2004年の大学卒業論文「戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会、第三部・第四部

第三部の第十一章まで http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071228/1256711643 からの続きです。これでラストです。

序章・第一部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20091230
第二部は  http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071229

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

第十二章 若者文化から「つながりのためのつながり」へ――2000年代の若者たち


細分化する若者文化

第二部で、1980年代の若者たちが音楽やファッションやアニメといった若者サブカルチャーで人間関係を作っていったという話をした。ここではその後の若者の人間関係がどうなったのか追っていきたい。
それは結論から言えば、サブカルチャーの共有よりも『携帯電話』が重要になった。若者カルチャーは非常に種類が細かく分かれていき、人間関係もそれに合わせて細分化した。その中では、携帯電話で身近な友人といつでも連絡を取り合い、「私はあなたのことを気にしているよ」と伝えること自体を目的にするようになっていく。
 『なんとなく、クリスタル』に見られた80年代の若者たちは、自分が選び取ったサブカルチャーの趣味を共有できる相手と人間関係を作っていった。そのため80年代には、「根暗(ネクラ)/根明(ネアカ)」「新人類/おたく」「マルキン(金持ち)/マルビ(貧乏)」といったように若者たちを分類する事が流行していた。
 確かに60年代末の学生運動のように「同じ若者だ」と思いながらみんなで連帯できるような状況ではなかったが、若者たちのグループの種類はまだ全て見渡すことができるほど少なかった。同世代で誰が「○○系」で誰が「○○タイプ」の人なのかを判断することができたため、“それってありがちだよね”という見方がこの時期流行していた。
 また、第八章で見た「おたく」が求めていた「大きな物語」、すなわち政治運動はもう社会の主流から消えていたが、まだそれに替わるような「カルチャーの物語」が存在した。「サーファー」のブームも「ディスコ」のブームもそうだったし、「新人類」という呼び名自体が新しい人間のあり方や文化を体現していた。またおたくにとっての「ヤマト」や「ガンダム」の設定は壮大な宇宙的物語だった。
 だがそれと90年代以降の若者たちのコミュニケーションは同じではなかった。若者たちのカルチャーがさらに細分化していくからである。

若者文化の細分化から人間関係の細分化へ

第九章で、89年の「渋カジ」ブームによりトレンドアイテムの低年齢化が進んだことと、アメリカンキャラクターグッズが流行したことを述べたが、それは少年少女のファッションスタイルやアイテムが細かく分かれていくことであった。90年代になるとアニエス・べーを着たフレンチ系、後のコギャルスタイルになるLA(ロサンゼルス)系、ニルヴァーナに影響された古着/グランジ系、サーフ/スケボー系などと10代の様々なファッションスタイルが作られた。
 同時にアイテム自体が細かくなっていく。93年に女子高生の間で「ワンポイントアクセサリー」が流行し、制服姿の両腕にキャラクター時計、サッカーのミサンガ、ビーズのブレスレット。バッグにはミッキーマウスのキーホルダーやキティちゃんのステッカー、髪には様々なカラーゴムなどと広がっていく。流行の移り変わりも早く、例えばバッグなら92年はトートバッグをより大きくしたような『エスプリバッグ』や薄いナイロン製のカラフルな『レスポートサック』のショルダーバッグが、93年前半はビニールやナイロン製のジッパー付きスクールバッグが、93年後半は『バハマパーティー』や『ムラサキスポーツ』で買い物をした時にもらえるショップバッグが流行した。渋谷の『ナイスクラップ』は洋服に年間1000種類ものデザインバリエーションを開発していた。
 少年少女のファッションスタイルが数多くに分裂すること。細かいアクセサリーが大切になりその種類も増えていくこと。流行も早くなること。これらは何十色ものカラーペンが人気を博しのと同様に、この時代の少年少女を「多品種少量生産」型の企業戦略が覆っていったことを表しているのではないだろうか。
 またファッションスタイルが音楽のジャンルと密接な関係にあることはよく知られているだろう。私たちは「ロック」と聞けば昔ながらの革ジャンなどを思い出すし、「ヒップホップ」と聞けばルーズで不良っぽい服の着こなしを思い出す。すなわちファッションスタイルが細分化したことにより、若者たちが聞く音楽も非常に細分化していった。80年代初頭の音楽は人間関係と同じようにいくつかのジャンルで分けられたが、80年代末から始まったクラブブームはその後ありとあらゆるスタイルを生み出した。クラブでDJをする時はいつの時代のどんなジャンルのレコードも対等に扱うため、これまでなかったような小さなジャンルを作ることもできるからだ。そのためクラブブーム当初のハウスやヒップホップは、90年代になるとトリップホップ、ダンスクラシック、アシッドジャズ、ハードハウス、ディープハウス、トランス、アンビエント、テクノ、ドラムンベースビッグビート、ポストロックと数え切れないほど細分化していった。
 それは、音楽を聴く若者たちのあり方をも変えた。80年代末のクラブ創世記に自らDJをしていた音楽評論家の小野島大は、当時の状況を“さまざまなジャンルがゴッタ煮的に入り混じり、奇妙な熱気を帯びていたのである。現在のようにクラブがジャンル毎に細分化することなく、なんでもありという状況だったし、異ジャンルがクロスオーヴァーすることで、新しい動きが生まれてきていた。”と評している1)。つまり同じクラブの中で異なるジャンルの音楽が掛けられたため、そこには様々なタイプの若者たちが集まっていた。    だが小野島が言うように、90年代以降は音楽ジャンルだけでなくクラブ自体も“ジャンル毎に細分化”した。特定の日に特定ジャンルの音楽が掛けられる棲み分けが進むことで、クラブにはそのジャンルが好きな若者しか集まらなくなっていくのである。
 同じようなファッションや音楽の趣味を持っていれば、同じような「ノリ」を共有できて居心地が良くなる。ファッションも音楽も細分化したことで、若者たちの友人グループも細かく分かれていった。趣味の共有で友人になるなら80年代と変わらないが、90年代の変化はそれまでと比較できないほどジャンルが細かくなり、従って「ネクラ/ネアカ」などと優劣が付けられなくなったことにある。あらゆる若者グループが平等に並び、「彼は○○系、彼は……」などと若者の全体を見渡すことも不可能になった。思えば80年代にはまだ『朝日ジャーナル』で「若者たちの神々」という表現が流通していたが、今や「若者たちの神々は誰か?」と聞かれても「人それぞれ」としか答えようがなくなっている。


