二一世紀の歴史はかけられているのだ。

わらびの件。メーデー。この今の忙しさ・大変さ、乗り越えるべき試練と思うしかねーよな。

俺は思う。テレビや新聞や本屋の本を見てみなよ、いつまでこの社会は『日本をどうする』『日本を守れ』って言ってんだろうってね。右翼だけでなく政治もビジネスもスポーツもアートも「日本」「日本」。
どうして『世界』や『人類』と言わない? なぜ普遍性を志向しない?
このどうしようもないドメスティックさが、わらびでデモした『在特会』の絶望的な卑小さと差別性を生み出している。

今日アースデイに少し行ってきた。マリファナ関係のブースは出展を断られ、今まで自由に置けてたチラシは今年から出展者のみになった。そう、もうこんなコードだらけになり果てた金持ちオシャレNPOやNGOだけに、世界を飛び回ることを任せる必要はないんだよ。横並び日本社会の中で生まれ、小林よしのり2ちゃんねるに形を与えられたお前のその様々な怨念やコンプレックスは、右翼なんかに行かなくても世界中で苦しむ人たちとつながっていくことで昇華していけるはずなんだ。ファシズムになる前に違う形にならなきゃいけないんだ。

この恐慌の中では簡単じゃないかもな。でもどうしようもなかった俺でもいつからかそうしたよ。
そのためには。インターネットは自分の姿を隠して言葉だけを浮上させてくれる道具だから、その前に自分自信を見つめろ。自分を叫べ。そして仲間を作れ。弱い者たちが夕暮れさらに弱い者を叩くのではなく、弱い者たちが夜明けにさらに強い者たちを叩け。未来はそこにかかっている。

夜の帰り道に。

“私たちが生きているのはグローバル化の時代だが、このグローバル化は一枚岩的なものではなく、異なる複数の未来に向けられている。試みにそれを、金融グローバリズムアメリカとの同盟―依存関係を軸とする一極的な地平と、多数の市民的・国際的なエージェントが越境的に連携する多極的な地平に分けてみよう。この区別はもちろん理念型で、一方を「帝国」、他方をマルチチュード」と呼ぶとしても、現実には両者は重なり、しばしば同じ人物や組織、活動に絡まりあっている。既存の国民国家は多くの場合、前者のグローバル化を支援しながら自らの足元を危うくしてきた。そしてその結果、どちらのグローバル化からも零れ落ちてしまう多くの人々が生まれ、彼らの暮らしの足元は空洞化し、閉塞し、限界に達しつつある。
 本書で述べてきたことからするならば、まさしくこの第三の地平、「グローバル」という地平には包摂され得ない無数の人びとの声や心情が、一体化する世界といかに結びつき、新しい社会のどんな歴史的主体を可能にしていくかに、二一世紀の歴史は賭けられているのだ。”
吉見俊哉『ポスト戦後社会』)