2004年の大学卒業論文・「戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会」序章、第1部

過去ブログ「生き抜く21世紀」がOCN解約と同時に消えてしまったので、そこに載せていた今から5年前・2004年秋に書いた大学卒業論文をこちらへ上げます。今見れば引用だらけで恥ずかしかったり、足りない視点も山ほどあるけど(雇用が変化した問題や、70年代以降も続いてきた運動など)、なるべくジャンルを横断させたいと思って当時なりに必死に書きました。今ほど友人知人が多くなく、運動が忙しくもなく(盛り上がっておらず)、家にこもってblog文章に賭けて虚空へ言葉を放っていたような時期でした。すごい長いですが読んでもらえると嬉しいです!
●第二部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071229
●第三部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071228/1256711643
●第三部、最終部は http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071227

●オスト・ヘッコムさんに全体を解説していただいたものは http://d.hatena.ne.jp/ost_heckom/20060314
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2004年度卒業論文 戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会 
――1960−2000 高度経済成長以降の「個人」と「公共」――

目次

序章 1990年代に登場した「消費社会批判」「ミーイズム批判」

小林よしのり戦争論』の隠れたテーマ――ミーイズム・消費社会批判
福田和也の現代人批判


第一部 高度経済成長と「個人」――消費社会化する大人たち

第一章 60年安保闘争から高度経済成長へ
  60年安保闘争
  闘争の終焉から高度経済成長へ

第二章 1950年代からの家電ブーム――「消費する主婦」の登場
  「3種の神器」と「団地族」の登場
アメリカ型の豊かな家庭生活」への憧れ

第三章 「大衆消費社会」に参加する大人たち
<カイシャ>という新しい共同体
「大衆消費社会」の到来――「消費は美徳」

第四章 高度成長への反省と反抗
大衆化する社会への反抗
「連帯を求めて孤立を恐れず」
社会の外側と豊かさの根本への視点
全共闘運動の終焉と、高度成長の終わり


第二部 若者に降りてくる消費社会――1970〜80年代の高度消費社会

第五章 学生運動から「ニュー・ファミリー」へ――団塊世代の転換
  連合赤軍事件で交差した2つの価値観
「ニュー・ファミリー」の形成

第六章 「若者文化」とコミュニケーション――1970年代後半の若者たち
「シラケ世代」の登場
『POPEYE』と『JJ』――カタログが覆っていく若者生活
消費によるコミュニケーション――「なんとなく、クリスタル」

第七章 高度消費社会に覆われる若者たち――1980年代と「新人類」
内需拡大と「広告ブーム」
「新人類」と「高度消費社会」
「新人類」と「情報化社会」

第八章 「おたく」と新興宗教の若者たち――高度消費社会の落とし穴
都市生活者の環境変化
「おたく」と宮崎勤事件――消える若者幻想
新興宗教オウム真理教事件――80年代への反動


第三章 10代を覆う消費社会――1990年代の低年齢化

第九章 渋谷と「コギャル」の深き関係――90年代消費社会と女子高生
10代を覆い始めた消費文化
10代に降りる「情報化」と人間関係の記号化
都市の流動性への適応と、日常(人生)の断片化
ブルセラ援助交際と「消費欲求」
援助交際――情報化された身体と、消費という目的

第十章 少年犯罪と郊外消費社会の限界
神戸連続児童殺傷事件と地域社会
消費社会化されすぎた郊外ニュータウンの閉塞感
「キレる少年」と日本の総郊外化
二人の「17歳」の犯罪と郊外社会
郊外消費社会と「自己実現欲求」は両立しない

第十一章 止まらない消費文化の低年齢化
10代前半に降りていく消費文化
消費社会と連動する性の低年齢化
小学6年生と中学一年生による殺人
消費社会での「成長」と社会経済的な「無力化」

第十二章 「若者文化」から「つながりのためのつながり」へ──2000年代の若者たち
細分化する若者文化
若者文化の細分化から人間関係の細分化へ
携帯電話とインターネットがによる細かい人間関係の維持
「つながり」の自己目的化、外部への関心の持ちにくさ
「萌え」――同様に変化するおたく文化
私たちのコミュニケーションの全てを「資本」と「資本主義的関係性」が覆う

最終部 「無限消費社会」を超えて――戦後批判の<愛国心>から「新しい社会運動」へ

第十三章 高度経済成長以降の日本社会の本質
「無限消費社会」と化した現代
愛国心>では「無限消費社会」は変わらない

おわりに 「新しい社会運動」がつくる公共性
2003年イラク反戦運動の可能性
未来の社会に向けて


2004年度卒業論文

戦後日本とは何か? 若者たちと社会運動/消費社会 
――1960−2000 高度経済成長以降の「個人」と「公共」――

園良太


1990年代以降の日本では、社会状況や価値観の混乱が頻繁に指摘されている。世界の東西冷戦体制と日本国内におけるバブル経済が立て続けに崩壊したからだ。それに伴い、戦後日本のあり方を見直す機運も高まっている。「平和国家」としての日本、官僚主導の土木国家としての日本、終身雇用・年功序列を採用していた経済大国としての日本、そして「消費社会」としての日本などだ。
ここではその中の「消費社会」の成立から現在に至る流れと、それが日本人の個人としてのあり方に及ぼしてきた影響について考察したい。筆者は90年代以降の日本社会で人間のあり方と消費社会が切っても切れない関係と化していることに強い危機感を持っている。そしてその結びつきは若年層になるほど強いため、最初は年長者を消費の対象にしていた企業社会次第に若年層へ対象を広げてきた可能性があり、それを明らかにするためには日本の消費社会化と個人の関係について起源と過程を追うことが必要だと思うからだ。
 また消費社会化への危機感は現代の人びとにある程度共有されており、それが若者バッシングや対策としての「愛国心教育」につながっている。だが戦後社会の変遷過程を正確に捉えなければそうしたバッシングや対策も結局は消費社会内のマッチポンプに終わる可能性が高い。そのことを指摘しつつ、本当に有効な対策について考えてみたい。
まず序章では1990年代に台頭してきた「消費社会」「個人主義」への批判を見てみたい。そして第一章でその「消費社会」が始まった1960年代の高度経済成長を振り返り、それが個人のあり方をどのように変化させたのかを考察する。続く第二章では、高度経済成長が終わり低成長・高度消費社会へ突入した1970年代半ば〜1980年代における社会と個人の関係を、特に20代の若者たちのあり方から探る。さらに3章では90年代以降の消費社会が10代の若者たちの日常生活へも深く浸透していったと仮定し、その事と現代の若者たちの関係を考察する。そして以上の流れで戦後日本の「消費社会と個人の関係」が明らかにした上で、第四章では一章における小林などの批判が本当に的確なのかを検討し、その代替案としてNGONPOイラク反戦運動といった「新しい社会運動」の可能性を提示したい。


