【8/14イベント】ヘイトスピーチは許せない!『行動する保守!?』にどう向き合うか/考えるための材料集

Ryota19812009-07-26

7月20日の福岡の反対アクションも無事行われたようです。
報告:http://720action.blog85.fc2.com/blog-entry-12.html
写真:http://720action.blog85.fc2.com/blog-entry-13.html

そして、こうしたイベントがあるそうです。ぜひ集まって、話し合いたいですね。

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/// ヘイトスピーチは許せない! 
行動する保守!?』にどう向き合うか ///

日時:8月14日(金) (2時半開場)午後3時〜9時
場所:文京区民センター2A
連絡先:livingtogether09@gmail.com
ブログ:http://livingtogether.blog91.fc2.com/

★『行動する保守』を自称し、街頭でヘイトスピーチをまき散らす動きが現れています。「在特会」に代表される彼らは、外国籍の住人に「特権」にまもられた「犯罪者」であるというレッテルを貼り、排外主義や差別の感情をあおり立てています。

★しかも、この扇動に「共感」を示す人の数も増えつつあります。彼らは外国人家族や、奪われた尊厳や権利の回復を求める人たちに個人攻撃をしかけています。このただの弱いものいじめを呼びかけ、実行することで満足や解放感を得る人々が登場しているのです。

★私たちは、これらの動きをいずれ消えていく動きとして放置してよいのでしょうか。彼らの行動や言動が、私たちの社会に根ぶかく続いている排外主義、他者を押し殺す社会のありようの戯画であるなら、それに何らかの手を打っていくべきではないでしょうか。この社会に生きるものとして、この動きに正面から向き合うことが今こそ求められていると思います。

★私たちは4月11日に埼玉県蕨市で行われた「在特会」による外国人排除デモへの抗議行動をきっかけに集まり、この問題について話し合ってきました。またこの間、各地で「在特会」のヘイトスピーチに対抗する行動が取り組まれています。
これら対抗行動の様々な経験と出会いを交流し、排外主義を封じ込めるため、今後何をするべきなのか、皆さんと広く話し合う機会を持ちたいと私たちは考えます。この集会への多くの方の参加を期待するとともに、集会の実現に協力していただける方を求めます。連絡ください。

2009年7月21日
ヘイトスピーチは許せない!『行動する保守!?』にどう向き合うか」集会実行委員会

連絡先:livingtogether09@gmail.com
ブログ:http://livingtogether.blog91.fc2.com/

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ヘイトスピーチ・ムーブメントを考えるために参考になりそうなもの!

★不況の影響、孤立、歴史、国民というカテゴリーについて…
反戦生活」の「対談・排外主義に抗する」http://d.hatena.ne.jp/posada/20090623

★ヨーロッパではどう反対されてきたか:「非暴力直接行動〜市民によるネオナチ集会実力粉砕に見るドイツの闘う民主主義」〜 http://www.news-pj.net/npj/uchida-masatoshi/20090225.html

★そして、あの名文がウェブに上がってました。
こうした気持ちも、ヘイトを作り出すものの一つ。

ここでの「非モテ男性」を「新しい街頭右翼」と読み替えながら、文の後半にある
「ここにいる限り居場所はなかったが、ここを去れば、ここに居場所ができる。社会的に存在を消してしまえば、社会的に存在は承認される。そんな自己破滅のストーリーは簡単に描くことができる。」
を、
「ここにいる限り居場所はなかったが、誰かを批判すれば、ここに居場所ができる。そんな社会破滅のストーリーは簡単に描くことができる」
と読み替えたら、どうだろう? もちろんこの場合は「敬意を払う」のではなく、その批判理由のムチャクチャさと、弱いものいじめだということを批判しなきゃいけない。そう、そこには行かずに済んだ一人の人間としての落とし前としても、他人を批判するのではない形で「自分自身」を表現し、つながるための、どんな新しいことばや行動をどう生み出していくかとしても。
それにしても引用されてる部分の田中美津の文章はすばらしー。、“「わかってもらおうと思うは乞食の心」とつぶやいて、己の闇は己の闇、その中をひた走る中で、姉妹たちよ、あたしたちはまず己れ自身と出会っていかねばならない。”とか“生き難さの中で空転している万物の霊長というものではあるまいか? 己れは己れのゴーマンさは毛布一枚かけてあげられる、その己れへの恥かしみと裏表”とか、今の人にはなかなか書けないよな。偏差値おぼっちゃんばっかで、思想家でありながら「生きて」もいる、そういう人が減っているから。

