フリートーク3:引用だらけだけど切実な――「街区間でたがいに承認し合う経験として」!

フリートーク1:http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20100923/1285171675(世界に向かってハローと手を振るために)
フリートーク2:http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20101128(「反中国」「反朝鮮」というファシズムを変えるために)
2010年を振り返る:http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20101229

現在のコントロール社会は、コントロールと恐怖を商売の具とする者たちの支配を中心として自己組織化されているということです。……街区の抵抗運動はうたがいもなく決定的な戦線を構成することになるでしょう。とはいえ、果てしなくも本質的な作業を継続しなければなりません。すなわち、民衆の解放するための教育を築くという作業です。区間でたがいに承認し合う経験として数々の叛乱を生きた、ポスト2005年世代がまるまる存在しているのです。「われわれにはそれが出来る」という経験として。”
http://daigakuseishiwomaku.blogspot.com/2010/07/2005.html
“僕たちを縛り付けて 一人ぼっちにさせようとした すべての大人に感謝します。
1985年日本代表・・・ザ・ブルーハーツ

園=園リョ―タ。新宿ど真ん中デモとか。ナイン=架空の対話相手。タメ。運動はそこまでじゃない。

★パート1

ナイン:前半の引用文はいいよね。後半は何でいきなりブルーハーツなんだよ。ドメスティック…

園良太:いやぁ、この曲の頃の若者はまだギリギリ自由を求めていて、それがなくなったからデモや左派の運動への参加者がマジに減ったんだなと思ってさ…。

ナイン:何をよくある若者批判のよーな雑なこと言ってんだよ、「昔は良かった」なんて嫌がられるだけじゃん。

園:もちろんそんな単純なこと言いたいんじゃない。ちゃんと話すよ。前回記事で去年の右派ムーブメントのすさまじさを書いたじゃん? 俺は特にそっちの方に若者が多いことが本当に悔しいんだよ。そして俺は平和運動などでずっと「若者」扱いされ続けてきたけど、そんなの不健全で居心地悪いよ。だって29だぜ? 20歳で初参加した頃とは違うし、9年も若者扱いされるのはおかしい。ほんとなら大学生、高校生、若いフリーターがどんどん出てきて、その勢いで色んなことを変えていって、自分が追いやられるくらいがいいよ。例えばフランスがそうじゃん。
今の「反中国」「反朝鮮」が出てくる日本の社会状況が、戦前の日本軍国主義やドイツのファシズムとよく似てきていると色んな人がもう指摘してるし、日本政府の軍事政策と連動していること、在日朝鮮人の人々へ極限の差別をしてしまってることもArisanさんが的確に書いてる。http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20101209/p1 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20101127/p1
だから俺は同じ若者に向けて「そんなことはもうやめようぜ」と書きたい。今年は20代最後の1年でもあるしさ。

ナイン:じゃあそこで語られる若者の気持ちになってみようか。『あんたは「平和」「殺すな」「人権」「共同性」「国際連帯」とか言うけど、全然リアリティがないよ。競争、孤立、不安に焦り、うちらの日常がそうじゃないんだから。だいいち尖閣事件の映像流出のように国が国の体をなしてきてないんだから、「平和」や「世界」の前に「日本をどうするか」の方が大事だよ。大学生が選ぶ去年を代表する漢字は「迷」だよ。この国の政治の迷走こそ問題なんだよ。』

園:それって「普遍的な価値や権利」「人間的な自由」にはもう関心がないってことだよね。

ナイン:『違う、バカにするような言い方するなよ。戦争反対の運動も、フリーターが集まって騒いでる何とかユニオンも、「何でも反対」や権利の主張ばっかで物事をまともに考えてるとは思えない。自分たちの社会や国を適当に暴れて壊すことしか考えてないんじゃないの?天皇陛下も元旦のあいさつで言ってたよ、「絆を大切に」って。ただ自由勝手にやってるだけじゃそれは作れないんだよ。』
……ってところか。