序章 1990年代に登場した「消費社会批判」「ミーイズム批判」
 
日本社会が混迷し、戦後の道のりを反省する気運が高まる中で、1998年にマンガ家・小林よしのりによる『戦争論』という作品が70万部の売り上げを記録して話題を呼んだ。戦前日本の太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んで肯定していたため、戦争認識をめぐる論争を巻き起こしたが、『戦争論』にはもう一つの要素が含まれていたのではないだろうか。戦後日本を批判することである。「経済大国・消費社会化」のせいで「軟弱な個人主義」が蔓延したと批判され、その対比に戦時中の日本は人びとが「公」に尽くしていた時代だったと賞賛されているのである。恐らくそれが混迷する1990年代の人びと(特に若者たち)の気持ちに合ったため、『戦争論』は売れたのだ。ここではこちらの側面に注目し、90年代に戦後日本における「個人と社会の関係」がどのように批判されたのかを探りたい。


小林よしのり戦争論』の隠れたテーマ――ミーイズム・消費社会批判

小林よしのり戦争論』の冒頭は、渋谷の繁華街やコンビニエンスストアで人びとが物質的繁栄を享受するシーンが繰り返し描かれながら、次のような主張で始まる。 )

“平和である。何だかんだ言っても…日本は平和である。……家族はバラバラ、離婚率も急上昇。主婦売春。援助交際という名でごまかす少女売春。中学生はキレる流行にのってナイフで刺しまくり 若者はマユ剃って化粧してパックしてお顔のお手入れに余念のない昨今…平和だ…あちこちがただれてくるよな平和さだ だれもこの平和の正体を知らぬまま…”

続いて30代のタクシー運転手が著者に向けて“自衛隊パイロットになってりゃ戦争の時まっ先に逃げられますもんね”と言うシーンを取り上げ、“戦争が始まったら、まっ先に祖国を捨てて自分だけ助かりたいから自衛隊に入りたかった……! まさにこれが今の若者の平均的な意識なのだ“と著者は解釈する。そして“自分の命だけが大事……これを今日本では「個人主義」という”“……そしてこの平和が自明のものであり税金さえ払えば手に入るサービスだと思っている……日本の個人はまるで消費者なのだ!!”と2)、「個人のあり方」と「消費主義的な社会のあり方」を結びつけて批判している。 
 だが結論を先取りすれば、ここから小林は「個人」と「消費」が深く結びつく社会構造の方を洞察するのではなく、個人の精神や価値観の問題としてのみ扱ってしまった。それが小林の論調を規定し、現代への批判として戦前の日本を持ち出すことになっていくのである。
 小林によれば、戦後の日本はアメリカの影響を受けた「戦後民主主義」のもとで、国家から距離を置いて平和を享受する「個人主義」が蔓延してしまったという。そして“……つまるところ自分のことにしか興味がないのだ。あらゆる関係性から解き放たれた「ほんとうの自分」があると思いこみ自分探しまで流行っている”と現代人の「精神」が批判される3)。
 そんな現代に対する小林の立場は、まず“大東亜戦争”が戦後日本によって徹底的に否定されてきたことを盛んに強調し、“大東亜戦争”を肯定しようとする自らの主張を少数派・反体制的に位置づける。その上で、携帯電話やウォークマンを楽しむ個人の絵に合わせて“消費者としての個に安住して心地よさに追従するばかりでは倫理は生まれない……エゴイズムでない倫理ある個はやせがまんの中にしか生まれない”と言う4)。
そしてその“やせがまん”の要素を、“大東亜戦争”における特攻隊員の方に見いだす。“……しかし彼らが命を捨てても守るべきものはあると思っていたら…当然正気どころか充実感まであったに違いない……彼らは個をなくしたのではない、公のためにあえて個を捨てたのだ! 国のためつまり我々のために死んだのだ!”と言って祖父の世代の名誉回復を図り5)、同時に彼らの姿勢(……だと小林が考えるもの)から未来の価値観を見いだそうとするのである。
この作品には、現代人とくに若者を批判するシーンがたびたび出てくる。その象徴になっているのが、援助交際女子高生と「キレる少年」である。前者は消費社会の象徴として、後者はその中で個人を制約する倫理観が失われた象徴として扱われる。それは『戦争論』の続編でも受け継がれており、『戦争論2』は最後に次のような詩を引用している6)。

“……そのくせ経済力がついてきて技術が向上してくると……自分のことや自分の会社の利益ばかりを考えてこせこせと身勝手な行動ばかりしているヒョロヒョロの日本人は…これが本当の日本人なのだろうか……自分たちだけで集まっては自分たちだけの楽しみやぜいたくにふけりながら…自分がお世話になって住んでいる自分の会社が仕事をしているその国と国民のことを…さげすんだ眼でみたりバカにしたりする”

つまり、戦前の日本を持ち出す小林の中には、現代の若者を取り巻く状況への強い苛立ちが一貫して存在しており、それが1990年代の少なからぬ日本人に共感されたのである。


福田和也の現代人批判

小林と同趣旨の現代社会批判は、1990年代の代表的な若手保守論客である福田和也にも共有されている。1996年に出版され、発売一年で10刷りを記録し石原慎太郎に賞賛されるなどした『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』で、福田はこう述べている7)
                                                                                                  
“……「士(さむらい)」たる誇りを日本人は失ってしまった。……たしかに、今も「プライド」の高い人は大勢いますね。でもそのプライドっていうのは、何なのでしょうか。誰もが、「個性」を持っていて、自分が特別だと思いたがっているような、驕りとか自己肥大という病気のことではないですか。”