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http://www.parc-jp.org/alter/2008/alter_2008_11-12_femme.html
『オルタ』08年11・12月号

「承認欲求の牢獄から抜け出すために」
文=小松原織香


 インターネット上で、自らを「非モテ」と称する男性の存在を初めて知ったとき、驚いた。彼らは「女はイケ面とばかり付き合う。だから、不細工なオレはモテない」と言う。それは、私が長く抱えてきた「女の恨み辛み」にそっくりだったのである。私は、「男はカワイイ女の子と付き合う。だから、不細工な私はモテない」と、自分の境遇を憐れんできた。自分が女性であることによって、抑圧されていると感じても、フェミニストは名乗れなかった。なぜなら「ブスのヒステリー」という典型的揶揄を、心底恐れていたからだ。そのように、私が女の痛みとして抱えてきた美醜問題が、男の口から、しかも女を批判する形で出てきたことは、私にとって青天の霹靂であった。

 かつて、ミスコン批判が、フェミニズムの大きな運動であったことがある。フェミニストは、「女性は美しくあるべき」という言説が女性を抑圧していると主張した。それから20年後。美醜による女性の選別や価値判断はなくなっていない。しかし、皮肉にも、男性も女性並みに不幸になることで、労働における「平等化」が起きつつある。かつての女性のように、男性も派遣社員契約社員として、社会保障のない不定期就労につくようになった。日本的雇用慣例が崩壊し、若ければ就労先はあるが、年をとれば仕事がなくなる。これらの状況は、女性労働者が20年前からずっと声を上げてきた問題である。女性の問題として矮小化されてきた雇用の不安定性は、男性にその影響が及んでやっと社会の問題として論じられるようになったのだ(註1)。

 その結果、社会的に承認されなくなった男性は、女性と同じようなことを言うようになった。「非モテであるオレは落伍者だ」と。女性が持つ「結婚しないと幸せになれない」という強迫観念の裏返しである。一方、私自身は、10代の頃から「男と対等に認められるためには、男の1.5倍の成果を出さねばならない」という強迫観念を持ってきた。同じ成果ならば、男が優遇され、私は負けてしまう。男以上に頑張って男と同じになるのか、女としての幸せ(=結婚)を求めるのか、という選択が、いつも目の前にちらついていた。二種類の強迫観念は、「できる女」になるか「カワイイ女」になるかの選択を私に迫ってくる。私は前者を選んだつもりで、「できる女」になりきれなかった。そのとき、私は男を憎み、自分が女であることを恨んだ。


 「非モテ」を自認する杉田俊介は、自らの「非モテ」意識を分析しながら、非モテ男性には、次のような思い込みがあるという。

 自分には就業的・社会的立身出世や成功はもう望めない。『普通の生活』(古谷実)にはもう手が届かない。人生の他の可能性を思い描けないのだ。しかし、恋愛の領域であれば、まだ人生のすべてを取り戻せる、一発逆転できるかもしれない、いやもうボクはそれしかない――それが社会的現実からの撤退だとしても、というか、だからこそ、それしかない(という思い込み)(註2)

 人は、社会的領域で満たされないとき、その欠如感を私的領域で埋め合わせようとする。労働し報酬を得る社会的契約を見下し、個人と個人の情の結びつきである私的関係を賛美する。それを突き詰めた典型が、一対一の恋愛関係である。男と女が強く求め合い、一体になる中で、生まれたままの生身の〈私〉が承認されるという幻想が膨らむ。これは承認欲求の肥大という問題である。