携帯電話とインターネットがによる細かい人間関係の維持

 人間関係の細分化はあらゆる領域に及び、コミュニケーションの質自体を変えていった。90年代初頭、宮台真司は “……若者のコミュニケーションは現在、各種の等価な「島宇宙」によって分断され尽くしている。学校の教室の中も、かつては教室単位の一体感があったり、女の子でいえばキーパーソンを中心に二大勢力にわかれて対立したりしていたのが、現在では二〜四人ぐらいの小グループに分断されていて、それぞれが教室をこえたつながりを、街のなかで(クラブやパーティー)、あるいはメディアを通じて(電話風俗や投稿雑誌や電子メディア)もつようになっている。”と分析している2)。
 教室のような物理的な制約を離れた関係作りを始めたことに、若者たちの友人とのコミュニケーションを読み解くカギがある。そこで参考になるのが、物理的な制約を超えるのに最適な携帯電話の普及だ。携帯電話が今やコミュニケーションに欠かせないツールと化しているのは誰もが認める所だろう。
 携帯電話は95年秋の時点でまだ十人に一人しか持っていなかったが、料金値下げで爆発的に普及率を伸ばし、二年後の97年末には二人に一人が入手した。そして現在の普及率は95%を越えている。この爆発的な普及時期は当初から20代や10代を若年層をターゲットにしており、女子高生はポケベルからPHSへ、携帯電話へとすぐに乗り換えていった。そして98年から携帯電話でEメールが可能になったことにより、若者のコミュニケーションのあらゆる場面で用いられるようになった。今では高校生の8割が携帯電話を持っており、携帯電話のCMが各社とも若者を最大のターゲットにしていることは一目瞭然だろう。日本は世界で最も10代や20代と携帯電話の結びつきが強い国である。
 携帯電話を頻繁に使用していると、電話やメールを逐一チェックする癖がつき、相手に連絡したときも反応や応答が気になっていく。親友に電話してすぐに出てくれれば嬉しいし、Eメールにどんな絵文字の細工が施されているかといったことで相手の自分に対する思いを確認する。逆に、電話に相手が出なければ「今忙しいのかな?」から始まり果ては「私の電話は後でかけ直せばいいや」ぐらいに思われているのかな?などと色々想像するようになる。Eメールを送ってすぐに返信がこないと自分が軽く扱われているような気分になることもある。
 こうして携帯電話が友人との「つながり」を確認する重要なアイテムになることで、若い世代は特に用がなくても電話やEメールで友人に何かを伝えるようになった。そこでは伝える「内容」や「意味」よりも、Eメールや電話をすること自体に意味がある。それを繰り返していく中で、いつしか「つながること」自体を目的にしたやり取り、即ちコミュニケーションのためのコミュニケーションが若者の人間関係を作り始めたのではないだろうか。
 80年代の若者たちはあくまで「若者文化」を共有することでつながっていた。ある音楽の意味や情報を相手と交換することに価値があると思っていた。だが80年代末の文化の細分化はまず若者グループ自体を細分化させ、続いて90年代後半の携帯電話は「文化」の重要性を低下させた。音楽やファッションはそれが持つ意味を共有するよりも、友人とつながるための「ネタ」でしかなくなっていく。文化の重要性は作者が込めた世界観を読み解くことではなく、自分と友人との間で盛り上がれるかどうかで恣意的に判断されていく。従って無数の誤解やパロディが生まれている。
 80年代の若者のコミュニケーションは、現実の社会から学生運動のような政治的意味が失われていったことの替わりに、作者が文化の意味を作り、受け手がそれを共有していた。その意味で一つの世界観に若者が従っており、「おたく」や「新人類」ごとに異なる世界観があるという状態だった。だが90年代以降の若者は「世界観」に従って動くのではなく、「つながっていること」を実感できることを重視するようになった。