さらに、福田の批判は現代の若者にも向かっていく。

“そのあげくに個性と云えば、耳にいくつ穴をあけるとか、髪の毛を何色に染めるかといったことになってしまった。私は頭痛がするので、滅多にいきませんが、休日の繁華街などは、このような「個性」であふれかえっています。”“……ブランドで身を飾り立てる以外に、自らを確認し、誇ることができないのです。8)”

 そしてこれらの理由としては、現代の学校教師が戦前に比べて「誇り」を持って生徒の前に立つことができなくなったことが大きいのだという。それは、戦後の教師が国家との意識的なかかわりを持たなくなったからであり、国家との関わりから生まれる「高く大きな価値」を子どもに与えるのではなく、自由放任にさせてしまったからだという9)。

“国という、抗い難く大きいものがあり、建前としてはそのために喜んで命を差し出すと云わねばならない時、そのような犠牲が、形骸としてではなく、広範に信じられていた時の方が、子供の命はかけがえのないものとして認識されえたのではないかと思います。”

 小林が特攻隊という例を持ち出したように、福田もまた、現代の個人個人がバラバラになった社会への処方箋として、戦前の国家主義的な教育が人びとに規範意識を与えていたと主張するのである。
では「消費社会」と「ミーイズム」を戦後日本人の「精神」の問題として批判するような小林や福田の、引いては現代日本保守主義者からインターネット掲示板2ちゃんねる』にまで見られる分析は、本当に実体に則しているのであろうか。それに対し戦前日本のような規範意識を「公共性」として持ち出すことは本当に的を射た方策なのだろうか。性急で印象論に基づいた戦後批判では限界があるのでははないだろうか。それを明らかにするため、まず次章から高度経済成長以降の消費社会化がどのようなものであり、それが当時の人びとの意識に与えた影響を時代ごとに検証していきたい。

序章
) 小林よしのり戦争論』(幻冬舎、1998年)1―3頁
2)  小林前掲書16―17頁
3)  小林前掲書54―55頁
4)  小林前掲書74頁
5)  小林前掲書87頁、96頁
6)  小林よしのり戦争論2』(幻冬舎、2001年)526―527頁
7)  福田和也『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』(角川春樹事務所、1996年)38、40頁
8) 福田前掲書86、94頁
9) 福田前掲書97頁


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第一部 高度経済成長と「個人」――消費社会化する大人たち
 

この章では、敗戦後の不安定な社会状況から、どのようにして高度経済成長へと至ったのか、そしてその高度成長が日本人の意識をどのように変化させたのかを見ていきたい。


第一章 60年安保闘争から高度経済成長へ

60年安保闘争 

序章で取り上げた小林よしのり福田和也は、戦後の日本を「アメリカに影響された戦後民主主義によって消費主義とミーイズムが蔓延し続けていた」と評した。しかし社会の豊かさも個人主義も、戦後すぐに始まった訳ではない。戦後の生活水準が戦前並みに回復したのは1954年頃であり、経済の高度成長が本格化したのは1960年以降である。だとすれば戦後の初期には、現代の小林や福田が想起するような「戦後」とはいささか異なる社会や価値観が存在していたのではないだろうか。それは丸山真男や大塚久男といった代表的な戦後知識人から、共産党学生運動といった諸々の社会運動まで多様に表現されていた。そしてその価値観が最大にして最後に表現されたのが「60年安保闘争」であった。
 60年安保闘争は、当時の岸信介首相が米国の要請を受け日米安保条約の改定に着手したことから始まった。1951 年にサンフランシスコ講和条約と共に成立した旧安保条約は、米国が日本本土を防衛するという義務規定がなく、日本が一方的に期限も無いまま軍事基地を提供する内容であった。1960年の改定案は、日本国内の米軍基地が攻撃された場合にも日本が攻撃されたものとして対応するという内容だった。それは岸政権にとっては従来よりも対等な立場の条約に近づけたものであったが、人びとの多くは「米国が起こす戦争に日本も巻き込まれる」と受け止め大規模な反対運動を起こした。それは国会前に17万人が集結し、全国行動が連日行われ、知識人から学生・一般人まで多様な人びとが参加した事から、戦後最大の社会運動と言われている。
 小林や福田は、戦後の日本人は戦前の禁欲精神をすべからく否定したと主張した。しかし社会学者の日高六郎は、敗戦直後の社会運動からこの60年安保闘争までを支えていた情熱には、戦前社会の禁欲精神が形を変えて残存していた面があったと後年に振り返っている1)。

“……同時に、新しい形の「滅私奉公」が表れる。特攻隊から共産党へ。出獄した徳田球一は、求められて色紙に書くとき、いつでも「惜しみなき献身」としたためたという話をつけ加える。私は、特攻隊から共産党へ入った若者の心情は理解できると話す。……<個の確立>派も<労働者の権利>派も、当然、強い政治的関心を持っていた。政治の時代であった。平和、民主主義、生活の向上、(そして占領政策が冷戦の論理に従属するようになってからは)独立。それらのシンボルは人びとを動かす力を持ち、それらはつねに政治的文脈のなかで理解された。”

 日高が指摘した「政治への関心」は、60年安保闘争で最後の噴出を見る。それは思想史家の小熊英二によれば単なる政策への関心を超えていた。他者との強い連帯意識、即ち「公共性」にまで発展していたという2)。

“六月三日、デモのあとの街頭を取材したラジオ局員は、「ここには都会のよそよそしい『個人』がいない。二、三十人の市民たちが、全く自然に、目撃した事件について話し合い、討論しあっている」と報じている。ある銀行の事例では、それまで「各自が考えていることをじっと押しかくして何もいわない」という状態だった女性行員たちが、安保について「二人で話してると、それにまた二人、三人が加わってくる」という現象が発生した”