 それは、私自身が持っている欲求の問題だ。男性が「そのままのキミでいいんだよ」と言ってくれれば、私は幸せになれるのではないか、ともがいてきた。「男に認められたい、求められたい」と呪文を繰り返した。杉田は、承認欲求が肥大化している様を、「(という思い込み)」と括弧つきで書いている。この屈折と同様、私にとっても肥大した承認欲求は、言葉にするとあまりにも陳腐である。そのため、他人の前では口にしづらいものだった。むしろ、隠すことによってないことにしようとした。しかし、隠せば隠すほど欲求は肥大化していき、男性を前にすると、承認を求めずにはいられなくなった。


 しかし、私は、ある一冊の本に出会って、急速に転回していく。その本は、田中美津『いのちの女たちへ』である。田中は、自らが先導者となっていたウーマンリブについて、次のように書く。

 「リブってなんですか」と聞いてくる男に、ともすればわかってもらいたいと思う気持ちがわいてくるからこそ、顔をそむけざるをえないあたしがいるのだ。男に評価されることが、一番の誇りになってしまっている女の歴史性が、口を開こうとするあたしの中に視えて、思わず絶句してしまうのだ。そこに、己れ一人だけ蜜をなめたいあたしが視えるからこそ、一度男に背を向けたところから出発せざるをえないあたしがいるのだ。(略)

 「リブってなんですか」と聞いてくる男に、「わかってもらおうと思うは乞食の心」とつぶやいて、己の闇は己の闇、その中をひた走る中で、姉妹たちよ、あたしたちはまず己れ自身と出会っていかねばならない。女から逃げ続けてきた〈ここにいる女〉と出会っていかねばならない(註3)

 これは、1972年に発刊された本に書かれた一節である。ミスコン批判よりもさらに前に書かれたこの言葉は、私に直接的に響いた。男性に認められなければ生きていけない、という男性に依存した状態から抜け出すには、男性から背を向けるしかない。それは、アルコール依存でも薬物依存でも同じことだ。依存者は自分の生きていく唯一の支えを捨てることでしか、依存からは抜け出せない。自分のもっとも大切なものを手放すことでしか、前には進めないのだ。

 私は、男性への依存から抜け出す手がかりとして、語るための言葉を求めた。20年も30年も経っているのに、私の男性に対する承認欲求への渇望は、過去の女性たちが苛まされたものと変わらない。だが、ウーマンリブフェミニズムの功績は大きい。「女としての苦しみ」を語る言葉は豊潤に蓄積されている。それは、女性が社会的弱者であるからだ。社会的弱者は、身を守るために共同体を作り、言葉を生み出さねばならなかった。私のサクセスストーリーとも言えるような、平凡な承認欲求にまつわる物語は、その文化の中で培われた。田中美津は、次のようにも書いている。

 関係性を胎むなどといったところで、うたたねの肩に毛布の一枚もかけてやり、病気の枕元にミカンのひと袋も置いてあげる位のことしか、所詮できない。そんなことしかできず、往々にしてそんなことすらできないでいうのが、生き難さの中で空転している万物の霊長というものではあるまいか? 己れは己れのゴーマンさは毛布一枚かけてあげられる、その己れへの恥かしみと裏表(註4)

 私は、自分の物語をウーマンリブフェミニズムの言葉を借りて編み上げる中で、憎まず、恨まず、隣の人にやさしくできる自分でいようと、祈るような気持ちを持つようになった。

 この過程で、ある時は過去の女たちの苦しみを背負い、過剰に女であることに執着した。また、ある時は、古臭い言葉で男性を問い詰め喝破した。すべてが正しいやり方だったとはまったく思わない。今も、男性に依存しないで生きているわけでもなく、相変わらず男性を求め、関係を作ることに四苦八苦している。それでも、10代の時の、わけのわからない怨念に振り回された、あの苦しみとは比べられないくらいに生きやすくなった。


 今年の6月、秋葉原で無差別に人を刺して殺傷した男性Kと私は同じ年に生まれている。彼は犯行の直前、インターネットの匿名の掲示板に「モテない」と書きこんだ。Kが、実際にモテたのか、非モテだから人を殺したのか、といった事件の真相はわからない。だがブログでは、多くの若い男性が「オレはKだ」と綴り、非モテ男性として内面を告白した。

