00年代の若者たちと社会運動−−前編・戦争の時代(9.11、イラク反戦、NGO/NPO)

……もっと違うカタチを。


このせまいせまい東京の中で、現実社会もインターネットも、数え切れないほどの市民団体・文化のサークル・地域コミュニティ・そして企業が乱立し、横に広く交流することがないまま自分たちから見える世界観だけを主張し、少ない人手でイベントを開催しては固定した人を呼び込み喜ぶ。

また、過去の振りかえりをせずに突き進み、結局同じ事を繰り返し、教訓が次の世代へ引き継がれていかない。活動となると、なぜか誰も歴史をまとめあげようとせずに目の前の出来事を優先する。

そうしていつか人も年をとり、規模も縮小し、気付けば世の中全体はどんどん悪い方向へ向かっていた…。


他人に当たり散らしている訳じゃないぜ、ぼく自身もそうだったからさ。


でも、もう限界だ。きっと必要なのは僕達が生きる「現代」を「それぞれの世界観を重ね合わせること」でハッキリさせ、それぞれの活動に共通点を見出すことだ。

僕はこれまで東京の中の様々な若者運動に参加したり作り手になってきたので、それぞれの活動とそこにいる人達の思いを振り返り、共通点を考えたい。またそれを通してニッポンの00年代と今の状況を明らかにしてみたい。
普通の日常からしたら、あまりにも現実離れしたことを書いていると思われるかもしれないし、僕ももちろんこういう事のみをしながら生きている訳じゃない。趣味も仕事もあれば友人関係も恋愛もある。ただ、ここで書くことも欠かせない自分の一部分であるだけだ。
だからもしあなたがこのページに偶然たどり着いたら、僕という人間に少しでも関心があるなら、少しの間だけ付き合ってくれたら嬉しい。

僕に語れるのは9.11〜イラク反戦運動グローバル化に取り組むNGONPOから、『POSSE』、“Save the 下北沢”、東京のサブカルチャー、そして「ネオリベトーク」まで。

例えば世界の構造から雰囲気までを変えた9.11から5年経ち、日本のなかの構造から雰囲気までを変えた小泉政権が終わるという。

それぞれの活動は、時代の変化に若者が向き合い始めたものだと思っている。

けれど異なる価値観を交流させずに、それぞれ自分自身の活動に追われながら見える世界観だけで活動していると、いつか失速して状況の変化に飲み込まれる。それは僕にも当てはまるから、過去の振り返りは自分自身の区切りにもちょうどいい。

話は世界の戦争やグローバル化から、東京の変化とそこで生きる若者の内面にまでおよび、できるだけ他人の思いに近づきながら書く。
もちろん僕一人が見て感じて話を聞くことには限界があるが、強引さを承知で全体像を描いてみたいということだ。だから事実の間違いがあればぜひ教えてほしいです。

後は普段は細かく分かれている若者運動を、読者が自由につなげたり、足りない部分を補ってくれる事で、これまで交流したことの無かった人がコメント欄で混ざり合ってくれる事を願う。
僕らはどこから来て、今どこに居て、これからどこへ行くのか。各自の行動と考えが僕たちの未来を切り開いていくと信じながら。

この文章では、00年代の東京に出てきた若者運動を2つの時期と種類に分けてみる。
前編は、世界を変えた9.11事件と2003年春のイラク戦争について。
その時に新しく出現し大きく盛り上がった反戦運動と、そこに影響した90年代からのNGONPOの盛り上がりだ。
APバンクや、代々木公園アースデイフジロックといった巨大フェスの広がりともつなげながら、その共通点を「世界への関心/つながり」と「企業社会への浸透」として、その功罪を考える。

若者の反戦運動が下火になってからの後編はまさに今2006年の話だ。まず「新自由主義」(ネオリベ)の話から始まる。
00年代は戦争と並んで、コイズミ首相・企業社会・そしてグローバリゼーションが「格差」や「ニート・フリーター」を本格的に僕らへ身近にさせた時代だった。
そこから出てきた若者運動の共通点を「流動化との対決」と考える。

