雨に苦楽の花束を

mixiに書いててここに書くのは躊躇してたけど、心情の記録として最近の日記を載せていきます。

「沖縄を踏みにじるな!」7月10日アルタ前街宣レポート。選挙直前の街でのアクションはどうなるか。http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/20100713

僕がしばらく日記を書いていなかったのは、前にも少し書いたが運動ばっかで人格的に全然足りないとあらためて思っていたから。まだまだガキだ。

★★★

たまたま80年代末の日本の歌をyoutubeで見ていたら、一発で今との雰囲気の違いに気づくよ。
深刻じゃない、ダークじゃない、そしてカネが使われている。

歌やマンガは世相を映す鏡だ。僕もよく覚えているのは、1997〜98年くらいから流行歌で一気にダークな歌が増えたこと。首相・橋本の「構造改革」や「金融ビッグバン」や「消費税5%」の影響で不況が真に深刻化したのがこの時期で、98年に初めて自殺者が3万人を超えた。 あれからもう12年。深刻さもダークさも、例えば今の学生にとっては当然の前提だろう。

マイミクの札幌の「O瀧くん」のツイッターは面白くて、巧みに社会や若年世代の息苦しさをとらえている。数年前の自分もそういうことをたくさん書こうとしていたけど、彼の方がぜんぜんうまいと思う。彼にフォロワ―が増えているのも、共感されてるからだと思う。

こうした中で就活をしていたら、そりゃ鬱にもなるし死にたくもなるよ。くだらないから今すぐやめて1968年みたく反乱を起こしちまえって思う。でも一時的には食えなくなる。それが分かっているからみんな自分の中に抱えこみ、今日も鬱々と生きていく。ベースがそんなだし、自分で自分(と周囲)を常にチェックさせられる再帰的な時代だから、人間関係だっていつぶっ壊れるかわからない。誰もが傷つき、傷つけあう。
いわゆる「大人」も全く同じだろう。

1970年代に起こしてしまった「内ゲバ」などで若者の運動が大混乱し、武装闘争も激しかった日本では、欧米みたく運動の歴史や成功/苦難の体験が語られることがその後少なくなったのではないかと思う。胸に秘めたまま大人になった人や、語るにはあまりに複雑すぎて今も日々目の前の課題や忙しさに追われている人はたくさんいる。
先日「東アジア反日武装戦線」の振返りイベントのタイトルに「かごの鳥のうたうもの」と付けられていたけど、色んな思いがあるからこそのタイトルだと思う。
http://kiyoumohannich.web.fc2.com/event/20100529/529.html

そして日本はもともと社会が保守的だったのに加え、高度成長期以降は保守化が加速し、警察は運動を徹底的に潰していったので、社会から「ないもの」にされてしまった。

今、大学の中で大規模な運動が当たり前で授業が止まりまくっていたことや、新宿西口地下広場に何千人もの人が集まってフォーク集会をやっていたことなんて、その場を通る人の何人が知っているだろうか。
代わりにぼくらを覆っていったのは、消費社会の娯楽とサービス産業の快適さだった。大学は郊外に移って若者を飼いならすテーマパークとなり、のちに過酷な就職予備校になっていった。

90年代、娯楽と快適はケータイやインターネットに引き継がれた。けれどバブル経済の変化はぼくらの足場を掘り崩し、生活苦と不安を増大させた。企業社会は人を使い捨てにし、不安定雇用がさらに増える。それまでパートの多くが女性であり、不安定雇用は女性差別の温床だったが、それが男性や若者全体に広がっていく。
「未来のあるシゴト」と「無いシゴト」が急速に分けられ、個人も家庭も企業が丸抱えにしていた日本社会でひとが活かされる場が消えて行く。そして住む場所すらいつでも失われるようになる。

それはグローバル資本主義の暴力と矛盾が限界まできたからでもある。

今の労働組合は「生存組合」でもなければいけないと言われるけれど、それはこうした時代の中で自尊心や関係性、そして世界の新しい作り直しが出来る場が求められているからだ。
「やりたいことができる」という意味でも、「物事を民主的に決めて作り上げる」という意味でも、誰もが自分の思い入れを込められる場が求められている。
それはいわゆるインディーズ系労組に共通した特徴だと思う。

けれどそれは当然様々な軋轢も生みだす。途切れた運動の歴史は、困難に直面したときの解決でも受け継がれていないものがあるということでもあるだろう。それぞれのやりたいことは多彩であるほどぶつかり合う。また民主的な決定はとても時間がかかるし、小さな違和もていねいに拾い上げることが求められるからだ。でも、それをちゃんとやらなければ魅力的な場を作っていくことはできないだろう。

今の僕は情けないけど、きっとみんな良い結果を生むはずだと信頼している。

“……畢竟、競合する他者にいかに卑劣な(とも見える)手練手管で深手を負わされるとしても、わたしたちは寛容さによってわたしたち自身を「革命的群集」につくりかえていかなければならない。仲間を信じようとする無条件の情誼こそが、他者への寛容を保証する基本的態度である。したがって日常的に語らい、飲み、歌い、喧嘩し、そして矛盾も含んだ交錯の関係を保ち続けることによって、わたしたちは多様・多数の行動の原動力を常に蓄えていくのである。”
noizさん『経験の権力、無垢の権力』より
http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20100624