 デモへの参加は、互いに無関心になりがちだった都会の人びとを結びける役割を果たした。そして他者を対等な立場として尊重することは、戦前の上位下達型の組織とは異なる人間関係を生み出していった。“こうした連帯の中では、「一兵卒」や「司令官」といったツリー状の組織は意味を失った。他者を所属集団によってアイデンティファイし、分類する慣習も消えていた。”というのだ3)。
そして「誰でも入れるデモ」をスローガンにした『声なき声の会』は、ビラの呼びかけ文で“主張をいいたてる大きな声も持たない私たちだけれど”“仕事は毎日忙しいし、その上デモに参加するなんて気恥ずかしいなんて思うけれど”と市民の日々の心情に寄り添いつつ、それでも“市民のみなさんいっしょに歩きましょう”と連帯を求めている4)。「運動」は決して一部のハイレベルな知識人や運動家だけのものではなく、広く一般市民の能動的な行動になっていたのである。


闘争の終焉から高度経済成長へ
 
しかし、新安保条約は6月19日の国会自然承認によって成立し、闘争は事実上敗北で終わった。知識人レベルでは闘争における国民的連帯自体を評価する声も見られたが、人びとの多くは敗北感を味わった。西田佐知子によるもの悲しい『アカシアの雨がやむとき』のヒットがそれを象徴している。
 では、こうした社会運動の時代を集結させ、次の時代へと向かわせた要素は何であったのか。小熊英二は当時の文献を引用しまとめている5)。

“……六月二十六日の『毎日新聞』は、一九六0年三月に卒業した大学生の就職率が戦後最高を記録し、ほぼ完全就職状態になったことを伝えていた。『週刊文春』の六月二十七日号は、特集記事に「デモは終わった さあ就職だ」というタイトルを掲げた。
当時の新聞記者だった辰濃和男は、こう書いている。

  政治の季節から経済の季節へ、石炭から石油へ、世の中は変わりつつあった。当時、社会部記者だった私は小、中学生たちに『私たちの将来』という作文を書いてもらった。
  少年A「全学連に入って思うそんぶん政治に反対したいが、就職にも関係があるのでやめとこうと思う。りっぱな会社へ入り、株か何かを買って百万円くらいためたい」
  少女B「大学ではノラリクラリと過ごし、一、二年働き、お嫁にいっておかあさんになっておばあさんになってやがては死ぬ」
  子どもたちの、ある心情風景だ。アンポフンサイの声に代わって、やがてマイカー、マイホームが流行になる。“

 そして日高六郎は、先の引用文に続けて“……では<個の確立>や<労働者の権利>から出発して、現在の<私生活優先>にいたらしめた力あるいは原因は、なんであったのだろうか。私は、高度経済成長とそれにともなう生活様式の変化こそが、もっとも大きな原因だと考えている”と述べている6)。
そう、60年安保闘争に象徴される政治や社会への関心を異なる方向へ変化させた最大の原因は、高度経済成長による生活の豊かさであった。それはすでに1950年代の家電製品ブームから始まっており、60年安保闘争はその最中で行われた最後の国民的運動であったがゆえにその瓦解も早かったのではないだろうか。そして高度経済成長は1960年代に本格化していき、現代の小林よしのり福田和也が考える「豊かな戦後日本」が急速につくられていくのである。


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第二章 1950年代からの家電ブーム――「消費する主婦」の登場
 
「3種の神器」と「団地族」の登場

高度経済成長は、戦後社会のあらゆる領域に影響を与え、人びとの生活と意識を劇的に変えていった。ここではその始まりとして、1950年代からの家電製品ブームを中心に取り上げる。
 敗戦直後には極度の食糧難とインフレに悩まされていた日本の経済と生活は、朝鮮戦争の特需によって驚異的な回復を見せ、1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言する。そうした中で、1953年にテレビの本放送が始まり、国産で最初の噴流式電気洗濯機が発売され、「電化元年」と呼ばれた。そして1955年に冷蔵庫・洗濯機・掃除機という新しく登場した家庭電化製品が「3種の神器」と呼ばれ、「家庭電化時代」が流行語になる(電気釜は後に白黒テレビに取って代わる)。
 これら家電製品の普及率はすさまじかった。1950年代半ばに登場した「3種の神器」は、わずか10年足らずで半数以上の家庭へ普及し、60年代末には9割の家庭が手にするようになった。
また家電製品と平行して、団地やマイホームといった新しい住宅環境が登場する。1955年に日本住宅公団が設立され、翌56年一月に日本初の分譲マンションが東京・四谷に完成する。そして住宅公団は新しい近代的住宅街として57年に千葉・柏に「光が丘団地」を作り上げた。それは11倍もの入居競争率となり、人びとに受け入れられた。この年は前年の2倍以上の団地が建設され、翌58年に『週刊朝日』が「新しき庶民ダンチ族」という団地入居者を紹介する記事を掲載し、「団地族」が流行後になる。その多くは地方から都市への流入者であり、彼らが戦後日本の新しいコミュニティを形成し始めたのである。
団地の普及とともに、57年には東京都が宅地分譲を開始し、「マイホーム」が流行語になる。その購入者たちは2世帯家族が多く、また同じ時期にマイカーも登場したことから、「家つきカー抜きババ抜き」が流行語になる。
 そして電化製品と住宅環境は一体になって普及し、人びとの生活を大きく変えていった。人びとは働いて得た賃金を家庭環境の充実に当て、そのために働くようになる。社会に対する関心から個人生活に対する関心へと移行していくのである。

 
アメリカ型の豊かな家庭生活」への憧れ
 
当時の大型家電製品も団地生活も、全てはアメリカ郊外の中流階級の生活をモデルにしていた。アメリカで広まった生活様式が日本にも輸入されたのである。ではそれを人びとはどのようなイメージで受け取ったのか。社会学者の宮台真司はこう位置づけている7)。

“家電化アイテムで最も重要だったのがテレビである。五三年にテレビ放送が開始されるが、本格的な普及は団地化以降になる。とりわけ五九年の皇太子結婚に際して爆発的普及を見るが、当時最も人気のあったソフトが、『パパは何でも知っている』『うちのママは世界一』『名犬ラッシー』『奥様は魔女』といった、バラ色の郊外生活を描くアメリカ製(ホーム)ドラマだった。電化製品で家事を合理化したケーキ作りの上手なやさしいママ、週末には車でピクニックに連れ出してくれる頼もしいパパ、誰からも好かれるかわいいボク。そんな夢が、郊外団地を舞台にした「文化的生活」へと人びとを動機づけたのだった。”