園:ありがと(そもそも何で天皇天皇制にそんなこと言われなきゃいけないんだ、侵略と戦争の責任を取れ、って話しなんだけど)。それって自由や人権や平等に関心がないだけじゃなく、むしろ「日本を壊す」って思ってるんだよね。だけど冷静に考えて、アジアも世界も日本だけで出来ちゃいない。誰もが「自分の国が一番」なんて言い出したらこの世界は成り立たないし、自分の国の事だけ考えて閉じこもれば良いって訳じゃない事もわかるよね。それに日本国内にも在日外国人、特に在日朝鮮人はたくさんいる。「日本をどうする」とか「国民の絆」とか連呼してもその人たちを排除していることになるんだぜ。世界中の人々が共存していける方が良いし、もし自分たちが他国の人たちを踏みつけにしながら生きているとしたら、その足をどかさなきゃいけないじゃん。

ナイン:その通りだけどさ、なんでそう思えなくなっているかが問題なんだよ。

園:そこで最初のブルーハーツなんだよ。彼らは明らかに今ある社会からの「自由」を求めているし、『チェルノブイリ』や『皆殺しのメロディー』でその時の権力者を戦争や原発に反対する逆の立場から批判してるでしょ。80年代の若者なら厳しい管理教育への反抗を思い浮かぶよね。所が今の「反中国デモ」に参加する若者(全世代に広がっていることでもあるけど)は、自分から率先して「この社会を責任を持って何とかしよう」と言っていて、しかもそれが国家体制や権力者の向く方向と完全に一致しているんだ民主党を「反日政権だから自分たちと違う」と思う極端な人もいるだろうけど、もちろん高校無償化から朝鮮学校を外す政権が「反日」な訳ないから)。1968年ならともかく、たかが20数年前からも逆転しちゃっているんだ。
ナイン:「逆転」とまで言われても実感しにくいけどな…だいたい君だってその中で物心ついてきた訳だろ?

園:だから、その後どういう変化があったかはわかる。まず情報化だよ。今の日本ほど戦前・戦中・戦後の歴史から断絶された所も無いだろう。日本軍がアジアにしたことや戦後社会がどう推移してきたか、そんな超基本的なことを多くの人が知らない。俺だって学ばなきゃよく知らないまま。それをきちんと日本国家も社会も向き合ってこなかった所に90年代はインターネットや携帯からの情報ラッシュが始まった。事実や倫理を論じようとする前にそれが押し流されてしまうんだ。長いけど正確だから2つの文を引用するよ。

“一九九〇年代からゼロ年代にかけての日本国内で急激に台頭したのは、端的に言って新自由主義新保守主義であった。……メディアにおける言葉は、春日直樹が論じるところの新自由主義的なオーディット文化、すなわちあらゆる社会関係を市場のアナロジーで捉え、そうした広義の市場において良きプレイヤーであろうとする自己統御的な思考様式に、すっかり浸食されてしまっている。

日本のTVのプログラムが、これほどまでに「ノウハウ」型あるいは「自己点検・自己評価」型の情報番組に席捲されたのは、いつごろからだったろうか。インターネット空間は、Wikipedia的な「辞書」型の知か、春日がいう「軽い個人が軽い個人に対して社会を語る」モードの言説で満ちあふれている――むろんすべてのネット上の言葉が「軽い」と言いたいのではないが――。他方で、歴史や社会を「論じる」モードを維持してきた総合雑誌、とりわけ論壇誌に分類されてきた月刊誌群の休刊ラッシュが起こっていることは、改めて指摘するまでもないだろう。そして、この国における書籍の発行部数全体は1990年代後半以降、減少傾向にあるが、「新書」「選書」や「ハウツー本」「自己啓発本」だけは広く読まれ続けている。