「フリーター」や派遣社員といった仕事の「流動化」が生む問題に若者自身が取り組む『POSSE』の登場。
人間生活と意識が流動化する大都市型の再開発に「NO!」を言う“Save the 下北沢”の登場。
高円寺を生活拠点にしながら人間関係の確保と反ネオリベの主張を同時に行う『素人の乱』とサウンドデモ
さらにインターネット・具体的にはブログやmixiと若者の関係。
それぞれの功罪と、これからどうしていけばいいのか――を考える。

そして最後に、ではこうして色々と他の活動を見てきた「ぼく自身」はいったい何なのか、自分が取り組む「ネオリベトーク」という集まりは何か、書いてみたい。


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1.90年代から9.11へ――「わたしはこれからどこへ行く?」

○90年代の若者たち

00年代を考えるには、まず前の10年間の手短な振り返りから出発すればいい。

1990年代の若者って何だったんだろう――直接的には、90年代初めのバブル崩壊の影響が最も大きいだろう。

94〜95年には「就職氷河期」という言葉が流行し、大学生や女子学生が全く就職先を見つけられない状況が生まれた。
また僕は社会学を学んでいたのだけど、様々な社会学者が、97〜98年に離婚率、自殺率、フリーターなど非正規雇用の増加など、それまでの社会を支えていた強い統合が解体されていく現象が一気に出てきたと指摘している。

色々な理由があるが、第一には80年代から続いてきた日本企業の国際競争激化のしわよせと、橋本首相(96〜98年)が進めた「構造改革」の結果だろう。
また阪神大震災オウム真理教の事件は、「もう何が起きてもおかしくない」という雰囲気を大きく深く広めた。援助交際と少年犯罪といった若い世代の逸脱現象が話題になるのも90年代半ばであり、さらに数年後には「学級崩壊」、「ひきこもり」、「リストカット」、「ネット自殺」などが次々とメディアをにぎわすようになる。

僕が10代を過ごしたニッポンの90年代とは、戦後の空前の安定を支えてきた制度がどんどん崩壊していく時代だった。

そして近代の権力による「統合/排除」という人間管理はポスト近代の人間管理へと変わり、若者は真っ先にその対象になる時代だった。
「それぞれの責任で自己実現すればいい、でも全員の人生の保障はしないぜ――」。こうしたメッセージを僕らは浴びながら育ってきたはずだ。

とはいえ、社会が大きく変化しても、人の意識や文化には少し遅れて影響するものだ。
今の僕らの世界に広がる「むきだしの暴力」が始まった90年代後半の若者文化に、まだ今ほどの危機感は無かった。
音楽の渋谷系やクラブカルチャーも『エヴァンゲリオン』もそうだろうし、若者運動でもそうだろう。

例えば近代/戦後の日本でメインになった「良い会社に入り一生懸命頑張る」という生き方が崩れてきたことに合わせて「ダメでいいじゃん」と言い放った「だめ連」が有名になったのは90年代半後半だと思うが、当時の「だめ」はまだ世の中から少し外れることであり、自分の選択だった。
そして僕は下北沢、渋谷、原宿、新宿、高円寺をうろつくサブカル少年だった(これは後述する)。

今なら職が無いことでもメンタル面が不安定な事でも、「だめ」は僕らの周りに溢れており、特に職は選択どころか「探しても無い」という状況だ。
90年代の若者に、仕事を持たないこと、人種や国籍のマイノリティ、性のマイノリティ、「おたく」やサブカルチャーという、それまでは「社会の中心」から異端視されていたものへの理解が広がったとしたら、その代わり00年代は「社会の中心」を完全に失い、問題は自分自身の意識や生活に帰ってきたのだろう。
 