 アメリカで開発された住宅や家電製品は、「アメリカ型」の生活として、アメリカで製作されたホームドラマによって宣伝された。それが貧しい生活を送る日本人にとって輝かしく見えたのも無理はないだろう。特にこの時期新しく生まれた「専業主婦」という女性のあり方は、こうした家庭生活と密接に結びつき、彼女たちが家庭生活の体現者になった。各家電製品メーカーは広告に競って有名女優を起用し、新商品を家庭のステンレス・キッチンで軽やかに使いこなす「電化婦人」のイメージを広めてゆく。「ピース一本分の電気代で、ワイシャツ約一二0枚お洗濯出来ます!」(ナショナル電気洗濯機)、「奥さまの声をたえず設計にとり入れています!」(サンヨー電気洗濯機)といったキャッチコピーが用いられていた8)。
そして主婦の側も、喜びや驚きとともに受け取っていたようだ9)。

“・月賦で買った洗濯機が届いた。ほんとうに感動してただ呆然と立ち尽くした。洗濯機の中をいつまでものぞきこみ、機械ががたがた廻りながら私の代わりに洗濯してくれるのを、手を合わせて拝みたくなった。こんなぜいたくをしてお天道さんの罰が当たらないかと、わが身をつねって飛び上がった。”

しかし当の女性たちにあれほど主婦が受け入れられるには、それまでの時代への反動があった筈だ。評論家の斎藤美奈子はこう分析する10)。

“戦前の良妻賢母教育なんてものは、たかだか絵に描いた餅であり、大多数の女性はその恩恵に浴してなどいなかった。……高度成長は、こんな庶民の娘が成り上がる(階級を上げる)機会をつくったのだ。……右肩上がりの経済成長を背景に、下町や農村に住む庶民の娘たちまでが、女学生→職業婦人→主婦の出世コースにわれもわれもと押し寄せたのである。この動きをだれが止められただろう。望んでも手のとどかなかった夢の暮らしが、やっと手に入るのですぜ。”

そして地方から都会へ上京して結婚したものの、周囲は見知らぬ人ばかりだった。そうした中で専業主婦たちは、真新しいキッチンで家電製品を使いこなしながら夫や子どもの帰りを待つことで、「私が私である」という感触を得るようになったのである。社会学者の三浦展はそのような戦後日本の家族を“うがった見方をすれば、高度経済成長期には、家庭があったから家電が売れたというよりも、家電を買うことによって家族になることができたのだ。家族があったから自動車を買ったのではなく、自動車を買ったからこそ家族らしくふるまうことができたのである。だからこそ、家電や自動車が独身の若者でも簡単に買える現在では、若者は家族をつくろうとしない。”11)と位置づけている。
 では、豊かな家庭生活を送る人びとが増えていくことで、日本社会における個人と他者や社会との関係性は、すなわち「公共性」はどのように変わったのか。小熊英二は、経済格差の激しかった1950年代までの「生活の向上」は高度成長以降とは違った意味を持っていたとして“そのような生活の向上は、他者をかえりみない私的利益の追求とは、対局に置かれていた。また単純な私的利益の追求によっては、個人の「生活の向上」さえも達成できないと考えられていた。なぜなら、社会体制の変革なしには、個々人の豊かさも実現出来ないというのが、当時の左派の認識だったからである。”と述べている12)。
 それはそれなりのリアリティを持たれていた。当時の日本社会は全般的に貧困に悩まされており、その中で豊かな都市と貧しい農村における経済格差も激しかったからである。だが高度経済成長の急速な進展は、こうした問題を「人びとが力を合わせて社会体制を変えていく」のではなく、個人生活を豊かにすれば解決可能だと思わせたというのだ。その結果に“多くの農村の若者は、村を変革することよりも、「個人」として村を脱出し、都会に出て行くことを選んだ。”という13)。
 テレビのホームドラマや新聞・雑誌の広告から流れるアメリカ型の家庭生活は、人びとの連帯ではなく家電製品を手にする方が生活を豊かにすると思わせた。それが引いては、戦後日本における「個人」と「社会」の関係を決定的に変化させていくのである。


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第三章 「大衆消費社会」に参加する大人たち


<カイシャ>という新しい共同体
 
60年安保闘争終結した半年後、池田首相は10年後に現在の倍の所得を実現させるという「所得倍増計画」を発表する。この計画には安保闘争で高まった政治的関心を経済の方へ向けさせる目論見もあったと言われているが、社会はほぼその通りに進んでいく。1950年代後半に始まった高度経済成長は、59年の「岩戸景気」から本格化するのである。
高度成長期における女性たちの新たな居場所が「専業主婦」であるなら、男性たちはどうなったのか。それを生み出したのが、第二次産業第三次産業のホワイトカラー層の増加である。彼らこそが前述した農村を離れ都会へ向かった人びとであった。
「サラリーマン」「ビジネスマン」と呼ばれるこの層は、終身雇用・年功序列・企業内労働組合が保証されることで、自己が所属する会社企業を自己の居場所だと認識できるようになる。それが、故郷を離れた上に昼間は家庭からも離れて働く男性会社員にやる気と安心感を与え、会社員の数は飛躍的に増加していく。ここに現在の私たちが戦後社会のひとつの象徴と見なしている「企業社会」が成立する。彼らの労働こそが、日本の高度経済成長の原動力になった。そうして日本の1955年から60年の実質平均成長率は8.7%、60年から65は9.7%、65年から70年は11.6%とすさまじい勢いで経済大国になってゆくのである。