筆者が勤務先の大学で接する学生たちも、労働者としての生の様式から距離をとることが可能な立場にいるにもかかわらず――この世界では現在でも大学に行けるのは一部の者の特権である――、労働力商品になるための先取り的「自己啓発・自己開発」に動員されていく者が少なくない。だが筆者がそれ以上に深刻さを感じるのは、何かをしたり誰かとつながっていたりしない状態が不安であるかのように、分刻みで手帳のスケジュールを埋めていく学生たちの姿である。おそらくかれらは、場合によっては一年近くに及ぶ就職活動が始まるまでになるだけ時間を有効活用したいという、自覚的な焦りに追い立てられているだけではない。ケータイを介してつねにオンライン化された日常のなかで、自由な時間においてもオーディット文化に<乗らない>自分の姿を容易に想像できないほど、自己自身によって追い込まれているのではないだろうか。

……現在の学生たちの姿は、一九九一年の「大学設置基準の大綱化」を契機にこのニ〇年間進行してきた大学の市場化・私有化の過程で、新自由主義的なオーディット文化を内面化してきた大学教員の姿の鏡像でもある。”
(石原俊『殺すこと/殺されることへの感度――2009年から見る日本社会のゆくえ』より)

園:こうした中では「反中国」「反朝鮮」の方が手軽に物事を語った気になれるし、自分の焦りや不安も埋められるし、人とつながりやすくなる。そこで見えなくなっていくのは戦中から戦後に連続する日本の加害の歴史だ。「冷戦」体制から日本ほど恩恵を被った国は無いよ。アメリカのおかげで天皇の戦争責任が免除され、日米安保体制が組まれ、戦後補償をまともに果たさず経済成長に専念できる道が開けた。そして「冷戦」(実態は戦争状態)下での朝鮮戦争ベトナム戦争に参加することで高度経済成長が促進された。死の商人だよ。でも、冷戦の終焉は、当然のことだが、これまで日本を利してきた構造全体の消滅を意味した。そうして「過去の栄光」にすがりたがるナショナリストたちが急増した。これが事実なんだよ。

ナイン:そして、過去の栄光にすがるだけでなく、それを突き崩す存在(在日朝鮮人や中国民衆や「反日サヨク」)を攻撃するまできてしまったのが今の「在特会」や「反中国デモ」な訳だよね。

園:うん。

>ここまでに対して、最初にアップしたmixiのコメント欄でこういうやり取りを。

友人:2011年01月06日 11:03
少し気になった点についてコメントします。
>冷戦の終焉は、当然のことだが、これまで日本を利してきた構造全体の消滅を意味した。
簡単に「冷戦の終焉」とは言えないと思うし、「冷戦の終焉」によって「日本人」全体が一様に不利益をこうむっているとも言えない。
「冷」戦という言葉が欧米中心に形成されたように、アジアでは「熱」戦が繰り広げられたし、共産主義国同士の戦争もあった。そしてソ連崩壊、東欧「民主化」以後も、東アジアには独裁国家が残り軍事的緊張状態が続いている。それに対し日本の支配層は、グローバル化、特に中国市場の開放によって経済的な利益を得る一方で、そのことによって生じる国内の階級的な矛盾を、軍事的緊張や反共イデオロギーを利用し国民の物語を作り出すことによって圧殺・隠蔽するという政治的な利益も得ていると思う。
欧米中心の冷戦観に基づいた「冷戦の終焉によって日本人全体が不利益をこうむっている」といった国民の物語は、そうした流れに乗っちゃっているし、「だからもっと「冷」戦を、反共を、敵を」という話になりかねない。そして実際になっている。なぜなら「私も一緒に戦います」と表明する他に社会の一員として認められる回路を見つけられていないから。それに対しユニオンは、闘いつつも、闘わなくてもいい場所であることも目指すべきなんじゃないだろうか。

Ryota2011年01月06日 11:23
こんにちは。確かに、この十年間でも、『恩恵』の落差・格差も外部への敵意もより明確になってますよね、同感。あと『私も一緒に戦います』以外の社会参加方法がない、ユニオンはそれに対するオルタナティブ、というのは鋭いと思いました。その上で現に拡大するファシズム化や軍国政策とどう『戦う』かって問題は残るんですが ・・・