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○9.11と00年代の若者たち


そんな過渡期の90年代が終わり2000年代になったとき、アメリカの世界貿易センタービルに2つの飛行機が激突する。

以降の日本は自衛隊を本格的に海外へ出し始める。実際には90年代から日本の制度は戦争との結びつきを強めていたのだが、9.11は人の意識への影響が大きかった。

日本は半ば突然に世界へ開かれ、僕らも「戦争」が急に身近に感じられるようになったのだと思う。
改憲もミサイルなどの武装も、これまであまり語られてこなかった事が一気に噴出する。
若者カルチャーにも「戦争」や「世界」をテーマにしたものが増えていったことを僕ははっきりと覚えている。

僕もその半年後に「CHANCE!」というアフガン攻撃反対から始まった若者ネットワーク運動に参加し始めた。

『CHANCE!』:http://give-peace-a-chance.jp/

もう何が起こってもおかしくない、この先どうなるかも分からない、人ごとでもない――。

 さらに2003年にはイラク戦争も始まる。こじつけの理由を積み重ね、世界中の世論や国際法を無視して始められた戦争は、世界を分断と混乱に陥れた。
強者が弱者を容赦なくつぶし、人権を踏みにじり、自国内でも監視社会化を進めていく。

そんな中、東京に5万人が集まったイラク反戦運動は、この9.11から出てきた若者運動が年長世代の運動と協力し始めたことで作られた。
9.11で開かれた世界の情報と「戦争の時代」という意識はこの盛り上がりに影響していた。
最も盛り上がった2003年3月8日の集会とデモ@日比谷公園は4万人、21日@芝公園は5万人が参加した。
僕はいちスタッフとして動きながら会場を見ていたのだが、半分以上は若者の参加者だった。この時集まりを作っていたのは「WORLD PEACE NOW」という様々な団体のネットワークだった。

『WORLD PEACE NOWhttp://www.worldpeacenow.jp/

では、それはどのようにして盛り上がっていったのだろうか。

まずはCHANCE!の話から始めたい。2001年9月11日にアメリカで世界を揺るがす同時多発テロが発生し、翌日ブッシュ大統領は「報復」を宣言、日本の小泉首相もこれを支持した。

こうして世界が戦争へ向かう中、東京の小林一朗という男性が「報復戦争に反対する動きを起こしませんか」と呼びかけた一通のメールからインターネット上で人が集まり、メーリングリストが作られた。
そして「テロや戦争を平和を作るチャンスにしよう」として「CHANCE!」が生まれた。
第一回目の「ピースウォーク」は9月23日に渋谷の代々木公園〜渋谷駅前〜原宿というコースで行われ、約300人が参加した。
その後も20回近くのピースウォークが行われ、僕が初参加したのは初回から半年後の2002年3月だった。テロをきっかけに開かれた「世界への関心」。

まずCHANCE!の参加者は20代〜30代前半の人が中心で、社会的立場が本当にバラバラな人達がインターネットでやり取りし、何かをする時だけ集まるといういかにも都会的なスタイルだった。
これまで社会問題や運動にあまり関心の無かった人も多い。

ピースウォーク」の特徴は大きく分けて3つあり、まずデモ参加者の多様性と自律を重視していた。
またデモで使われがちな硬い用語を「フライヤー」や「MC」などの柔らかい言葉に切り替えたり見た目を華やかにしたりして、親しみやすくした。
音楽をかけたりそれをラジオで飛ばしたりするなど様々な工夫をしていた。
日本人がデモに持つ「集団的で、怖くて、ワンパターン」というイメージを覆すためだろうし、僕もそれが面白くて初めてデモに参加した。
こういう試行錯誤は昔からあったのだろうけど、「ピースウォーク」がその後の若者パレード/デモに与えた影響は大きいと思う。CHANCE!には現代的な運動の特徴が集約されていた。

小林一朗さんは当初3ヶ月くらいでCHANCE!を解散するつもりだったようで、それは組織と役割を固定化したくないという思いがあったようだ。
そういう発想は今でも僕は共感するし、彼を尊敬する所でもある。ただCHANCE!は参加者が広がりすぎたようだ。
その後も続けたいという意見が出て続行されたし、それが出来るくらい多彩なメンバーがあそこには集まっていた。
彼は呼びかけ人を降り、役割と責任が他のメンバーへ分散された。