「つながり」の自己目的化、外部への関心の持ちにくさ

第五章で、80年代半ばから『夕焼けニャンニャン』や『ホイチョイ』の漫画などで「ギョーカイ」の内幕暴露が始まったという社会学者の北田暁大の意見を紹介した。北田は若者が持つマスコミや文化への強い関心がそれを成り立たせていたと指摘している。そこではあくまで文化の情報を送る方が主役で、若者たちはそれに従って人間関係を作っていた。だが80年代から90年代は“≪秩序≫の社会性に対する≪繋がり≫の社会性の上昇”へと変化したと分析している3)。

(80年代の)“若者たちは、マスコミが提示する価値体系を十分に租借したうえで自らの記号的位置を演出していくこと、つまりマスコミが演出する≪秩序≫のなかで位置取りをすることを求められていた。……しかし、九0年代半ば以降、若者たちは大文字の他者が供給する価値体系へのコミットを弱め、自らと近い位置にいる友人との≪繋がり≫を重視するようになる。重要なのは、その≪繋がり≫が、「共通する趣味」「カタログ」のような第三項によって担保されるものではなく、携帯電話のコンサマトリーな使用(用件を伝えるためではなく、「あなたにコミュニケーションしようとしている」ということを伝達するためになされる自足的なコミュニケーション)にみられるように、≪繋がり≫の継続自体を指向するものとなっているということだ。”
 
 北田によれば、マスコミと受け手がなれ合い始めたことで、受け手がマスコミの「裏側」を読むようになったコミュニケーションは、90年代に「つながり」を重視するようになった結果、今の『2ちゃんねる(2ch)』は「マスコミを裏読みすることが他人とつながるためのネタになっている」という。そして“2chを毛嫌いする若者は少なくないが、彼らもまた2chと同型の社会性を生きているかもしれないのだ。電車に居合わせたオヤジの風貌や教師の「寒い」ギャグをメールで友人に実況する若者は、世界を≪繋がり≫のためのネタにしている点において、テレビを肴にパソコンに向かう「2ちゃんねらー」たちと変わるところはない”というように4)、今の時代の若者たちに広く共通する特徴がそこにはある。
 これまでの「社会性」や「文化」は、異なる他者が意見を交わし合うことで成り立つと思われていた。だが90年代以降の携帯電話を使った若者コミュニケーションでは、「意見」を交換するよりも「つながり」の確認が重要になっている。またインターネットのブログで、「コメント」欄から議論に発展するよりも褒め合いかけなし合いのどちらかに留まることが多いのも、建設的な「意味」「意見」の交換を「つながりの重視」が上回っているからではないだろうか。
  
「萌え」――同様に変化するおたく文化

また批評家の東浩紀によれば、90年代以降の「おたく」文化にも同様の変化が起きている。80年代のおたく系文化が、現実の日本社会から失われた「大きな物語」を作品の中で求めていたことはすでに触れた。だが東によれば、90年代の若い「おたく」たちはそれを求めなくなったのだという5)。

“90年代のオタクたちは一般に、80年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に90年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。”

そして現実の替わりに「大きな物語」を作っていた80年代までのおたく文化と「キャラ萌え」との違いは、後者が効率よく感動できるためにあらかじめ用意された要素を組み合わせたものに過ぎない点だという。その要素が「萌え」と呼ばれている6)。

“……それでもこの種のゲームが、高い単価にもかかわらず一0万部以上を売り上げ、商業的に大きな成功を収めているのは、『デ・ジ・キャラット』の成功と同じく、物語の類型からデザインの細部にいたるまで、そこで萌えの基本がきっちりと押さえられているからである。……九0年代に現れた消費者にとっては、現実世界の模範よりも、サブカルチャーのデータベースから抽出された萌え要素の方がはるかにリアルに感じられる。……したがって彼らが「深い」とか「泣ける」とか言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているにすぎない。……そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。”

 ただこれだけなら別に取り立てて問題にする必要はないかも知れない。世界に意味を求めなくてもそこそこ生きていけるのなら、それもまた幸福の一つだろう。だがその先には、消費者をコントロールする技術がどこまでも発達していくという問題があるのだ。

東によれば、“特定のキャラクターに「萌える」人々は関連商品を集中的に購入するので、制作者からすれば、作品そのものの質よりも、設定やイラストを通して萌えの欲望をいかに喚起するかが、企画の正否を直接に握ることになる。”という7)。