友人:2011年01月06日 13:04
「偏狭なナショナリスト」に対しては「帝国主義者はもっと寛容でなければならぬ」とお説教しましょう。
嘘、冗談です。
あと最近の動きを「ファシズム化や軍国政策」という言葉で理解してしまっていいのか、というのは考えているところです。もう少し考えます。

Ryota2011年01月06日
寛容になれない状態なんでしょう(笑)
色んな問題が絡み合ってるからファシズムなどの一言で済まさず新しい言い方も作ろうと僕も思う。
ネオリベ新保守主義の同時進行で、貧困の拡大の答えが『私も一緒に戦います』になるのは必然だった。だから反戦・反差別と反貧困は両方やってかなきゃいけない。僕もできてないんだけど・・。

友人:2011年01月06日 13:23
時間を有効活用してフレキシブルに頑張っていくしかない!(笑)
今年もよろしくお願いいたします。

Ryota2011年01月06日 13:23
コミュニケーション能力を活かしながら、どこでも仕事ができるモバイル人間になるしかない!(苦笑、もち皮肉)よろしくお願いします。

★パート2

ナイン:昨日は何してた?

園:昼は生活保護を受けてる友達の話を新宿で聞いて一緒にどうするか考えてて、午後は92歳になる自分のばあさんの見舞いに行ってたよ。友達もホントどうなるかわからないし、ばあさんは「もう何もできない、死にたい」ばかり言う。あとは自分の仕事ももっとやらないと…。だから、最低限の生存をきちんと補償せず、人を「有能/無能」で振り分ける社会にしてきた奴ら
をマジで憎むよ。

ナイン:前回リョ―タは“右派ムーブメントの方が若者の多いことに悔しい……それって自由や人権や平等に関心がないだけじゃなく、むしろ「日本を壊す」って思われてるんだよね。”と言ってたね。

園:今日言いたいのは、右派に行って中国や朝鮮を差別するのは、戦争責任や植民地支配の責任から逃れたいって意識が最大の理由なんだけど、そもそも日本には人権や平等を自ら実感したことの無い人が多いことも影響してるってこと。自分の人権を主張したことのない人には、他者の「人権」の尊重も、誰が特にそれを抑圧されているかもわからないんだよ。労組こそ「自分の人権」を主張する場だから、そこに来る相談の多さは、いかにこの社会にそういう機会がないかがよく分かる。
(「NO!APEC TV」でもそれを話したよ:http://www.ustream.tv/recorded/10830065

ナイン:そして「人権」を主張する左派は「自分勝手なやつら」にしか見えない。あのさ、僕は何で日本は警察や検察やSPや海上保安庁のドラマ・映画が死ぬほど多いのかすごい疑問なの。そんなの本来権力の内幕話でしかないのに。中流サラリーマンとかがぶち当たる「組織内の矛盾とどう戦うか」ってやつが今や警察やら検察内で一番描きやすいってことが一つ(日本は中流向けの表現が一番売れるという思い込みがあるから)、制作側が日常や人間関係を丁寧に描く余裕や力を無くして安直な「事件」を求めていることが一つ。でも、何より「自分勝手ではなく人のためや規範のために頑張る人たち」と描きやすいからだよ。

園:あのキモイ多さはそれが原因か!警察なんて人権無視の職質をしたり、社会運動を不当逮捕する――つまり国家を守るに過ぎないものだっつーの!