「大衆消費社会」の到来――「消費は美徳」 
 
女性は「家電製品に囲まれた家庭」という居場所を手にし、男性は「会社」という居場所を得る。こうして経済成長を突き進む基盤が整った日本社会に、歴史上はじめての「大衆消費社会」が出現する。大正モダンの時代のように都市の限られたインテリが享受する文化的豊かさではなく、単一の物質的豊かさや情報が日本中へ広まり始めたのである。
 その最大の立役者は、テレビや週刊誌といった新しいマスメディアであった。白黒テレビは59年の皇太子の結婚によって驚異的な売り上げを記録し、62年に普及台数が1000万台を突破する。また56年の『週刊新潮』創刊によって週刊誌ブームが起こる。58年に『女性自身』『週刊明星』が、59年に『週刊文春』『週刊現代』『少年マガジン』『少年サンデー』が相次いで創刊された。こうしたマスメディアの急速な発達は、東京のような大都市から発信される新しい情報や文化を地方へ広めてゆく役割を果たした。こうして日本人の生活は次第に標準化し画一化していった。
 これらのマスメディアに載せられたのは、大型家電製品に続けとばかりに次々開発される新商品だった。1958年にインスタントラーメンと中性洗剤が発売され、合成繊維の下着が普及する。59年には国産初の普通乗用車が、60年にはインスタントコーヒーが発売され、61年にはコカコーラの集中スポットCMが始まる。58年には初のスーパーマーケット『ダイエー』が神戸で開店し、ハムやチーズやレタスといった西洋食品が全国で標準化してゆく。こうした中で「消費は美徳」という言葉が流行語になり、それを促進するかのように61年にJCBから初のクレジットカードが登場する。戦前の基本精神が「節約は美徳」であったことを考えると、これは大きな変化だった。
 また61年には「レジャー」が、63年には「バカンス」が流行語になり、一般の人びとでも休日の旅行を楽しむようになる。64年には海外旅行が自由化され、前年の3割以上の13万人が海外旅行に出かけた。そして翌年一月には日本航空が添乗員付きの海外パッケージツアー『ジャルパック』を発売している。そして64年、日本はOECDIMFに加盟した。 
 さらにマイカー時代の進展に伴い道路の整備も急速に進んでいく。名神高速道・首都高速道・東名高速道が相次いで開通し、人びとが自家用車で日本中を移動する時代が到来する。その変化は「モータリゼーション」という呼び名がつけられた。さらに64年には東海道新幹線・モノレール・日本武道館が完成し、これに伴う開発が東京中を変貌させていく。
こうした消費と開発は、全て1964年の東京オリンピックへ間に合うように仕組まれていた。このビッグイベントは、日本が名実共に国際社会の仲間入りを果たしたというメッセージを世界へ発信する目的があり、そのために日本は都市や交通網の急速な開発で形だけの近代化を進めたのだ。またそれは国内の高度成長の原動力にもなった。
 開発の波はオリンピック後も止まらなかった。初代「3種の神器」がある程度普及した1966年、今度はカラーテレビ・自家用車・家庭用クーラーが「新3種の神器」(3C)と呼ばれ始めた。
消費社会化する日本で、女性たちも活発になる。61年に『アンネナプキン』とシームレスストッキングが大流行し、女性の動きを軽快にしていく。そして66年に前田美波里を起用した資生堂の“太陽に愛されよう”というCMが、女性たちの理想的な外見のイメージを一変させる。それは元『電通』コピーライターの深川英雄によれば“それまで、日本の美人といえば、「色白、清楚、可憐」と相場が決まっていた。そこへ、小麦色の肌、大きな目鼻だち、すんなりと伸びたグラマラスな肢体の登場である。”という変化であり14)、当時の女性達に衝撃を与えた。さらにそこには、広告と消費社会の変化・深化も含まれていたという15)。

“……この広告あたりから、海外ロケが増え始めた”“また、この頃から、「広告は、知らせるための広告から見て楽しませるための広告へ変わり始めた」(前出『昭和広告60年史』)ということも、見逃してはならないだろう。それは、言葉をかえれば、広告が商品情報提供や生活提案型のそれから、いわゆる印象広告に変身し始めたということをも意味しよう。奇しくも、翌年の夏には、まずテレビの世界で、ポップアート風の華麗な映像を駆使したエンターテインメントCM、レナウン「イエイエ」が登場、やがて、若者志向のいわゆる「フィーリング広告」が猛威をふるう時代を迎えることになるのである。“

高度成長はあらゆる分野で様々な新商品を生み出し、発展するマスメディアがその情報を全国へ伝えた。二世帯家族は団地に住み、会社員の夫は会社でモーレツに働き、専業主婦の妻は次々開発される家電製品で家事をこなしていく。子どもは父と同じような会社員になるために高校から大学への進学を希望し勉強する。そして週末には家族揃ってマイカーでレジャーに出かける事で家族の絆と幸福を確認する。こうした生活様式が浸透していく中で、全国の人びとが欲望を膨張させ、日本に史上初めての「大衆消費社会」を作り出したである。
それは、社会参加によって「個人」が形成されていく60年安保闘争までの時代に明確な別れを告げ、「経済」や「消費」によって「個人」が形成されていく時代を作り上げたのである。日本は敗戦からわずか23年目の1968年に、西側世界第2位のGDP(国民総生産)を達成した。


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第四章 高度成長への反省と反抗


大衆化する社会への反抗

これまで高度成長が日本中を覆っていく過程を見てきたが、全てがその状況にすんなりと適応したわけではない。例えば60年代後半の公害や地方の過疎化は、深刻な社会現象となり、人びとに高度成長の負の側面を感じさせた。そして68年に最高潮を迎える学生たちの全共闘運動は、何もかも振り切って高度成長を突き進む日本へ若者達が突きつけた最後にして強烈なアンチテーゼだった。ここではその全共闘運動において若者たちが社会との関係をどのように築こうとしたのかを見ていきたい。
 高度成長期は子どもたちの進学率が急増した時期でもあった。男子の高校進学率は56年の56%から75年には91%へ増加し、大学進学率は55年の13%から75年には40%を超える。そして当時の学生は数の多い戦後ベビーブーム世代だったため、受験競争の激化と大学設備が不足する事態を引き起こした。学生数の増加は、大教室に大勢の学生を詰め込んだ状態で教授が高踏的な講義をする「マスプロ授業」を生みだした。それでは学生たちに内容がきちんと伝わるはずもなく、学生たちの不満が高まってゆく。さらに「学生」という存在の大衆化は、就職出来る職業を平凡なものに変え、学生達のエリート意識と現実との間に深刻なギャップを生み出した。
こうして様々な不満が高まる中で、日本大学で20 億円の使途不明金が発覚した事に対して、東京大学でも無賃労働に等しい研修医制度に対して、それぞれ学生の不満が爆発する。こうして始まった学生運動は、全国の大学へ飛び火していくのである。それは全学の学生を一つに合わせた「全学共闘会議」が結成されたため、「全共闘運動」とも呼ばれた。
こうした若者たちの運動はどのような意識に支えられて広がったのだろうか。1968年の学生運動は世界的な現象だったが、米国の学生運動ではこのような曲が歌われていた16)。

