秋葉原フィールドワーク&タブー無しトリプルトーク「おたく・音楽・ファッション・資本主義」パート1

今から5年前、当時いちばん話していた友人waterr、キール秋葉原を歩き、消費社会批判とカウンターカルチャーの可能性!トークしました。当然ネタ的に古い話もありますが、今でも語ったことは達成されてないと思うので昔のブログから転載します。ぜひ読んでみてください。


★★2005年1月 秋葉原フィールドワーク&タブー無しトリプルトーク★★
「おたく・音楽・ファッション・資本主義」

「携帯メールトーク・これがホントの広告批評」「携帯メールトーク?:マンガ・アニメ・いま」のカテゴリを共にやっているWaterr、キール、ナイン(園良太)の3人で、1月初旬に「おたくの街」と言われる東京・秋葉原へ見学に行ってきました。キールがおたく系カルチャーに詳しいので、彼にWaterrとナインが案内してもらう形でした。

メジャーなキャラクターグッズショップからマニアックな中世風コスプレ!?の店まで色々見て回り、路上で怪しげなPC用品を売るアナーキーさに圧倒されつつ、休憩で入ったメイド喫茶ではナインが生まれて初めて「ご主人様〜」と言われて必死で笑いをこらえたり(笑)。その帰りに食事&コーヒー飲みながら3人で現代の若者カルチャーの共通点を話し合ったので、これから数回に渡って掲載させてください。

話し合う中で見えてきたのは、3人がそれぞれ親しんでいるおたく系、音楽、ファッションといった異なるジャンルが、この10数年の間に同じように変化してきて、世代の断絶が起きているんじゃないか?ということです。3人とも20代だけど、割と小さい頃から親しんでいたから以前の時代を体験なり知識として知っています。それに照らして具体的に言えば、「自分でイチからつくる」ということをしなくなり・出来なくなり、何もかも企業に用意される資本主義に飲み込まれていった可能性が高いってコト。

それぞれの「カルチャー」を文化文化で捉えるのではなく、あくまで<消費>の一形態として捉えたときに見えてきた、各カルチャーの変化の共通点、「消費する=モノやサービスを買うこと」の意味、そして現代日本の私たち若者のあり方。これらに少しでも興味のある方はぜひ。

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Part 1

○おたくカルチャーを変えた『エヴァンゲリオン

ナイン:じゃあ、トークを始めようか。さっきメイド喫茶で話していた、時代が変わってきて、世代交代があって、自分でイチからモノを作り出すよりは、初めから出来上がった状態で企業とかが与えてくれたモノをいかに消費するかという点で、自分らしさとか創造性が発揮されている、まあ昔の世代から見れば「勘違い」な状況が起きている中で、まずはその事の現状整理と、そもそもいいのか悪いのか、もし悪いのであれば、そのことをどういう風に実際に消費している人たちと共有出来るのか、そしてこれはおたく系文化に限らず、音楽とかファッションとか、現代のあらゆる文化に共通している社会変動なんだ、ということを明らかに出来たらいいと思う。

Waterr:とりあえず俺が音楽担当、ナインがファッション担当、キールがおたく系担当ってことで。

ナイン:おたく系文化は、90年代の『エヴァンゲリオン』が大きなターニングポイントだったんじゃないか、ということだったのだけど・・・

キール:あれは、とどめを刺したんだよ。下地はあったんだよ。で、ぽんっと来て、完全にそうなっちゃった。

ナイン:エヴァの以前の、80年代に『ヤマト』『ガンダム』が出てきた頃の、キールがまだ小さかった頃の人たちがどういう風に自分たちなりに文化を作ってきたのかを話してもらえるかな。今の消費の形とはどう違ったのか。

キール:まず、『同人誌』とかは自分たちの脳内の妄想じゃん? こうなったらどうだったか・・。エロパロディーにしてもそうだし。でもそこまで作者も企業も作ってくれなかったから、自分たちで作っていった。