ナイン:んなこと普通に生きている人は思わないんだよ。僕はリョ―タみたく社会運動してないけど、この国家意識というか保守意識は一体何なんだとずっと思ってた。日本人は社会運動嫌いと長いモノに巻かれろ傾向があるから、何もしないだけならわかる。でもむしろ国家や規範の方へ積極的にコミットしてるわけさ。在特会や反中国デモの右派へ行く手前に、そもそもこういう保守意識が莫大に広がっていて、そこも変えて行かなきゃいけないと思うんだよ。

園:現状の日本社会を変革したいと思う人が増え始めたとき、外部へ開くのではなく内部に閉じることで達成しようとした(もちろん経済はグローバル化でひたすら外部に開かれ、その分国内でも貧困が増大している)。その理由はまず前の記事で君が引用したように、日本軍の侵略によるアジア各国の被害者の責任追及に対して逆ギレしたからだと思うんだけど…。

ナイン:1930年代は軍国教育や特高警察も猛威を振るったけど、1990年年代以降はマスコミとサブカルチャーの変質が大きいよね。
その中で物心がついてきた僕ら若者に強い理由がもう一つあると思うんだよ。それが「自由」への感覚で、最初にブルーハーツの“僕たちを縛り付けて 一人ぼっちにさせようとした すべての大人に感謝します。”を引用したのも、あの感覚は近年のサブカルチャーに無いものだから。自由の意味が反転している。

少年犯罪を研究してる社会学者の土井隆義さんが、1960年代末の学生運動時に20歳で自殺した高野悦子(日記『20歳の原点』で有名)と、90年代末に18歳で自殺した南条あや自傷行為をネットに公開してプチアイドルになった)を比較して、時代の変化をこう書いているの。

高野悦子も、南条あやも、自ら死を選択する直前に、辞世の句とでもいうべき詩を残している。

 永遠にこの時間が続けばよい/人々の中に入れば また/自分の卑小さと醜さと寂しさを感じるのだから/雲にのりたい/雲にのって遠くのしらない街にゆきたい/名も知らぬどこか遠くの小さな街に(高野悦子二十歳の原点』1969年6月18日)

 私が消えて/私のことを思い出す人は/何人いるのだろう/数えてみた……問題は人数じゃなくて/思い出す深さ/そんなことも分からない/私は莫迦/鈍い痛みが/体中を駆け巡る(南条あや卒業式まで死にません』1999年3月29日)

 濃密な人間関係への係留から開放されて浮遊することを夢みた高野悦子と、逆に、浮遊状態から解放されて関係性へと係留されることを夢見た南条あや。どちらも孤独の悲哀に満ちた詩でありながら、そのベクトルの向きはまったく反対である。他者から「自律化したい」という焦燥感のもたらす高野の「生きづらさ」は、三十年という歳月を経て、他者から「承認されたい」という焦燥感のもたらす南条の「生きづらさ」へと転化したのである。”
土井隆義『<非行少年>の消滅――個性神話と少年犯罪――』P165)

園:ああ……つーか俺もわかるわ、その感覚。間違いなく冷戦崩壊・バブル崩壊・地域社会崩壊の上に、社会の流動化が進められたり「治安の悪化」が煽られてきたことが影響しているよね。
「開放」への希求は例えば世界大の社会運動や問題意識と結びつきやすいけど、この「承認されたい」「関係性に係留されたい」が日本の権力や国家への関心と結びつくと今の形になる訳か。すでに90年代からもだいぶ経っているし、俺も、生きていれば南条あやももう30歳前後になるけど、これは今の10〜20代のひとでもあまり変わっていないと思う。むしろ強まっている?

ナイン:それが前回のコメント欄で友人さんの言っていた“「私も一緒に戦います」と表明する他に社会の一員として認められる回路を見つけられていないから。”ってことだろうし、ほんらい誰もが認められる世界を目指して戦ったり居場所を作ったりしているはずの社会運動がこの国では受け皿にされていない。
日本固有なのかどうかは知らないけど、この保守感覚を突き止めて変えるのは必須だよ。

園:「秋の嵐」って知ってる?