そして有事法制を考え直す「WHO IS YUJI?」キャンペーンや難民支援などを始め、ピースウォークも続けながら、イラク戦争の時代に入っていく。
僕もその中で、一番若い人間として本当に色々な事を経験した。させてもらった。


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2.イラク反戦運動と若者――「不安な僕らは世界に開かれる」


イラク反戦運動「WORLD PEACE NOW


02年の秋にブッシュ大統領が国連で「イラク攻撃」を示唆する演説をし、世界中で危機感が高まっていく。

日本でも動きが起こり始めようとしていた。
10月始めにCHANCE!はイラク攻撃反対のピースウォークを始めて開催し、僕も若いなりに中心的に動いた。
そして数日後に「許すな!憲法改悪・市民連絡会」がCHANCEに連絡を取り、「メインは全てCHANCE!に任せるから一緒にウォークを出来ないか」と言われた。このままバラバラにやっていても大きなうねりにはならない、と感じていたのだろう。

さらにこの戦争は世界の環境や人権にも被害を及ぼすため、アムネスティオックスファムグリーンピースといったNGOも実行委員会へ加わっていく。10月末に渋谷の宮下公園に約700人集まり、翌03年1月には日比谷公園へ7千人、3月には4〜5万人が集まっていく。

僕は11月から2月まで学校の勉強で活動の中心からは離れていたが、中の人たちの努力と苦労は相当なものがあった。
ピースウォークで挙げた3つの特徴をさらに発展させ、マスコミへの宣伝と海外の運動との連携も強まった。
また異なる運動スタイルの間での対話も積み重ねられ、後で書くNGONPOの特徴である「反対より対話を」「表現を柔らかく」が年長世代に伝えられた。

国連でのフランスとアメリカの攻防を中継するなど、イラク攻撃に関する報道がどんどん増えて人々の関心が高まっていたことも大きかった。
あの時の日本人は世界の激動に自分自身が開かれていく感覚を味わったはずだ。それはまた、既存の世の中のしくみや人間の生き方は根底から変えていくこともできるんだ、というダイナミズムでもある。これこそ日本という空間が一番覆い隠していることだ。

自発的にビラ配りや街頭宣伝をする人達がたくさん現れ、東大にスコット・リッターを呼んだイベントは会場から人が溢れた。
2月15日には世界中で計1千万人もの人が参加した同時反戦デモが行われ、これは本当に新しいグローバルな人々の時代を感じさせた。

日本でも特に3月8日の集会とパレード/デモは公園中を多様な人達が埋め尽くし、「まだ戦争を止められるかもしれない」という思いも溢れ、2月の終わりに戻ってきた僕は心底感動した。
CHANCE!で経験した都市的な個人のネットワークと、WPN3.8で経験した「日本でもこれだけの事は起きるんだ」という思いは、運動に関わる上での自分の原点だ。

しかしイラク攻撃は無惨にも始まる。

WPNも続いていたが、米軍がバグダッドへ侵攻し、陥落させ「戦闘終結宣言」を出すに伴って、徐々に参加者が減っていった。
そして03年の後半には大きく人数を減らし、社会的なインパクトも無くなった。
一度は大きくつながったパレード/デモの多彩な作り手たちも、またそれぞれの現場へ散っていった。

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イラク反戦の成功と失敗、そして若い世代

 
終戦の直後に有事法制イラクへの自衛隊派遣といった大きなテーマが出てきて時間を取られたこと、CHANCE!を中心とした「警察との会食問題」で内部が割れたことなどがあるだろう。
でもそれはあくまで運動をしていた側の理由だ。