ナイン:少なくとも、企業が「同人を含めて作れば売れるな」と先回りして作るような状況ではなかった。

キール:そうそう。プラモデルにしても、質が良いモノはそう多くは無かったし、種類も欲しいものが全て揃っていた訳じゃなかった。そこで改造して、無いモノを生み出そうという、生産能力があったんだよ。なおかつ、ただ「イイ」「感動した」で終わらせずに、「なにがイイのか」「なぜ感動したのか」を掘り下げる行為をしてたんだよね。そういう生産性と批判的精神が相まって、高クオリティな商品が出てきたわけ。で、品質の高さに目をつけた一般の人たちがドッと流れ込んできたのが95年以降の流れという気がする。それを決定づけたのがエヴァだった。あれは設定からしておたくなんだけど、一般の人にものすごく支持されたんだよねー。

ナイン:それは何でなんだろうね?

Waterr:内容的には「自己嫌悪」というのがすごくデカイ気がするけどね。さっき言っていた「何でもできる有能で熱いやつ」「熱い物語」が供給過多になって、そこで描かれている人間と自分との距離感が出てきたとしたら、ウジウジしているキャラの方が受け入れやすい。すくなくともそういう奴はいっぱい居た。あの頃。

ナイン:やっぱり時代の変化というのがあったのかな。実際心理学のブームとか、色んな精神病が注目されたりとか、人の内面について多くの人たちが語り始めたというのが、やっぱりあのころの変化だっていう風に俺も思っていて、今みたいに何か事件が起こるたびに、その加害者が何の病名を持っているのかとか、○○症候群とか、少年犯罪者にそういう病名を詮索したりとか。あと今で言えば、これ後でちょっと話したいんだけど奈良県で七歳の女の子を殺害してその遺体写真をメールで送って話題になってしまった事件で、犯人のロリコン趣味とか、どういう風に育ってきたらああいう「鬼畜」(マスコミの表現)になってしまうのかといった「内面の詮索」が90年代的な現象だろうと思っているんだ。それまでだったらある程度社会に還元する姿勢があって、どうして私たちの社会はああいう犯人を生み出したのかと。それが個人の心の中とか、犯人の「内面」ばかりに注目が集まるようになったのが、あのエヴァの頃だったのかなーって思う。社会変化にぴったり当てはまったのかなって。

Waterr:宮崎勤の事件っていつだっけ?

ナイン:89年。あれは世代的には最初のおたくの人だよね。

キール:そうそう。

ナイン:あの事件をちょっと調べた俺が知っている範囲で言えば、やっぱりあの事件があって小学生レベルにまでおたくバッシングが及んだらしくて、それキールは経験した?もうちょい上の世代かな。

キール:上上。俺そん時はだってまだマンガとかアニメとか見ていても怒られない年代だったから。でもちょっと年上の人と話していると、あのころ相当弾圧されたって言っているよね。あれで今までオープンに受け入れられようと努力していたオタクたちが、一気に「もうダメだ、地下に潜ろう」という風に結構な人がなったらしいよ。

ナイン:その数年後にいきなりエヴァでおたく系に大きく光が当たった時に、地下に潜っちゃった部分とエヴァの部分とで結構離れたりしたのかなあ。

キールエヴァでそういう文化があるんだと知って、色々調べていく内に日の当たらない地下に潜った高クオリティな部分を「あ、こういうのがあるんだー」と知ったというか・・。

Waterr:エヴァをみなさんが受け入れたのは、それまでやっていたけどみんなが見てなかった部分を見つけたと・・。

キール:そう、「こんな良い子はいねえんだよ」と。

ナイン:「そんなカッコつけているやつはいねえんだよ」と。

キール:そうそう。良い意味で言えば等身大の主人公。最近多いじゃない?