ナイン:えーっと、1980年代末の天皇ヒロヒトが死ぬ前後に天皇制や自粛ムードに反対してた人たちだっけ。

園:うん、最近の上映会で残っている映像を見ると、路上無届ライブとか直接行動ばかりしてた若者の集まりだから不当逮捕されまくってるの。でね、彼らが原宿ホコ天でパトカーにぶちこまれそうになった時、原宿ホコ天のパンクスや普通の若い奴らの大群衆がみんなそれに抗議してパトカー取り囲んで、一度は脱出させちゃったんだよ!
難しいことは分からなくても、きっと“僕たちを縛り付けて 一人ぼっちにさせようとした すべての大人に「抗議」します。”って気持ちだったんじゃない?
 それはブルーハーツとかと同じ時代。

ナイン:それ今じゃ考えらないじゃん。だってリョ―タが渋谷で不当逮捕された時は…

園:通行人は誰も抗議なんてしなかったよ。あれも物凄い人数だけどただ見てるか携帯で写真撮ってた。そこで「権力」が「同じ若者」をつぶそうとしているとは思えていないし、下手したらこちらが犯罪者扱いされる。この意識はデモへの見方と同じで、デモへの若者の参加を邪魔してる大きな要因だよ。前半で石原さんも書いてたように、ただでさえ就活やら日々のバイトやらで追い立てられ、焦らされ、何かに歯向かうことなんて「とんでもない!」と思うだろうし。

ナイン:それがみんなが権力を「自分たちやより弱い立場の者を弾圧するもの」って思わずに、一体化してしまう問題とつながっている。警察ドラマのようなサブカルチャーのレベルから、尖閣/釣魚台の衝突事件の映像流出といった政治レベルまでそう。今の日本ほどふつうの人たちが権力を内面化していて、そのことに気づいていない社会は無いんじゃないか? その結果、例の海上保安庁の奴が民主党を批判したり、田母神が「もっと自衛隊にカネを出せ、自由にさせろ」と民主党を批判したり、逆に公安が自衛隊を監視したり、あるいは小沢と検察の闘いといった、権力者どうしや権力者と軍人の内部抗争に過ぎないものを自分たちの問題だと錯覚してしまうんだ。その争いこそが「国家の一大事」とか思って関心事を占めてしまうんだ。超くだらないよ。

園:そうして軍事政策から警察の治安管理まで、すべてが戦争体制にさせられていく訳だ。2000年代の「日米軍事再編」の結果、今や日本は全土が「米軍の要塞」。青森の三沢基地ミサイル防衛の最前線、東京の横田基地や神奈川の座間基地は米軍の中央司令部がある=世界戦略を進める最前線、山口県の岩国ももはや「対朝鮮」の最前線、そして沖縄はずっと米軍の戦争協力をさせられていたし高江のヘリパッド建設が加速している。去年12月の「新防衛大綱」は中国や朝鮮半島への敵意を最大限利用してめちゃくちゃな戦争政策への道を開いちまった。そういう問題と、東京や大阪のようないわゆる都会で警察が異常に出しゃばってきて、職務質問を連発したりデモをガンガン規制する問題とはまさにつながっているんだよ。去年のAPEC警備が頂点だった。

http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/20101228/1293539207
◎12/17新防衛大綱・中期防を閣議決定
・中国の軍事的台頭を「地域・国際社会の懸念事項」と指摘→南西諸島の防衛力強化
・冷戦時代の部隊を全国均等配備する「基盤的防衛力構想」に代え、機動力や即応性を重視する、日常の警戒監視を通じて抑止力を高める「動的防衛力」へ
・米国の同盟国である豪州や韓国との、二国間及び米国を含めた多国間協力を強化
・(武器輸出三原則見直しは見送ったものの)武器の国際共同開発・生産など大きな変化に対応するための方策について検討
・中期防衛力整備計画も閣議決定
5年間の予算総額を23兆4900億円程度/南西諸島の複数の島へ陸自部隊の新設(国境に配置される情報部隊の沿岸監視部隊(約100人)を与那国島に想定。それとは別に中隊規模(約200人)程度の実戦部隊を「複数の島に配置」