 丘の上の小さな箱 
ペラペラの板の小さな箱
 小さな箱はみな同じ 
緑もあればピンクもある
 ブルーもあれば黄色もある 
みんなペラペラの板でできている
 
 箱の人は大学へ行き 
箱の中に入れられた
 医者も弁護士もエグゼクティブも  
みんなペラペラの板の箱に入れられた
 
 彼らはみんなゴルフをする 
 彼らはみんなマティーニドライを飲む
 彼らにはみんなかわいい子供がいる
 子供たちは学校へ行き サマーキャンプへ行く
 それから大学へ行き そこでまた箱に入る
 
緑もあればピンクもある
 ブルーもあれば黄色もある
 みんなペラペラの板でできている
    (マルヴィーナ・レイノルズ「小さな箱」 日本語訳、三浦 展)

 米国の若者たちが反抗したのは、1950年代に頂点を極めた「豊かな社会」だった。それは物質的には満たされているはずだった。だが1960年代後半に「小さな箱」が皮肉を込めて描いているのは、どこまでも画一的なアメリカ郊外の生活と生活者の姿だった。それは若者たち自身が育ってきた環境そのものでもあり、成長した彼らは自らが育ってきたアメリカ戦後社会に対して、ライフスタイルの画一化や将来があらかじめ決められているような管理社会化を感じ取ったのである。三浦展は歌詞の引用に続けて“ここでは、小さな安っぽい箱にすぎない住宅やそこに住む人間の小市民性や均質性が戯画化されているだけではない。その均質性が、親の世代から子の世代へと再生産される社会システムが批判されているのだ。そして後に述べるように、このシステムこそが1960年代の若者の反乱の源となったのである。”と述べている17)。

 そして日本でも、米国より遅れてはいたが社会の画一化や管理体制が進行していた。当時の中核派全学連の委員長たちはこう述べている18)。

“……定員をオーバーする学生をつめこみ、マスプロ化し、大学に入学したとたんに、高校生活とは全く異質な群衆の一員に自分自身がなってしまう。近代的なビルの中に生活していることは、いいようのない人間空白であり、大学の当局者からみれば、授業料を収める「モノ」として数えられてしまう。”

大衆化して都市が整備されてゆく社会では、そこに住む人びとのアイデンティティが不明確になる。まして日本の高度成長は史上まれに見る急速な変化だった。それに対する反発が、学生たちを全共闘運動へと突き動かしていた面があったのである。


「連帯を求めて孤立を恐れず」

そして学生たちが求めたのは、自分が群衆の中に埋もれてしまう状況下で「人間としての真実をとりかえすこと」であった。それがマルクス主義の「疎外」や「革命」といった言葉や思想を借りて表現されていた。具体的には、近代的なビルでのマスプロ授業ではなく、バリケードを囲んで徹夜の議論や共同作業が行われた。大学側の機動隊を使った学生排除や教授たちの消極的な姿勢が厳しく批判された一方で、東大のバリケードに単身乗り込んで、173時間軟禁されながら学生と夜を徹して議論した保守派教授・林健太郎が高く評価された。
また当時の全共闘運動では「連帯を求めて孤立を恐れず」がスローガンになっていた。これは二つのことを意味している。一つは、既成政党やセクトの枠にとらわれるのではなく、まず個人が自らの力でものを考えていくことである。
当時の全共闘の学生たちは日本共産党の青年同盟である「民青」を嫌悪したが、それは「民青」が党の指示に従い自らの主体的な意思を有していないと思われたからだった。当時の全共闘運動を牽引したのは「ノンセクト・ラディカル」の若者たちであり、いわば大衆化した既成社会を拒否し、もう一度ひとり一人が自らのアイデンティティを回復する行為だったのである。そして東大の学生たちは、素直に卒業して管理社会の支配者になってゆくことを拒否し、大学生である自らの立場を「自己否定」した。
 だが、アイデンティティの確立は他者からの承認を必要とする。そこで求められたのが「連帯」というもう一つの意味だった。評論家の大野努が行ったインタビューで、当時の学生はこう答えている19)。

“「クラス討論とストライキを通じて、われわれははじめてクラス単位に人間的な団結と交流を得ました。全学ストを通じ、四年の試験拒否を通じ、さらに本部選挙を通じ、この団結を全学に拡大しました。つまり、新しい方向性をもった団結の拡大が目標なのであって、本部選挙自体が必ずしも闘いの目標ではないのです。こうした考えでわれわれは、“新入生の受験拒否も辞せず”という方針をとったのです。受験阻止は、常識的にはいままでの社会的なつながりを断ち切ることですが、その衝撃を通じて、そこに新しい質の団結をつくりたかった。”

それを大野は“かれら反日共系活動家の求めているのは、経済的要求ではなく、その闘いを通じての、人間的文化的要求だと言えよう”と解釈している20)。確かに当時の運動は過程が重視され、運動を行うこと自体が目的化している面があった。そのため頻繁に「永久革命」が唱えられ、多分に精神的・情念的な運動になってゆく。


社会の外側と豊かさの根本への視点
 
そして全共闘運動を語る上で欠かせないのは、ベトナム戦争に代表される大きな社会的出来事からの影響である。世界の学生運動には「ベトナム反戦」という大きな共通の目的があった。そして米国と緊密な関係を築いていた日本は、この戦争において様々な形で米国側に協力し、それが高度成長の大きな要因の一つになっていた。ベトナム戦争で米国が民需産業を空洞化させた隙に、高度成長下の日本製品が次々と輸入されていったからだ。それは当時の日本の輸出総額において一割から二割を占めており、その中には武器弾薬や枯れ葉剤も含まれていた。横須賀や沖縄が米軍艦隊の重要な基地になり、長崎県佐世保港にはベトナムへ向かう米軍の戦艦が燃料補給のために何度も立ち寄った。
 当時『朝日新聞』に連載され大きな反響を呼んだベトナム取材記録で、ジャーナリストの本田勝一は、米軍の使用するトラックやバスやLSTの多くが日本製であり、挙げくは米軍機のまく宣伝ビラまでが日本で印刷されていることを発見しながら、こう記している21)。