もっと一般的で大きな理由は、パレード/デモの人数があまりに一気に増えすぎて、人々の間で相互理解や認識を深める機会が作れなかった事ではないだろうか。
何せ約五ヶ月4〜5回の間に60人→700人→7000人→50000人だ、サッカーW杯にような「お祭り」という面も確かにあっただろう。

だからイラクが「終戦」したように見えたり、北朝鮮など別の問題を突きつけられた時に、初めて参加し始めた人がモチベーションを保ち続けることができなかったのだと思う(ここで感じた「ゆっくり話し合う場の必要性」は、自分がネオリベトークに関わる理由の一つだ)。

また海外のイラク反戦の運動はオルター・グローバリゼーション(今のグローバル化に反対し、本当に人々のためになるグローバル化を求める運動)と結びついていたが、日本はそれが弱かったと言われる。
実際僕がそうした問題と自分自身の将来を結びつけられるのはだいぶ後になってからだし、今ニート、フリーターと騒がれる若者の問題も、この視点や運動がきちんと入ってきていたらまた変わっていたはずだ。
日本はまだこの面で世界から隔絶していたのだろう。

世界では「もう一つのグローバル化」を求めて開催される「世界社会フォーラム」に世界中から人が集まっていた。

世界社会フォーラム」:http://www.forumsocialmundial.org.br/
http://www.kcn.ne.jp/~gauss/jsf/charter.html

それを日本で開こうという若者数人が動いたのはちょうどイラク戦争が「終結」したころで、僕もそれに少し関わり始め、マイミクのそんぴゅんとはそこで出会った。ただあまりにも計画が大きかったため途中で頓挫している。

WPNは03年6月に、より大きな平和を目指すとして「再出発宣言」をした。
みんなせっかく出来た多様なネットワークを活かそうという思っていたからだが、これは失敗した。
NGOと市民団体はもともとフィールドが違った上に、それぞれが取り組む問題で手一杯になってしまったからだ。
対話の継続より目の前のデモを優先し、世界の社会フォーラムのような土壌も無く、共通言語を作り橋渡しする人も欠けていたのだろう。

もう全盛期のように盛り上がることは無い。パレード/デモはマンネリ化しているし、作り手も参加者も新しい人が入ってきていない。
再出発の時に「解散して、また必要なら新しい人と枠組みでやる方がいい」という意見もあったが、今思えばそれは正しかったと僕は思う。

それでもイラク人質事件の時のようにネットワークとして残っている事には意義があるし、その成功と失敗を振り返れば色々な事が学べるだろう。
でもWPNがいつまでもあることで、若者が自分たち自身でデモを作り出す事を押さえ込んでいる面もあるのではないかな?

なお、この後の時期は02年の拉致被害者帰国後に起きた北朝鮮バッシングもあった。今っぽい若者の動きとしては、バッシングとは違う市民の友好関係をつくろうという『PEACE NOW KOREA JAPAN』が誕生して、キャンドルイベントなど様々な活動をしている。

PEACE NOW KOREA JAPAN』http://www.pnkj.net/

またキャンドルイベントや中東支援など様々な活動をする学生を中心としたNGO
『BODY&SOUL』:http://www.body-and-soul.org/wiki.cgi

環境などNGO/NPOのテーマをソフトに表現する
ナマケモノ倶楽部』http://www.sloth.gr.jp/

なども生まれ、反戦の運動ともクロスしたりしている。

最後に、04年の二つの「イラク人質事件」に触れておきたい。その被害者はどちらも若い世代だった。

4月に5人が人質になった時は、日本で「NGO」や市民活動をどうとらえるかがポイントになり、バッシングと支持が同時に起きた。10月に24歳の香田証生君が殺害されたときは、若者/フリーターの自分探し/海外への旅、といった事がつなげて語られ、殺害映像がネットに流れた時彼と同世代の人達は何とも言いようのない気持ちになっていた。

いずれも、日本の普通の若者が世界とつながる事の可能性をめぐって――色々な人がゆれ動いたのだと思う。WPNやNGOは救出のために動き、僕はと言えば、こういうフリーペーパーを作り渋谷で配布したりした。
http://give-peace-a-chance.jp/118/041027.doc

