05年1月号の最初の見開き広告は渋谷109のクリスマスフェアである。
80年代には20代の女子大生やOLがボディコンスタイルをし、90年代には女子高生がミニスカートにロングブーツを着こなしていた。それらは全て欧米のセレブリティ女性をモデルにしているが、今や小学校高学年や中学生の華奢な子どもたちが同じセレブをモデルにして着こなしているのだ。ルイ・ヴィトンエルメスといった高級ブランドも同様であり、地方の郊外のディスカウントショップではそれらを買う子どもたちが実際に存在している。
中西新太郎は10代前半の消費文化の形成を“女子の場合、小学校五、六年生のときから消費文化の世界にデビューするわけです。親とか教師のほうから見ると、まず親や教師が勧めたい本、児童文学の良書と言われるものなどを読まなくなる。少女小説を読むようになる。夕飯を食べた後、すぐ自室に引っ込んでヘッドホンで聴いている音楽もスピード等々、大人たちが知らない音楽になってゆく”とまとめている28)。
そして携帯電話が爆発的に普及して中学生でも持つことが当たり前になった。携帯電話の通話料金の高さが90年代後半にCDの売り上げを落としていった原因だとよく言われており、今では中高生に最も人気のあるバンド『オレンジレンジ』の曲が携帯電話の販促CMに使われている。今や地方の郊外に住む少年少女にとって携帯電話は欠かせないコミュニケーション・ツールになっているだろう。高校生の8割が携帯電話を所有している国は日本だけである。


消費社会と連動する性の低年齢化

さらに96年頃から援助交際の中心が高校生から中学生へ移ってきたと言われている。そのため96年の後半には中学生を表す「マゴギャル」という言葉が登場した。黒沼克史が96年に取材した女子高生も、新宿のナイトクラブを95年と比較して“当時は二十代の人たちもいたんですけど、今はほとんど中学生とか高一とかの年下のコギャルばっかりでムカつくというか、ウチらはそのクラブに行っても面白くなくなっちゃった。だったら地元で友だちと呑みながら話してる方が楽しいですよ。時代が変わって、今は中学生がシャネルとか携帯とか持ってる時代ですからね”と答えている29)。
援助交際の取材を重ねてきた井田真木子も同様の認識を持っている。日本の状況を96年の時点で“まず自分たちは売春などやっていないと思っていながら、実は売春をやっている子供の年齢が加速をつけるようにさがってきていること。最初は十七歳あたりが主流でしたが、おそらく今の主流は十四歳あたりでしょう。次に、売春をやる子供の層が中流の下、とくに八0年代の好景気でせりあがって中流の仲間入りをした層になっていること。”などと分析している30)。これらもやはり、消費社会のターゲットがより低年齢になってきたことが影響しているのではないだろうか。
ファッションや性の舞台における中学生の台頭は、高校生の意識にも影響しているようだ。ノンフィクションライターの高崎真規子は、女子高生たちに「自分はもう若くはない」という意識が見られるとして、その理由に中学生の台頭を挙げている。高崎がインタビューした女子高生は“「最近の中学生はすごいですよ。ウチの代は中学で付き合うなんてあまりなくて、付き合おうもんなら、あいつらこうなんだって、すぐに広まっちゃうような感じだった。でも、今は、中学生が男と付き合うのは、当然みたいなんですよね。”と答えている。“「でも、中学生恐いね」”“「でも、彼氏に中学生と二股かけられたりしたら、嫌だよね」”“「そうだよ、やっぱ若い方がいいのかなって思っちゃう」”“「思っちゃうよね、最近中学生がライバルか、ばかにしてらんねーな、って」”というように、より低年齢の存在が自分と対等な世界へ参入してくることが、10代後半にして「自分は若くない」という意識を生み出している31」。彼女たちは言う。“「いや、私の中では十八、十九、二0はいっしょ。十七歳までだよ」「じゃあ、三十路とかどうなるのかな。あーやばいね。死ぬのかなそんとき(笑)」31」”

注意すべきなのは、こうした少女たちが決して昔の「不良少女」のような逸脱者ではないことだ。援助交際女子高生にもいわゆる普通の優等生がかなりいたが、それは年齢が下がっても同じ事だ。つまりそれだけファッションと性が少女たちに内面化されてきていると思われる。それは本人が外部からの影響だと感じないほど消費社会の宣伝手法が洗練されてきていると言うこともできるだろう。