 この指摘を裏返せば、消費者を刺激できる「萌え」の要素を掴めれば大量の利益を上げることができるということになる。そこで消費者の若者を「萌え」させるために日々研究される方法とは、効率よく消費者を意のままにコントロールできる手段を洗練させることに他ならない。東も別の場所で、コントロールの洗練は本の中で書くには問題が大きすぎてあまり触れられなかったが、それこそが真の問題だと述べている8)。と言っている。そしてこうした構造の元祖は、東も言うように戦後の日本へ輸入されてきたマクドナルドのようなアメリカ型消費社会にあり、「萌え」の広がりはアメリカ型消費社会の論理が日本の若者たちを変えてきたことを意味している。

私たちのコミュニケーションの全てを「資本」と「資本主義的関係性」が覆う
  
 この時代には、「萌え」の要素をつかんだ大企業が、メディアミックスなどに利用しながら消費者を操作して金を使わせられるだけではない。裸一貫で始めた「個人」でも「萌え」のパターンをつかめれば大金が稼げることになる。その結果、個人として他者と対等な関係を作ろうとする志が、相手をモノのように刺激して反応を引き出そうとするだけの関係に成り下がるのではないだろうか。何らかの意味や世界観を共に作り上げるのではなく、経済原則に沿った「儲け」のパターンに相手を当てはめることを繰り返していくだけになるのではないだろうか。つまりに私たちのあらゆるコミュニケーションが、高度消費社会の「需要/供給」という関係性に組み込まれてしまうのだ。そして現在の日本政府がベンチャー企業の養成や文化制作者の養成に乗り出している新自由主義政策とは、この「萌えのパターン」と「儲ける法則」を作り続けられる人材を育てている側面が強いのではないだろうか。
携帯電話のように若者たちの意見交換が「つながるためのネタ」にすぎなければ、現実の社会と関わってそれを変えていけるような行動を起こすことは困難になる。若者文化から世界観すらなくなれば、意味のある思想や文化を他者と築いていくことが困難になる。そのため現在では年長世代が若者を「政治や社会への関心がない」「世界の出来事より自分の身の回りだけが気になるのか」「すぐに欲求を満たしたがり、我慢ができない」などと批判することが多い。

だがその分逆に「つながる」ための文化や商品が増加していくことになる。2004年に大ヒットした映画・小説の『世界の中心で、愛をさけぶ』と『いま、会いにゆきます』が、両方とも身近な恋人との深い「つながり」を神秘的に描いていることは偶然ではないだろう。あるいは綿谷りさの100万部を越えた小説『蹴りたい背中』が、自分の半径一メートル以内の極私的な世界を非常に細かく描いていることも偶然ではないだろう。
 
世界の中心で愛をさけぶ』も『いま、会いにゆきます』も『蹴りたい背中』も、広告代理店が「2004年の日本経済を活性化させたヒット商品だ」と分析している。これまで見てきたように、若者ファッションや音楽の細分化は80年代初頭の「多品種少量生産」計画が10代の少年少女の消費生活にも降りてきた結果であり、人間関係の細分化も視野の狭さもそれに伴って起こっている。また「自分の身の回りが大事」と思わせているのは、90年代後半以降の携帯電話が若者を最大のターゲットにしており、今や日本の産業を牽引するランナーになったからだろう。そして欲求をすぐに満たしたがる「おたく文化」は今や世界に通用する日本のコンテンツ産業に変化しており、それもやはり80年代のような物語性を失った純粋(かつ単純)なキャラクター産業としてのようだ。

こうして新自由主義経済の政策を進める日本政府と大企業が、それでも若者コミュニケーションの変容をバッシングするなら、それも援助交際や“キレる少年”の時と同じ「消費社会のマッチポンプ」なのだ。この矛盾に日本政府や企業が気づけなければ、日本の若者たちはこれまでの人類にとって経験したことのない困難な状況に陥ってしまうと筆者は考えている。それは社会的な自立の環境が全く整えられていない状態で消費とメディア漬けにされたら人間はどうなってしまうのかという、未知の領域である。


第3章
1) アクロス編集室編『ヘタウマ世代――長体ヘタウマ文字と90年代若者論』(PARCO出版、1994年)121頁
2) アクロス編集室編前掲書121頁
3) アクロス編集室編前掲書142―143頁
4) 宮台前掲書(二章)201頁
5) 宮台前掲書110頁
6) 宮台前掲書115頁
7) 黒沼克史『援助交際――女子中高生たちの危険な放課後』(文藝春秋、1996年)31 頁
8) 黒沼前掲書97、101頁
9) 黒沼前掲書129頁
10) 黒沼前掲書164頁
11) 井田真木子『ルポ十四歳――消える少女たち』(講談社文庫、2002年)272―273頁
12) 黒沼前掲書35頁
13) 黒沼前掲書35頁
14) アクロス編集室編前掲書79頁
15) アクロス編集室前掲書215頁
16) 宮台前掲書118頁
17) 井田前掲書188頁
18) 井田前掲書69頁
19) 三浦前掲書(二章)158―159頁
20) 宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社、1997年)47―48頁
21) 三浦前掲書177―179頁
22)  三浦前掲書185頁
23) 宮台前掲書53―55頁、57―59頁
24) 三浦展ファスト風土化する日本』(洋泉社新書Y、2004年)21頁
25) 三浦前掲書25―26頁
26) 中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』(花伝社、2004年)265―266頁
27) 三浦前掲書43―46頁
28) 中西前掲書61頁
29) 黒沼前掲書124頁
30) 井田前掲書329頁
31) 高崎真規子『少女たちはなぜHを急ぐのか』(NHK生活人白書、2004年)37―39頁
32) 高崎前掲書105―106頁
33) 中西前掲書179―180頁
2) 宮台真司『制服少女たちの選択』(講談社、1994年)
3) 北田暁大『嘲笑う日本のナショナリズム〜「2ちゃんねる」に見るアイロニズムロマン主義』(『世界』03年11月号)124頁
4) 北田前掲論文125頁
5) 東前掲書(六章)58頁
6)東前掲書114―115頁
7) 東前掲書71頁
8) 『図書新聞』01年11月30日号