 実は、以前にも特定の非モテ男性がメディアで大きく取り上げられたことがある。それは匿名の掲示板「2ちゃんねる」で生まれた「電車男」の物語である。電車男と名乗る非モテ男性は、あるきっかけで女性と知り合い、どうすれば彼女と恋人になれるのかという相談を「2ちゃんねる」でもちかけた。アドバイスや激励を受けた電車男は恋愛を成就させ、匿名のユーザーたちは「お前はよくやった」と称賛した。電車男が実在するのかどうかは不明である。書きこまれた内容はすべて作り話かもしれない。それでも、電車男の語った物語は、書籍や映画になり広く知られるようになった。

 電車男も、Kと同様、私的領域での承認を求めていた。そして物語を語る中で、ネット上の無数の匿名の人たちに、その存在を認められ肯定される。こうした物語は「2ちゃんねる」にはいくつもあり、個人的な人生の告白が、無数の匿名の人たちに承認され、続々と書籍になっている(註5)。そこでは「2ちゃんねる」が、個人の苦悩を意義あるものとして認める、承認の共同体として機能しているのだ。一定数の非モテ男性の救いは、ここにあるかもしれない。

 しかし、「2ちゃんねる」で承認されるのは非常に難しい。この掲示板では、目に見えないルールや、書き込むときの作法が張り巡らされている。安易に苦悩を語れば非難・中傷を受け、攻撃される。世間では、コミュニケーションをとれない若者が「2ちゃんねる」に逃げている、とする見方もあるようだ。しかし、「2ちゃんねる」でのコミュニケーションは、空気を読みルールを順守することを求められる、高度なものであり、不特定多数に入口は開かれていても、実際には簡単に帰属できる場所ではない。

 濱野智史は、Kが「2ちゃんねる」ではなく、「MEGA-VIEW」という、マイナーな掲示板を利用していたことを指摘している(註6)。Kが「2ちゃんねる」にすら馴染めず、漂流するように、ユーザーの少ない共同体に辿り着いたというのである。Kはネット空間に依存していたのではなく、ネット空間からも拒絶されていた。彼は、ネット空間でさえ居場所が見つけられず、自らの物語を語ることができなかった。

 しかしKの犯行後、ネット上では、非モテ男性としての彼の話題がもちきりになる。このことは、きっとK自身も予測していただろう。ここにいる限り居場所はなかったが、ここを去れば、ここに居場所ができる。社会的に存在を消してしまえば、社会的に存在は承認される。そんな自己破滅のストーリーは簡単に描くことができる。承認欲求に従っていくと、承認自体が不可能になるという逆説の中、Kは人殺しになり、多くの犠牲者が出た。

 事件後の反応について先に触れたが、非モテを自認する男性の中には、自らの承認欲求について考え始めている人も出てきている。もしかすると、非モテ男性の中には、自分を承認する女性の側に問題を探す人もいるかもしれない。しかし、非モテ男性の陥っている承認欲求の牢獄の鍵は、非モテ男性自身が持っているだろう。おそらく、女性には非モテ男性の苦悩は救えない。私が女性として非モテ男性にできることは、苦悩を嘲笑することなく、敬意を払うことだけである。これから非モテを名乗る男性は、どのような言葉を手にしていくのだろうか。

(註1)北原みのり「男の暴力」(『世界』2008年8月号)、澁谷知美「95年、『失われた時代』の始まり…なのか?」(『オルタ』2008年9・10月号)でも指摘されている。
(註2)杉田俊介『無能力批評』大月書店、2008年、303頁
(註3)田中美津『いのちの女たち』(文庫版)河出書房新社、1992年、85〜86頁
(註4)同註3、277頁
(註5)『私が手に入れた本当の家族』『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』などの書籍が出版されている。
(註6)濱野智史「なぜKは『2ちゃんねる』ではなく『Mega-View』に書き込んだのか?」『アキハバラ発』岩波書店、2008年、164〜185頁

こまつばら・おりか/1982年生まれ。同志社大学文学部卒業。主な研究分野はセクシュアリティ。キリンが逆立ちしたピアス
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