“猛虎師団に従軍したとき、フーイェン省の最前線補給基地で、新聞関係も担当する政訓参謀の金禹相中佐が言った――「この戦争で、日本はどれほどもうけているか知れないほどですなあ」……
……このように、目に触れるだけでも、ベトナムの戦場には日本色が濃い。日本の果たしているこうした役割を、韓国のセネガル兵にあたるような言葉で説明しようとすれば、私はこういう表現はなるべく避けたいと思っていながらも、どうしてもそれ以外にぴったりした言葉が見つからないので、やはり書かざるを得ない。――「死の商人」”

 そして学生たちは、自分たちが疑問を感じてきた高度成長下の豊かさが「戦争特需」の上に成り立っていることをも感じ取った。彼らは日本が「先進資本主義国家」として「アメリカ帝国主義」に追従しているという認識を示し、日本政府のあり方を問いただした。首相の南ベトナム訪問を阻止するために羽田空港に約2500人の学生が集まり、警官隊と衝突した。米国の原子力空母鑑『エンタープライズ号』の寄港を阻止するため、佐世保に数多くの学生が集結した。
日本の社会構造を世界大の視野で把握していく中で、学生は自分たちの豊かな生活が何の上に成り立っているのかを知ろうとした。日本社会を外側から見た時どのように映るのかも意識した。当時の年長世代が一国内の経済的繁栄を享受していても、若者たちにはまだ個人としてのあり方を世界や社会の状況に結びつけようとする意識が存在していたのである。


全共闘運動の終焉と、高度成長の終わり
 

しかし運動が活発化したのは学生の間だけであり、60年安保運動のように運動が学生以外にも広がっていくことはなかった。すでに高度成長が完成に近づいていた時期であり、学生たちの急進的な運動が支持を得る基盤は社会から失われていた。また学生たちの運動が前述のように多分に精神的だったため、大学や社会に対する要求も概して抽象的で、年長者の目には理解しがたく映った。実際学生たちは既存秩序を力一杯否定したものの、それに替わる社会構想を明確に打ち出すことはできなかった。
 そうして1969年一月、東大の安田講堂を占拠していた学生が機動隊の導入によって排除された。それを機に全国の大学で機動隊が導入され、全共闘運動は一気に下火になってゆく。
 運動が衰退してゆく中で、学生や新左翼セクト間の対立が激しくなっていく。広い連帯を求めた筈の学生たちは、学生間の思想や行動の僅かな差異に目を向け始め、各種の内ゲバ事件を引き起こしていく。それは1970年の赤軍派学生による『よど号』ハイジャック事件などと相まって、社会に「学生運動=一部の過激派」というイメージを徐々に広めていく。
そして1972年一月、連合赤軍が山荘に立てこもって警官隊と銃撃戦を行い、計15人の仲間をリンチ殺害していた事が発覚する「浅間山荘事件」が発生する。その仲間を殺害した理由は、化粧をしてファッションに興味を示したという「プチブル的生活態度」だった。この衝撃的な事件は新左翼学生運動のイメージを決定的に悪化させ、以降の運動の広がりを困難にしてしまった。
 さらに同じ時期の社会でも、誰もが同じ豊かさという目標を共有する高度経済成長の時代が終わろうとしていた。すでに1970年には『モーレツからビューティフルへ』というCMがヒットし、ひたむきに働き続けることを見直す機運が高まっていく。それは、社会から「経済成長」という単一の目標が失われ、価値観が多様化していくことを意味していた。そして1973年のオイルショックを機に、日本は「低成長」「情報化」「高度消費社会化」の道を進んでゆく。
 全共闘運動は、大人たちの社会が大衆化し管理システムが発達してゆく事に対する若者たちの最後の大規模な抵抗だった。いわば若者達は現行の社会システムに違和感を持つことや、それと自己のあり方を結びつることや、システムを自らの手で変えていくことに挑戦した最後の世代だった。しかしそれが失敗に終わった後、若者たちは社会の変革を通して自己の確立や他者との連帯を成し遂げるような回路を失っていく。そして日本が高度に消費社会化する事で、若者たちですら、いや若者たちこそ「個人」のあり方が「消費」と切り離せなくなってゆくのである。


第一章
1) 日高六郎『戦後思想を考える』(岩波新書、1980年)78―79頁
2) 小熊英二『<民主>と<愛国>――戦後日本のナショナリズム公共性』(新曜社、2002年)518頁
3) 小熊前掲書520頁
4) 小熊前掲書524頁
5) 小熊前掲書546頁
6)  日高前掲書80頁
7)  宮台真司まぼろしの郊外――成熟社会を生きる若者たちの行方』(朝日新聞社、1997年)136―137頁
8)  深川英雄『キャッチフレーズの戦後史』(岩波新書、1991年)52頁
9)  斎藤美奈子『モダンガール論――女の子には出世の道が二つある(マガジンハウス、2000年)218頁。原典は辻村輝男『戦後信州女性史』
10)  斎藤前掲書197―198頁
11)  三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史――郊外の夢と現実』(講談社現代新書、1999年)28―29頁
12)  小熊前掲書300頁
13)  小熊前掲書305頁
14)  深川前掲書107頁
15)  深川前掲書108頁
16)  三浦前掲書72―74頁
17)  三浦前掲書74頁
18)  秋山勝行・青木忠『全学連は何を考えるか』(自由国民社、1968年)137頁
19)  大野力『デモに渦巻く青春』(番町書房、1968年)98頁
20)  大野前掲書98頁
21)  本田勝一『戦場の村』(朝日新聞社朝日文庫版1981年)221、223―224頁

第二部に続く。http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20071229