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


最終部 「無限消費社会」を超えて――戦後批判の<愛国心>から「新しい社会運動」へ


第十三章 高度経済成長以降の日本社会の本質


「無限消費社会」と化した現代

 これまで見てきた中で明らかになったのは、1960年代以降の日本が若者を中心に総消費社会化していったことだろう。それが行き着く所まで来た1990年代後半に、小林よしのり福田和也のような戦後批判と「愛国心」の提案が盛んになったことは、ある意味で当然の成り行きだったのかも知れない。
 だが出発点の疑問が自然でも、その後の批判や提案が的を外していることもこれまで見てきた中で明らかになったのではないだろうか。小林は現在の消費社会化は米国の敷いた民主化政策に日本人が洗脳されてしまったからだと指摘している。確かに、米国が日本を東アジアの工場として経済成長に専念させようとした事から全ては始まっている。だが戦後初期からそうだったのではなく、米国の政策が転換したのは1950年の朝鮮戦争前後であり、高度経済成長が始まったのは1956年からだった。それまでは米国も日本を民主化の実験国にする意識があったのであり、日本人も第二章の60年安保闘争で見たように自ら「公共性」を探ったり米国の変節を批判したりしていた。
ではなぜそれが高度消費社会に変化していったのか。小林や福田なら「日本人の意識が軟弱で自己中心的になったから」と言うだろう。確かにそうした面もあると言える。だが人間の意識はそれ自体が独立しているのではなく、自分が置かれた「環境」に常に左右されている。筆者が考察してきたのはその「環境」の変化がどのように人びとへ影響してきたのかということだったが、それは結局の所、1960年前後から「高度資本主義」と「企業中心主義」というシステムが回転し始め、何が起きても変わらないまま強化され続けていったからと言えるのではないだろうか。その中では、どんなに若い世代の新しい自己実現に見えることでも、結局は消費社会の枠組みの中に回収され、様々な問題や世代の断絶を後に残していった。
システムが発達し強化されていくことと、人びとが何を「幸福」だと思うかは、常に密接に結びついていた。工業化された第二次産業が中心になった高度成長期からは、安保闘争のように政治参加を通して「個人」と「公共」を結びつけることは「限界がある」「就職が失敗しかねない」と思われ始めた。そして働き続けて大型家電製品を手にすることが「幸福」だと思われた。だがそれはベトナム戦争で日本を軍事基地化した米国の意に沿った方向でしかなく、ベトナム特需にかなりの面を支えられていた。
第三次産業が中心になり始めた1970年代以降からは、第二次産業に従事して激しく労働することや大型製品を消費することは「時代遅れの画一化」だと思われ始めた。そして若い世代を中心にして細かいモノを買うことが「一人ひとりの新しいライフスタイルだ」と思われた。だがそれも、根本には「多品種少量生産」へ転換させる経済政策があった。
さらにバブル経済が崩壊して「経済のグローバル化」が合言葉になった1990年代からは、「終身雇用・年功序列制度」を反省する空気が大人世代に広まった。そしてコンピュータのベンチャービジネスが推奨されたが、それも現在の政府とその上にある米国が推し進める政策から始まっている。また「金まみれの消費社会」への反省も徐々に広まり、自然回帰や自分の精神に注目が集まったが、それも旅行代理店や「癒し」ビジネスによって新しい消費に変えられている。その分「金まみれの消費社会」は若者に降りてきて、どこまでも低年齢化されてきている。
経済成長も消費社会化も、その時代に生きていた人びとが選択するときは「軟弱」とも「自己中心主義的」とも思わなかっただろう。いつだってそれは過去を振り切りより良い未来を作る選択肢だと思われていた。高度経済成長の初期に家庭へ入った専業主婦も、モーレツに働いた会社員もそうだった。学生運動から「ニュー・ファミリー」や「広告ブーム」 へ向かった団塊世代の多くもそうだった。新しい関係性を築くために「シラケ」から「クリスタル族」へ向かった人びともそうだった。自分たちは「新人類」だと思った人びともそうだった。消費で自己実現しようとした80年代の女性もそうだった。90年代以降に洗練されていく「おたく」もそうだった。ワンルームマンションに住む若者もそうだった。80年代末の「団塊ジュニア」もそうだった。90年代の女子中高生や彼女たちと同世代の筆者もそうだった。「キレる少年」たちの日常や住んでいる地域もそうだった。現代の小学校高学年から中学生もそうだろう。「団塊ジュニア」以降の10代を持ち上げた企業のマーケッターたちはそれが生み出す社会問題までは意識できなかっただろうが、持ち上げることに関しては文化振興のための確信犯だった。
ただ、私たち日本人は気づくことができなかったのだ。そのほとんど全てが資本主義システムを強化する方向でしか選択していなかったことに。自分たちの選択がいつでも政府・官僚やマスメディアと癒着した関係の中で進められていたことに。そして資本主義を強化し続ければ消費対象を探し続ける必要があるため、ターゲットはどこまでも低年齢化し(今のベビー服や胎内教育の活況を見よ)、若者のコミュニケーションを変容させ、様々な社会問題を生み出すことに。
すなわち高度経済成長以降の日本社会が現代に残した最大の問題は、どんなに自由で新しく見える試みをしてもそれが結局は高度消費社会のシステムに回収されてしまい、その事が自覚されないまままた次の世代が同じような試みを繰り返してしまう事にあるではないだろうか。それは米国が日本を東アジアの工場として経済成長に専念させ続けた結果、日本の政治家や官僚がその中で政策を進めていくことに慣れすぎてしまい、引いては日本の企業社会と私たちがその枠組みの中でしか物事を考えられなくなってしまったからだ。だがこれ以上同じことを続けて、10代の少年少女に“ムダなもの溢れてしまったもの役立たないものも 迷わずに選ぶよ”などと自嘲的に歌わせるような社会の先に、一体何が待っているというのか?
高度資本主義を存続させることを至上命題にしてきた結果、現代日本が何をやっても高度消費社会に回収されていく事態を、筆者はここで「無限消費社会」と呼んでみたい。では「無限消費社会」を少しでも良い方向に変えて行くにはどうすればいいのだろうか。


