「反日上等」について――街へ出よう。

日本人原理主義下等(5)
http://d.hatena.ne.jp/m_debugger/20090729 より、

では、なぜ在留特別許可への支援それ自体が目的化するような状況が生じてしまうのかと言えば、一つには当事者(支援者)の余裕のなさということもあるだろうが、最大の原因はやはり日本人原理主義だろうと思う。

京都の外国人追い出しデモに反対する「外国人排斥を許さない6.13緊急行動」での、「反日上等」プラカードへの批判議論。こういうのが白熱してたんだね。忙しいとはてな論壇からホント遠ざかる…。
「日本人原理主義」など、論理的な部分は上記ブログや「私にも話させて」に全面同意するけど、僕の立場で付け加えるなら、日本の大学業界、NGONPOにおけるデモや街頭運動の不在があると思う。
反日上等」のような敵対性を含めた意思表示を表に出したくないという気持ちは、街頭で人々が思い切り意見をぶつけ合うオープンさや、権力との緊張関係の中でアクションが行われる経験が薄れてくると出てくるのだと思う。それが足りないと、貧困運動であれ難民支援であれ、ひとは人々の水平的な関係性の中での議論や行動をするのではなく、社会テクノクラートのような立場になる(これは選挙に向けて最近の新聞が学者を出して「二大政党は競い合え」などと語らせるときにもすごく感じて本当に嫌だ。「政治」ってのがそんな狭く貧しいものな訳ないだろー。)
そして現在NGONPOの中枢にいる人たちは、世代的に学生運動の高揚が終わり忌避も生まれ始めた70年代半ば以降に活動を始めている。また今では大学で学生運動が死滅し監視カメラやコンビニエンスストアが当たり前のように入り込む現状がありながら、他方で大学教授の元でサークル的に行われるNGO活動は90年代から増え続けているし、同一線上で学生の反貧困運動への「知的」で「ボランティア精神」からの関心も増えている*1はてな界隈での「反日上等」へのヒステリー化はこうした現状が関係しているはずだ。

でも、虐げられた人たちと彼らのもとに立とうとする人たちが、敵対性を表に出すのは当然だと思うんですよ。差別の問題でも貧困の問題でもね。そしてそれ以上に、社会問題は誰もがそこにいる街頭でこそ表現されるべきであり、街頭行動にはコンフリクトがつき物であり、それを通して初めて未知の問題は知れ渡っていくようになる。それをしないから広がらずに、日常の事務業務に追われて余裕だってなくなっていく。そして試行錯誤の行動を通して、人の怒り・悲しみ・喜びは肉質を持って伝わるようになるのだ。支援それ自体の自己目的化で問題を軟着陸させようとする姿勢は、街頭行動・大衆行動(ふるーい言葉だけど)の不在を何よりも物語っていると思うのです。
だから欧米のように、街頭行動をもっと当たり前にしよう。

http://mayday2007.nobody.jp/how2demo.html

「自由と生存のメーデー07」実行委員会(以下・私たち)は、公共空間におけるデモの優先的なポテンシャルを祝します。街路が「私的な」広告に溢れかえり、私人の様々な営利活動が最も多くこれを占有する──つまり「私(わたくし)」性が氾濫するという空疎な「公共」ばかりが目立ついま、リスクを引き受けながら公共性に働きかける「集団示威行進」を、誇りをもって私たちは提起します。様々なコンフリクト(衝突、摩擦)の可能性を拒否することなく、多くの人々との討議を前提とした共同性の喚起に努めることは、多様性を保障する営為でもあり、決して無為ではないと私たちは考えます。

★8月14日、こうしたイベントが行われるとのこと。
http://livingtogether.blog91.fc2.com/

*2

*1:

*2:そうした関心も、きっかけとしては良いと思う。抗議運動とも両立して欲しいと思うだけで。被害を受ける自分の当事者性で動く時と、自分の中に他者の声を置いて動く時と、両方必要なのだ。