ぼく自身は、この閉じた日本で行き詰まる僕ら若い世代が世界とつながるせっかくのチャンスなのに、それを自らつぶす日本って――と思っていた。でもその可能性まで消えたわけではないのだ。

そして、日本は戦争参加を強め続けている。


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3.NGO・NPOと若者たち〜「世界へのつながり」と「企業化」のあいだで


NPONGOと若い世代 


イラク反戦を振り返ったところで、ここからは個別の様々な若者運動を見ていきたい。まずはイラク反戦にも影響したNGONPOの一般化だ。

「若者」といっても、各団体で中心になっている人達はもう30〜40代の人も多いだろう。
ここでは彼らの活動に参加する若者が増え、彼らの方法論が社会へ広がっていることの功罪を考えたい。

前半で触れた「CHANCE!」にはNGO出身の人が多く、WPNでもNGO団体が力を発揮していた。
彼らは日本の市民団体があまり持っていなかった「世界とのつながり」と「企業社会的なノウハウ」を持っていたからだと思う。

例えば日本の伝統的な「反政府」「憲法を守れ」ではなく、石油資源、環境破壊、難民の発生といったNGOが積み重ねてきた世界的な視野でイラク戦争に反対する。
そのやり方も、企業のように洗練された広告宣伝やファシリなどを使った組織運営をする。彼らの担い手に、いちど企業社会を経験しただろう30代が多かったのもうなずける。
また日本の市民運動は「何でも反対」になりがちなのに対し、NGOは建設的な対案を出そうとする志向とその力を持っていた。これはどちらがいいという事ではなく状況によって使い分けられるものだと思うけれど、手法の幅が増えたことはいいことなのだと思う。

前述した、WPNに参加したNGO

アムネスティ・インターナショナルhttp://www.amnesty.or.jp/

オックスファムhttp://www.oxfam.jp/

ピースボートhttp://www.peaceboat.org/index_j.html

グリーンピースhttp://www.greenpeace.or.jp/

そしてNGOは途上国の人を助けるだけではなく、日本の若者の海外とのつながりもたくさん作ってきた。
海外への体験学習、ワークショップ。反戦の盛り上がりが去った今も様々な若者を受け入れているだろうし、それにより特にいわゆる有名大学では海外に精通した学生が増えてきたはずだ。

NPOは、企業社会への浸透と変革という面で際だっている。「ボランティア」という新しい市民の社会参加の流れに乗り、「企業の社会的責任(CSR)」という概念を広めた。また市民運動を採算の取れるものに変えていくという発想とノウハウもきちんと持っていた。

主に新しい企業社会や地域貢献に興味を持つ若者にかなりの影響を与えてきたはずだし、折からの起業ブームに「環境のため」「地域のため」という目的を与えてきたため、若者全体へ広がりはじめた「政治や社会への関心」に応えてきた。
議員へのインターンシップを行う
「ドットJP」http://www.dot-jp.or.jp/

海外インターンシップの「AICEC」
http://www.aiesec.jp/

ゴミ拾いで有名な「green bied」
http://www.greenbird.jp/

など、他にもたくさんの団体があるだろう。

そして90年代後半から首都圏を中心に様々な野外イベントが開催されてきたが、ここにもNGONPOの特性が活かされている。

まず代表的な『フジロック』には「NGOヴィレッジ」があり、世界の紛争問題や環境問題を知るためのブース出展をしている。
http://www.fujirockers.org/top02/FRFreport/interview/20030228_okubo.shtml

またゴミ拾いのボランティアを集める「ゴミゼロキャンペーン」のように環境への配慮を若者の間に広めている。

そして企業ブースも増えている。
これは東京・代々木公園などで毎月のように開催される野外フェスティバルにも活かされており、それが大きくなったものが

アースデイ
http://www.earthday-tokyo.org/

や「APバンクフェス」だ。
http://www.apbank-ecoreso.jp/

また9.11〜イラク反戦のころは、スローライフや環境問題や世界の戦争をオシャレなカフェトークで受け入れられようとした
『Be Good Cafe』も、人がつながる重要な役割を果たしていた。