愛国心>では「無限消費社会」は変わらない

小林や福田の戦後批判・消費社会批判が多くの支持を集めたのは、現代日本に誰も納得することができなくなったからだろう。だがその後の主張が的を外しているのは、問題を個人の意識にだけ求め、戦後の社会システムを切り離しているからだ。
 小林や福田が現代の消費社会を批判するのは、それが人びとの生活をバラバラにし規範意識を崩壊させる原因だと思っているからだ。小林は“何不自由ない豊かさの中で自分の個を支える共同体や歴史から切り離されて生きてきたせいで「ぼくはこのままでいいのだろうか?」「ぼくって何?」……と個をぐらつかせている若者がいて”といったモチーフを何度も持ち出している1)。福田和也も“日本人が、みんな小ぢんまりとして、のっぺりとしてしまい、ただなにがしというブランド製品を身にまとうということでしか「個性」を示しえない、ストレスとフラストレーションと神経症だけが人格であるような代物になってしまった”というような主張を繰り返している2)。
 彼らの社会への疑問自体は間違ってはいない。だがその解決策に戦前日本の「愛国心」という意識を持ち出してくることが間違っているのだ。彼らは個人の意識変化だけに原因を求めているから対案も「愛国心」という意識になってしまうのだが、現在の私たちが立っている社会経済システムの根本を捉えることができなければきっとまた失敗するだろう。
 小林や福田が批判する消費社会の個人主義には、コンビニエンスストアワンルームマンションや情報化が1980年代以降にあまりに急速に進展したことが影響している。小林が規範意識の消えた象徴と見なす援助交際女子高生は、消費社会の低年齢化が影響している。小林が“……自分を超越する何かにすがることが絶対にない人間とはお友達になりたくない……不気味なニヒリズムに精神が浸食されていそうである日突然発狂しそうで恐い”と見なして批判する少年犯罪の加害少年たちには、画一的な郊外ニュータウンの環境が影響していた3)。「個人」と「公共」を人びとが自らの意思で作り上げる手段や慣習作りを棚上げした状態で消費社会化と情報化を進めてきたツケが回ってきたのだ。
それらはみな人びとが自ら主体的に選択した社会変化というより、システムの流れに主導されて自己の願望が作られることに疑問を持たずにいた結果なのではないだろうか。つまり自ら主体的に情報やサブカルチャーを使いこなしたのではなく、気づいてみたら自分の周りに広がっていた。真の問題は消費社会化や情報化ではなく、それを選び取ることがいつでも経済政策のような他人の判断に基づいていることなのだ。
このように、日本は自らが立っているシステムを自覚出来ないまま社会を完成させてしまった。そのため現代が閉塞感に満ちているのであり、それを米国や“サヨク”や戦後日本人といった「過去」のせいにしてもまた同じ失敗を繰り返すのではないだろうか。
時代ごとに存在したメンタリティを理解する努力を省いたまま「誰もがイデオロギーに支配されていた学生運動」や「米国に洗脳された戦後日本」などとイメージし、そこに失敗や不満の原因を押しつけて、高度資本主義を前進させるためにいつでも手を変え品を変えてきたのが高度経済成長以降の日本社会だった。その現実と向き合わずに「愛国心」という特効薬を持ち出しても、結局は自己を確立することや他者と対等にコミュニケーションすることの代わりになるだけではないだろうか? つまり小林や福田が「資本主義社会の売れっ子論客」になっていくだけなのではないだろうか。彼らは結果的に自らが立っている足場をも隠蔽しているのである。そもそも戦前日本の「愛国心」は、誰もが同質な「世間」に所属していなければ自己の確立も他者との対等なコミュニケーションもできない日本人をまとめ上げるために必要とされた、人工的な超越性であった。
小林は言う。“ちゃんと個人を考えるなら「国」を考えるべきなのだ 公なき個ではヨーロッパの個人主義にすら近づけないのだから”と4)。福田は言う。“私たちは、この日本という場所で、さまざまな保護や支配の網の目にとらわれています。その網の目に異議を申し立てるにしろ、提案をするにしろ、日本というものの存在を見すえなければ、何もできません。”と5)。その通りだ。だが問われているのは、その「公」を「日本の風土や価値観」といった抽象的な概念で捉えるだけでなく、どうすれば社会経済システムとして可視化し、私たち一人ひとりがシステムの解体と再構築に関わっていけるかということではないだろうか。「個人」と「公共」を再び結びつけるためには、より多くの人がシステムを把握したり関わったりしてゆくことが求められているのだ。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