ナイン:まあね、あらゆるジャンルにあるよね。ファッションモデルも等身大だし、女子高生はそのまんま出ていたもんね、『egg』とか『cawaii!』とか。あ、それもほんと『エヴァ』と同時期。あの女子高生ブームの時に、俺らのような素人がそのまんまプリクラ張って雑誌に出てくるようになったよね。

キール:英雄に自己を同一視できなくなったのかね・・・

ナイン:そういう理由もあるし、あとやっぱ「物語」が成立しなくなったって事があるんじゃないかなあ。

Waterr:英雄がバリバリやるよりは、鬱々とした主人公に身を重ねる方が・・

キール:ダメなやつの方が、おいしいことに結びつくって事は、やっぱ心地いいよね。

ナイン:ある意味健全でもあるんだよ、その方が。ただどの文化ジャンルにも共通する日本の特徴は、「ダメなやつ」が受け入れられるようになったって思われた瞬間に、それが企業や資本の論理に猛スピードで飲み込まれていくっていうことじゃないかと思う。「これは使えるな」って思われた瞬間に囲い込まれてしまう。この辺に関して言えば、エヴァはキャラクター産業とか色んなものを生み出したと思うんだけど、企業論理、商業論理にその後どう飲み込まれていったのかという話はどうだろう。あれはあれでかなりストーリーがしっかりしていた作品だと思うんだけど・・・

キール:そうだねえ・・・。やっぱりあれは新しい女の子のカタチを作ったと思うし、今まで有機的なロボットっていうのは少なかったんだよね。『ダンバイン』って作品はあったけど、大半のロボットがどちらかと言うとメカメカしていて、ゴテゴテしていてすごく無機的なロボットだった。だけど『エヴァ』で有機的な、人間っぽいロボットが生まれた。怪獣だってさ、今まで怪獣怪獣していたけどさ、エヴァに出てきた『使徒』ってのはさ、今までの怪獣とは全然違ったじゃん。記号的で。後はやっぱり主人公の形態だね。「自己嫌悪型の主人公」があっという間に増殖していった。綾波レイというヒロイン自体がそういうのの固まりみたいで、「綾波系」みたいな特徴のジャンルが出来た。無口で、自分の感情を押し殺した女性キャラター。自我が無いというかな、命令したら動く、ロボットみたいな。

ナイン:それは感情を押し殺しているという感じ?

キール:感情がもともと無いんだよ。または押し殺している風な感じを装っている。結局、人形っぽい女もいいんだぜみたいな事を初めて言った作品だと俺は思うよ。綾波レイというのは。


●「自分でつくる」から「すでにあるモノを消費する」へ

ナイン:その後、主人公のシンジタイプにしても、ヒロインの綾波タイプにしても、似たタイプは量産されていった?

キール:されていったね。あの時代はゲームにしてもアニメにしてもマンガにしてもそうだからね。一発で分かるもん。

ナイン:ふーん。そういうのってさ、見て「似ているな」って一発で分かっちゃうんだけど、それでもちゃんとみんな買うわけだよね?パクリとまで行かなくても、オリジナリティが無いのに、みんな買ってしまう?

キール:それ言ったら全てのおたく系作品なんてパクリとオマージュじゃん? 全部が全部じゃないけど、結局は全てのものの模倣にしかすぎないんだよね。

ナイン:あのさ、ストーリーをパクる事と、キャラクターをパクる事とはまたちょっと違う気がして、すごく単純な話をすると、キャラクターをパクると幾らでも実際のグッズを作れちゃう訳だよね? 今日色々見てきたお店で売っている、アスカのクッションとか、綾波キーホルダーとか……。

キール:今は、キャラは固定されてるじゃない? 要はその動かし方なんだよね、ストーリーの違いは。このキャラがもしこの時こうだったらストーリーはどうなったかとか。そういう既存のキャラの動かし方で作品の幅が広がっているというか、新しいキャラというのはエヴァ以降あまり出てないよね。