『Be Good Cafe』http://www.begoodcafe.com/

NGONPOは、市民運動と企業との境目を薄くして、メディアと有名人とサブカルチャーをうまく使いながら「多くの人達に受け入れられることが大事だ」と考え、実際に受けいれられてきた。
またボランティアのように普通の若者でも気軽に参加出来るような平等な関係づくりも進めていた。
それにより90年代から「社会的なもの」への関心が若者の間で広がってきたことは素直に評価されるべきだと思う。

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NGONPOの限界――時代はまた変わる


ただ運動でも文化でも、社会へ広がり受け入れられるほど当初のインパクトを無くし、新しく出てきた世代や問題には対処できなくなってくる。

世界への関心と企業への浸透を切り開いたNGONPOは、日本の新自由主義が生み出す色々な問題にはハッキリ言って対処できていない。
日本の格差問題は世界のグローバル化ともつながる話なはずだけど、NGOはそれをつなげることが出来ず、自分たちの海外活動だけで手一杯な事が多い。
またNPOが果たしてきた企業や地域の変革も、そこに生きる労働者がリストラや非正規化されたりする事や、地域が監視社会化していく問題などには対応できていない。

むしろNGOが積極的に関わってきた各種の野外イベントはもはやマンネリ化しており、参加する若者を単なる受け身の消費者に留めることが多い。
NPOも、若者の自由な表現であるはずのグラフィティを行政の枠内で表現させるなど(渋谷の宮下公園、東京都の「ヘブンアーティスト」)している。
「路上開放」を主張するをサウンドデモに参加する人ならこれを批判するだろうし、活動と採算性を過度に結びつける点でも反対が起きるかも知れない。こんな一例だけでも、「公共性」をめぐって若者の間で解釈がすれ違っている。私たちは細かく分かれている。

また、文章の最初で90年代から「だめ連」的なメンタルの辛さを抱える若者が増えてきたと書いたが、NGONPOはこれにも対応出来ない。
日本のNGONPOも、盛り上がった時の反戦運動も、基本的に「参加者は明るく元気でフツーの若者」という表象を使いたがっていた。社会運動が若者から「暗くてマイナー」と思われていた時代のコンプレックスを引きずっているのだろう。
「明るく元気でフツーの若者」は、今の日本社会が求めている人物像「コミュニケーション能力を持った人」に合致するが、新自由主義ネオリベ)が求めている人物像でもあるのだ。

でもこういう表象からは外れる若者も、例えば下北沢や高円寺で、例えばmixiで――確実に増えており、それこそが先鋭的かもしれないからさ。

また反対より対案を出そうとする志向があると書いたが、それができるのはやはり感情より論理を優先できる、教養と生活の余裕を持った人たちだ。その意味で特にNGO は少数のエリート層による運動で、日本の中に広がりきれなかった面があるだろう。

そしてこれが最大の問題だと思うが、日本のNGO/NPOは日本のりアル政治の問題から距離をとりすぎ、支援という「自分たちの領域」に閉じこもりすぎているのではないだろうか。
今の日本政府は、かつてないほど独裁体制を強めている。共謀剤をはじめ数々の悪法を通そうとしている。例えば「共謀罪」が出来ればNGO/NPOの活動も対象になりうるだろうし、「自衛隊の海外派兵恒久化」は、NGOの海外活動にも悪影響を及ぼす面が強いのではないだろうか。
それなのに目だった動きはあまり無い(共謀罪アムネスティグリーンピースくらいか。もちろんこれはNGOを引きつけられるような語り方が出来ない運動側の問題もある)

国内格差などの新しい問題へ対応しきれないのも、イラク反戦(国内政治と正面から向き合わずにすんだテーマ)で盛り上がった運動がその後縮小していったのも、一つはNGO/NPOのこうした姿勢に原因があるだろう。