終わりに 未来に向けて――新たな社会運動がつくる公共性

2003年イラク反戦運動の可能性

 それでは最後に、「個人」と「公共」を結びつけて「無限消費社会」を越えていくための一つの手段として、自分も関わった2003年のイラク反戦運動が持つ可能性について考察したい。
それはもともと80年代以降にNPONGOといった「新しい社会運動」が世界で盛り上がってきたことが影響していた。その特徴は、「THINK GLOBAL,ACT LOCAL」という標語に表れた環境問題への関心や、紛争地へ民間人が直接支援に行くことや、政府への対案提示である。日本でも92年の「リオ地球サミット」をきっかけに若年層へ広がり始め、95年の阪神大震災では若者のボランティアが大勢参加したことが注目された。その流れが03年のイラク反戦運動へも反映され、環境問題に関心を持つ若年層と年長の社会運動家というという異なる世代がそこで結びついた。消費社会の移り変わりが早いため世代の断絶が強調されがちな日本で、これは画期的なことだったのではないだろうか。
03年のイラク反戦運動は、世界同時行動に呼応して行われていた。2月15日には全世界で合計1000万人が参加した大規模なもので、開催場所も世界で200以上の地域に及んでいた。日本でも東京のみならず全国で同じ日に情報交換しながら行われていた。
日本の反戦運動に参加した若者には、「イラク反戦」と共に「つながり」「ネットワーク」を求める意識が存在していた。“みなさんも一緒に歩きましょう”“ひとりひとりの力を大きな力に変えていきましょう!”“みんなで戦争を起こさない世界に変えていきましょう!”といった呼びかけからは、個人と個人の対等な連帯の追求が伺える。そして「従来の反戦運動だけでは戦争は止められない」という意識から、様々なNGOへ呼びかけていた。“「石油をめぐる戦争」を止めるために。再生可能エネルギー・環境問題に取り組んでいるみなさまへ”、“私たちのお金が戦争につぎ込まれないようにするために。<地域通貨・エコマネーや金融問題に取り組んでいるみなさまへ”、“これ以上の怒りと悲しみの連鎖を断ち切るために。人権問題・人道支援に取り組んでいるみなさまへ“といったものだ6)。
 そして実際に、様々なNGO、個人、若者から親子連れや年長者まで、会社員からフリーターまでが参加していた。そして80年代や90年代の若者のような選択した文化ごとにタコ壺化した関係ではなく、勉強好きな人、クラブ音楽が好きな人、昔の音楽が好きな人と様々な背景を持った人びとが共通の目的のために集まっていた。それは硬直した運動にありがちないつまでも拘束される関係ではなく、目的が終わればまたそれぞれの場へ戻っていく流動的な関係だった。
 そのため援助交際女子高生で問題にした「流動性」がここではいい意味で活かされていた。例えば東京の渋谷や新宿という最も流動性の高い都市を、逆にチラシ配りや街頭投票といったゲリラ的な神出鬼没の街頭アクションに活かしていた。そこでは戦争の問題や社会問題について様々な人と話をすることが出来ていた。
 また、本論で様々な面から問題にしてきた高度情報化社会も、ここではそれがもたらした新たなツールを人びとが「主体的」に使いこなせることを学べた。インターネットのホームページでマスメディアでは報道されない世界の出来事や日本のデモ情報を伝えた。これまでなら踏みつぶされていたような個人が企画した小さなイベントもインターネットで広めることができた。またスタッフがデモやイベントを組み立てる時はメーリングリストを活用し、同じ職場に属していなくても毎日毎日会議を開かなくても迅速に作業を進めることが出来た。デモをビデオカメラで撮影してすぐにインターネットで映像を流している人もいた。そもそも海外との連帯や情報交換はインターネットが可能にしていたのだ。04年4月のイラク人質事件でも、市民がインターネットや中東のアルジャジーラテレビを活用して人質拘束者に訴えたことが解放に影響していた。
 消費社会化によって生まれたツールも人びとが「主体的」に活用した。デモの先導車で古今東西の名曲をDJしながら巨大なサウンドスピーカーから流し、今ではそれを特化させたサウンドデモというものもある。デモを知らせるチラシ(「フライヤー」と言い換えていた)には漫画イラストを用いてグラフィックデザイン調にした。それを渋谷のような繁華街の洋服店やナイトクラブに置くことで、反戦に関心のある人間だけのタコ壺的な集まりにならないよう考慮していた。デモ出発前のイベントでもバンドに演奏させ、会場ではデモで持ち歩くプラカードや横断幕を参加者が自分で作れるようになっていた。
 そして、全共闘運動に見られたような「社会の外側」「豊かさの根本」への視点がもう一度浮上してきた。そもそもNGOの環境運動や人権活動では南北問題がかなり意識されており、そこに若者たちはコミットしていた。イラク戦争でも「石油のための戦争」や「日本が米国に付いていくのはグローバル経済の“勝ち組”になりたいから」といった認識はかなり共有されていたのではないだろうか。「南」側へのコミットメントも、旅行、NGOフェアトレード商品の購入といった形で探られている。それらはみな、戦後日本の豊かさが「南」側の貧困に依存した状態で成り立ってきたことや今も成り立っていることへの自覚の萌芽ではないだろうか。それを消費社会が日本国内にもたらす問題と同時に変えていくこともできるだろう。
 つまり、消費社会と情報化社会がもたらした長所を活かしながら誰もが自分から主体的に「個人」と「公共」を結びつけていける可能性があるのだ。