小学6年生と中学一年生による殺人

こうして性とファッションが女子高生にすら「自分より低年齢化している」と思われている中で、果たして中学一年生と小学六年生による殺人事件が連続して起こった。共に長崎県で、前者は2003年に長崎市の中学一年男子が幼児を殺害し、後者は2004年に小学6年生女児が同級生を刺殺した。三浦展によれば長崎県では典型的な「ファスト風土化」が進行しており、犯罪件数は95年から2000年にかけて約四割増加している。
佐世保事件の加害女児は佐世保の中心地から少し離れた山の上で暮らしており、そこは一時間に一本しかバスが来ないような場所だった。女児の親は大型スーパーのジャスコ(これも典型的な郊外型商店である)で働いており、少女はゴールデンウイーク中どこにも行くことが出来ず、自分で作ったインターネットのホームページに“暇、暇、暇、超暇……”と書いていた。
そして同級生を殺害したきっかけもインターネットでのやり取りですれ違いが生じたからだった。ここでも17歳の少年犯罪と同じく何もない場所でインターネットだけが頼りになっている姿が浮かび上がる。そのすれ違いも少女たちの人間関係や容姿に関する評価にあり、加害少女は自らのホームページに“30キロ代にやせるどー!!”と書いていた。ここにも容姿を過剰に気にする消費文化の低年齢化が表れているのではないだろうか。筆者が小学生だった1990年代前半にすら、ダイエットをする女子はいなかったと記憶している。ちなみに雑誌『ピチレモン』にはダイエットの記事が載っており、そもそもモデルが着ている洋服は痩せていなければ似合わないように見せられているのだ。


消費社会での「成長」と社会経済的な「無力化」

消費文化が果てしなく低年齢化していく中で、高校生には早い時期の結婚願望が顕在化しているようだ。それは高崎によれば“結婚だけが人生じゃないことは、十分承知している。が、多くの女の子たちが、そこに収まらなければ社会の構成員として成り立たないような気持ちに襲われている”からだ32) 。そこには様々な理由があるが、中西新太郎は90年代以降に顕著になった消費社会の強化・低年齢化と若年層の経済的自立の困難さという二点を挙げ、「社会的縁辺化」と名付けている。経済的自立が急速に困難になっていることに詳しく触れることは主題から外れるが、これも非常に大きな問題であり、『SPEED』が大ヒットし消費文化が小中学生に降りてきた1997年に高校生の就職難が過去最悪を更新した。そして大学生の就職難も泥沼化していく33) 。

“……現在の、特に女子高生を中心とする高校生たちにかんする調査をみていきますと、高校の時が人生で一番楽しい時期で、今遊ばなければ、今自分を実現できなければもう先がない、という意識が非常によく表れています。……高校を卒業したその先のステップが、大学進学は別として、見えない。学校から社会への架け橋がもはや思春期の少年少女たちにとっては見えがたいものになっているのです。……ところがそれにもかかわらず、これは、八0年代までの日本社会と九0年代の変化をつないでいるメカニズムなのですが、日本型消費社会の中で徹底して繰り広げられてきた私秘化privatization、商品化は、九0年代の変化によって制約されるのではなくて、むしろ逆に正当化され、ますます強化されることになるのですね。”

 現在の産業社会においては若年層は社会的・経済的な自立の道を閉ざされてきているが、消費社会では無邪気に最先端で遊び続けることを要求されてきているのだ。そう考えれば、不況にも関わらず女子の様々なファッションアイテムや男子のテレビゲーム・漫画が売れ続けていることも理解出来るのではないだろうか。
しかし、その先に道がないことも多くの少年少女に薄々自覚されてきているだろう。いくら消費の能力に優れていても企業社会はそれを採用の判断基準にはしないからだ。90年代末〜2000年代にかけて10代の少女に最も人気のあった浜崎あゆみは、このような先行きの見えなさと自分の存在感の希薄さを掛け合わせて“ねえほんとは 永遠なんてないこと 私はいつから気づいていたんだろう”(『LOVE ―Destiny―』)、“もう戻れないよ どんなに懐かしくなっても あの頃確かに楽しかったけど それは今じゃない”(『End roll』)、“繰り返してく毎日に少し 物足りなさを感じながら 不自然な時代のせいだよと 先回りして歩いていた”(『SEASONS』)、“君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに散って行くから…”と歌っていた。
しかしそんな自分に残された手段は、友人などと「共同で何かをする」ことではなく、たった一人の恋人の存在であり、消費だった。だがそれすらも“ムダなもの溢れてしまったもの役立たないものも 迷わずに選ぶよ そう私が私であるためにね”(『Trauma』)などと自分が消費に依存していることを自覚しており、それでもやめられないと歌っているのだ。ここに、消費に依存していた90年代半ばの女子高生と共通点を見いだせるのではないだろうか。このような歌を日本の少女は10代前半から聞いていたのである。
早い子は小学校高学年から消費社会の中での「自己実現」が要求され、「自己実現」を求める心性を植え付けられる。しかしそれをこれまでの成長コースであった企業社会や、昔の学生運動のような公共的な関係の中で果たそうとすると、自分や他人を傷つけることになりかねない。だから消費社会で早い内から主役になるしかない――。それが現代の多くの少年少女が置かれた「個人」と「社会」の関係である。
それでいて少年犯罪が低年齢化してきたことを嘆くのならば、援助交際女子高生がバッシングされた時と同じ「消費社会のマッチポンプ」ではないだろうか。さらに遡れば「おたく」やオウム真理教がバッシングされた時とも同じである。この状況を変えることができなければ、今度はさらに低年齢の――10歳や、さらにはそれ以下の重大犯罪が――起きる可能性も否定出来ない。

第十二章、終章 http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071227 に続く