要するに、NGONPOは体制内化してきているのだ。

これは仕方ないとも言えるだろう。
日本でNGONPOの基礎をつくりあげてきた人達はもう大人になっており、日本の新自由主義の直撃を受けた20代とは運動に向かう感覚が異なる。

最後に、「CHANCE!」のその後に触れておきたい。
誕生から一年後に「CHANCE!pono2」として再出発して、WPNではそれぞれが力を最大限活かしながら主軸になっていった。
ただ、その後はCHANCE!として取り組むことが無くなっていき、WPNのようにメンバーそれぞれの個人活動に移っていった。それがゆるくつながった状態で続いているようだ。
もともと多彩な人々の集まりだからそうなるのは当然なのかも知れないが、良かったのかは僕には分からない。ちなみに僕は、CHANCE!pono2とのとのズレもあり、自分のやっていることに集中しようと思い、05年の10月に退会している。

CHANCE!が一番良かったのは何かと思い出してみたら、「どうすれば平和、世界、日本の問題を日本の一人一人へ身近にできるか」を真摯に話し合い続けていたことだった。みんなが何をどう感じているか、対等な立場でどう伝えることができるか・・・。アイデアも色々出た。それはついこの間まで社会運動に関わっていなかった人たちがそのころの自分を忘れていなかったからできた事だと思う。僕もそうだし、だからよく街頭へ出たのだった。

彼らの個人活動はこちら:
小林一朗さん:http://blogs.dion.ne.jp/p_e_a_c_e/
シバレイさん:http://reishiva.exblog.jp/
海南友子さん:http://kanatomoko.jp.todoke.net/
内山隆さん:http://yaplog.jp/uchilog/

また、CHANCE!を立ち上げた小林一朗さんと何人かのメンバーにWPNのボランティアをやっていた人が加わって、04年7月の参議院選挙に「明るい未来計画」(略称:「アカミラ」)を立ち上げている。具体的には小林さんが「緑の会議」から立候補しようとしたのだ。だがこれには落選し、今は「みどりのテーブル」を引き継いでいる。
http://www.greens.gr.jp/

僕としては、拙速に「政治」へ走っているんじゃないかなと前から思っていた。目の前の政策を変えるだけでは、僕たちが生きる「日本」という訳の分からなさが根深いシロモノは変わらない。できるだけ日常的なレベルから対等な関係づくりをすることでそれを変えて行けたらと思っている。
ただだからといって目の前の政策や政治に手つかずに行っても、議会政治が残っている現状では限界はある。だからこそ色々なやり方の「長所」が対話・連携することが大事なんだ(これは後編でも詳しく書く)

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さてNGONPOとは異なる時代の感性が求められていると書いたけれど、それなら、20代の当事者たちが新しい運動とつながりを作っていけばいい。
後編では、2006年現在の若者運動がとりくむ「私たちの生活・意識問題」を考える。

もちろん前の時代が切り開いた「世界への関心」も重要だし、「企業社会への浸透」を「なるべく多くの人にメッセージが届くように工夫しながら、持続可能な活動にする」と言い換えるなら、それも忘れてはいけない。
なるべく多くの成果を同時に表現していけることがきっとベストなんだ。

それでは、次回、またすぐに!


※おまけ:友達との出会い1:「waterr」
こうやって様々な運動へ関わりつつもそれを考えて行くには、実際に関わりながらしかし適度な距離を忘れないという自分でも不思議なバランスが必要になった。
その時、waterrという友達との出会いは僕にとって本当に大きかった。http://srysrysry.blogzine.jp/meniutsuru/waterrnine/index.html
彼はデモ/パレードのDJとして、僕はMCとしての協力。また直球哲学と反戦とストリートカルチャーを行き来する彼とは趣味も思考も合ったし、全てのものから微妙な距離感がある事でも共通していたし、何より語り合いながらお互いの考えを深めて行けたのだった。