未来の社会に向けて

 2001年の米国の9、11事件後の報復攻撃に反対して渋谷で行われた「ピースウォーク」を主催していた人びともまたNGONPOの経験者だったが、その呼びかけ人の一人である小林一朗は行動原理を以下のように語っている7)。

 “「自らの素朴な気持ち」を表現できる場、対立を越えるためにどうしたいのかを表現できる場にするためである。問題に詳しくなくても、家族連れでも気軽に参加できるウォークにしたい。よくテレビなどでタカ派の知識人が高圧的に一般の人たちの無知を指摘し、意見の表明を封じるような態度を取っている。だがたとえ無知であったとしても、強固に反対意見を表明するのではないとしても、個人の意見を顕せる場、素朴な気持ちを表に出せる場は尊重すべきなのだと思う。
  ……このようにCHANCE!の活動は特定のリーダーが引っ張るピラミッド型ではなく、ネットワークによって展開されている。自然発生的に自己組織化された連帯が多重に行われていく。”

もちろん「新しい社会運動」にも限界はあるだろうし、「公共性」を作るための手段はこうした反戦デモだけではない。私たちが生きる消費社会のシステムを把握しつつ、それぞれが自らの生きる現場に基づいた行動をしていき、その成果と課題を他者と広く共有すれば、どんな思考や行動でも自ずと「公共性」が形成されていくのではないだろうか。
すなわち本論の結論は、以下のようになる。私たちが未来へ進んでいくためには、闇雲な前進の前に「戦後」という時代をよく知る必要がある。だがそれは小林や福田のような粗雑な批判ではなく、時代と社会の変遷をきちんと検証しなければならない。その上で年長世代は、もう高度資本主義社会の維持や強化という同じ方向性を反復するのではなく、より多くの人が自らの意思で社会の方向性を決めていけるようにするべきだろう。具体的にはその時初めて「戦後」を真に精算し乗り越えていくことができるのではないだろうか。
そして年長者たちから若者へ、若者批判でも消費社会のマーケットの対象と見なすのでもない真摯な反省の姿が伝われば、若者たちは自分たちの生きる社会構造を自らの力で把握出来るようになるのではないだろうか。年長者はそのために本論の後半で見てきた現代の消費社会と情報化社会を少しずつ緩め、若者たちが自ら主体的にそれらのツールを使いこなせるような環境整備をするべきだ。若者たちは世代対立ではない形で応答し、自らの消費生活を省みることが重要になる。未来の日本社会はきっとそこから始まるはずだ。


終章
1)  小林よしのり戦争論』354頁
2)  福田前掲書(一章)88頁
3)  小林よしのり戦争論2』516頁
4)  小林よしのり戦争論』376頁
5)  福田前掲書78―79頁
6)  「WORLD PEACE NOW」ホームページ。http://worldpeacenow.jp/
(データ更新年月日:2月2日、アクセス日:12月21日
7)  坂本龍一・編『非戦』(幻冬舎、2001年)135、137頁