ナイン:実はこの文章を読んで「フランスも同じだ!そうだ世界的だったはずだよ」と思いだしたよ。

http://daigakuseishiwomaku.blogspot.com/2010/07/2005.html
>「現在のコントロール社会は、コントロールと恐怖を商売の具とする者たちの支配を中心として自己組織化されているということです。」

>つまり国際市場での競争に打ち勝つことが目指されていると?
>そのとおりです。その競争は少数者のあいだで行なわれています。たとえ、アルジェリア戦争以後、フランスがイスラエルアメリカ、コロンビアといった少数の先頭集団に後れを取ることが一度もなかったにせよ。ただし、表彰台に立つ国はいつも入れ替わっています。イスラエルのガザ攻撃のさいには、その作戦は注目の的になります。また、2007年11月のヴィリエ=ル=ベル暴動のさいに死者を出さなかったときも関心を集めました。
そのことがフランスの技術イメージを高めたのであり、逆に、1986年のマリク・ウセキヌ暗殺の後にはフランス技術の評価は著しく低下しました。すなわち、民衆のコントロールは古典的な意味での戦場でなされるそれとは事情が異なるのです。コントロール社会という領土での治安維持において、殺すことは避けなければなりません。メディアを考えれば一人の死者もあまりに高くつくからです。理解しなければならないのは、私たちが立脚しているのが国民国家という視座ではなくトランスナショナルな視座だということです。あらゆる国の専門家や実業家や政治家が集い、軍事技術一式を売買するシンポジウムや会議が年に十数回も開かれています。その結果、こうした軍や警察の専門家たちは弾圧産業の代表者となっています。

「あなたのいう管理者たちの潜在的な台頭ですが、それはスムーズで自然な動きとして起きているのでしょうか?
いいえ違います。その台頭は複雑なプロセスであり、このプロセスは、支配階級のさまざまな分派間ないし弾圧装置の内部にはらまれた大きな矛盾につらぬかれています。5、6年前からフランスの警察や軍の内部に生じている緊張関係は相当なものです。たとえば国家元首は、軍のなかではまったく好かれていないし、警察においても彼を支持する者は半数にとどまる。その理由としてはとりわけ、政府が予算と人員を削減し、軍需品の購入にしか投資しないからです。警察官や軍人たちは、政府の防衛政策や治安対策を公然と批判しています(彼らのなかには左翼もいますが、大半は右翼です)。

園:この「軍事支配者間の内部抗争」ってさっき語り合った日本の状況とまさに同じじゃん! そして「軍事マーケット」「軍事の国際競争」があるから日本もミサイルや戦闘機を買うし、アメリカは武器を押し付けようとする。防衛省自衛隊=日本軍はそういう国際競争に「乗り遅れるな!」とバカ騒ぎしてるわけだね。世界各国の軍隊と資源狙いのハゲタカ漁船が集結しているソマリアで、当然の抵抗をする人々を「海賊」呼ばわりしながら海上自衛隊を出したのも同じ理由から。ふ・ざ・け・ん・な・人殺しどもが!ああ、どんどん頭に来てきた。

ナイン:フランス政府だって最悪だよ。チュニジアで革命が起きたじゃない?“レイバーネットの「砂漠に種を蒔く」ージャスミン革命がもたらす希望”はこう書いている。 

http://www.labornetjp.org/news/2011/0123pari
チュニジアにかぎらずアラブ諸国の強権政治に「自由世界」が目をつぶるのは、イスラムに対する妄想的な恐怖も大きな要素だが、資本家や企業にとっては、市民が人権を蹂躙されようが知ったことではなく、安い労働力と規制の緩い安定した社会が欲しいのである。それにしても醜いのは、これまでずっと、すこぶる友好的にベンアリを支持してきたフランス政府の態度である。12月からつづいた市民の運動に対しても沈黙しつづけ、警察の発砲による死者が大勢出てからはじめて「遺憾である」とのみ表明した。おまけに、ベンアリが逃亡する三日前、ミシェル・アリオ=マリ外相は「世界に定評のあるわが国の治安力のノウハウ」を(暴力がエスカレートしないよう)提供したいとまで言ったのだ。左翼から批判を受け、辞任を求める声も上がっているが、非を認めない。チュニジア市民はこのニュースを知って激しく怒った。

……つねにてめーらの治安弾圧ノウハウや軍事技術・軍事製品を「国際マーケット」に売り込もうと狙っているわけさ。

園:極右をめぐる状況も似ている。これもまさに不信感を増大させて、権力の治安管理政策と戦争責任逃れを人々に内面化させることだよ。

http://daigakuseishiwomaku.blogspot.com/2010/07/2005.html
ついで強調すべきはあらたな極右の出現でしょう。彼らはそのイデオロギーや実践を練り直したうえで登場してきたのであり、国家アイデンティティはそのすぐれた例です。彼らは古い植民地的レイシズムを、多様性(西洋的アイデンティティを保護するための)といったマーケティングコンセプトにからめて用いたり、ペタン主義的な愛国主義反自由主義的言説を混ぜ合わせて用いたりしている。これはすぐれて同時代的なファシズムです。ブルジョワジーは、極右を自分たちのイデオロギーと実践のレパートリーとみなし、極右の増殖、発展を野放しにしている。じっさいブルジョワジーは必要に応じて、とりわけ資本の危機のさいには、極右イデオロギーや実践を道具として用いるのです。これぞまさにいま起きていることです。極右はみずからを他と区別することを余議なくされている。なぜなら極右の存在がなくして、そのプログラムは権力の座についているのですから。

ナイン:もちろん。これも人々に保守意識や排外意識を、警察と軍人に治安管理政策を進めて行く大きな原因だね。

園:政府や軍人がクソでも、チュニジアやフランスの民衆には希望があるよね。どんどん行動している。政府や警察が自分たちを弾圧するだけにすぎないってこと、未来をつくり出せるのは自分たち自身だってことを分かっている。それが日本との決定的なちがい。

ナイン:日本だって、これを乗り越えられれば反戦デモも反資本主義のデモも参加者や創り手が劇的に増えるはずじゃない?みんな不満はたまってるんだから。

園:そのためには変革の主役がぼくら自身なんだってことを何度でも確認しておきたいし、社会的に厳しい立場に置かれ続ける人たち自身がいかに分断されることなく世界へ開かれていくかってことにカギがあるんだよ。もう放っといたってうちら後がないんだからさ。でも社会が流動しているから、人って思い切ってやってしまえばそこから開けたりするもの。くだらないデマや不信感を拒否していくセンスと気概をお互い磨いて、他者を信頼しながら連帯していこーよ!

http://www.labornetjp.org/news/2011/0123pari
最後に、亡命先のパリからチュニスに戻り、次回の大統領選に立候補した「共和国のための会議」党のモンセフ・マルズキ(1945年生まれ)の言葉を紹介しよう。1980年からチュニジアの人権同盟で活動していた彼は、たび重なる弾圧を受けた。昨年の5月にパリで、あるジャーナリストがマルズキに訊ねた。「チュニジアの政治情勢はこんなにも暗いのに、あなたはなぜそんなに前向きでいられるのですか?」彼は次のように答えた。「私は南の出身で、祖父が砂漠に種を蒔くのを見て育ちました。種を蒔いて待つ。雨が降れば植物が育つ。だから、砂漠であろうと種を蒔かなくてはならないのです。あした雨が降れば、すばらしい。でも、すぐに降らなくても種がそこにあれば、いつか雨が降ったときに芽を出して育ちます。何もなければ何も育たない。砂漠に種を蒔くーーこの態度で私はすべてに臨むことにしています」。(インターネット新聞メディアパルトのフランソワ・ジェズ氏のブログから引用・訳)