ナイン:それはやっぱりメイド喫茶で話していた、世代的な問題につながってくるのかな。「自分でつくる」ということの意味が変わってきているということ。

Waterr:確かに、すでにあるキャラクターの配置換えをするのは、「つくる」というものとはずいぶん違うよね。むしろ最初に言っていた「自分なりにどう揃えるか、消費するか」になってしまう。模倣にすぎないものを何で買うのかと言えば、ほとんどそうだと思うんだけど「○○系」という括りを作るのが売ることにとって基本だと思うんだよ。音楽だって、あるバンドがいて、ちょっとエポックメイキングものがあったとして、例えば『デ・ラ・ソウル』はニュー・スクールのエポックメイキングだったんだけど、「デ・ラ・ソウル系」というのが売るために不可欠になる。それはデ・ラ・ソウルじゃないんだけど、まさにそれを買うことによってカテゴリーを網羅する、それが基本だと思うんだよ。で、そのカテゴリーの網羅の中で細かい差異を見つけていくことが、消費している自分の「自分なり」を表現出来ることになる。「ここは似ているけどここはちょっと違う」というようなディテールを見て、差異をつけていく。

ナイン:それは本当にかなりの転換だよね。

Waterr:そう。オリジナルじゃないんだけど模倣している、まさにそこが消費にとって意味があるんだよ。

キール:それは思いっきり、猫の耳がついたキャラクターの『猫耳系』を集めているから、「この人、猫耳系だ」とカテゴライズするのと同じだ。後は制服好きだったり、セーラー服が好きだとか、ブルマ好きとか、メイド萌だとか、犬耳萌えだとか。

ナイン:メイド萌えの人は、メイドの格好をしたキャラクターだったらとにかく集めるという風になっているのかな?

キール:うーん、そこまでコレクター性のある人だったらやるだろうけど・・・やっぱメイド服なんだよね、中身の女の子じゃなくてメイド服なんだよね。

Waterr:コレクター性っていうのはそういうことがキーポイントなんじゃないの? つまり、ある種のモノは徹底的に網羅するとか、新しく出たら必ずチェックするとか。

キール:そうだなあ・・・。結局、キャラに萌えているか属性に萌えているかなんだよね。男性はどっちかというと属性萌えだけど女性はキャラなんだよね。

ナイン:えっと、つまり同じ綾波レイを見るときに、男だったら、無口とか、白いスーツとか、パーツ別に分ける。女だったら、綾波という一個のキャラクターをどういじくるかという事になる。

キール:そうそう。

Waterr:それでその一つのキャラクターに対して、色んな消費をするんだよね。色んな思い入れをする。

ナイン:それは例えば一個のキャラクターをやおいマンガに置き換えて消費する、ということなのかな。

キール:属性を消費することなんだよね、男のやることは。女性の場合キャラを消費することだから、他の似たような属性のキャラだからといって、必ずしも興味が沸く訳じゃないんだよね。そのキャラだけを集中的にやるんだよ。だから女性向けの関連グッズはみんなキャラじゃん? でも男の場合は属性なんだよ。

Waterr:まあそうだよなあ。パーツで切り分けて売ってるもんねえ。

キール:中身の女の子じゃなくて、服とか、そういうバックグランドに萌えてるんだよ。

ナイン:そういうのってすごく分かりやすいジェンダーだよね。よく男の方が世界観の深読みとかするし。

Waterr:そりゃそうだ、だって音楽消費だって一点集中型のファンというか、その人のグッズは全て集めますみたいなのはやっぱ女の子的であって、男の場合はジャンルを網羅するというか、背景を固めていくやり方が強い。そのジャンルに関しては全て自分に関係があるものだと思って消費していく。女の子の場合はいちファンでも良くて、それに集中してやっていくみたいな・・・。


●商品量に比例してバラバラになっていく「わたし」

ナイン:ある属性に思い入れるというか「萌える」、その対象が変わるスピードってさ、昔に比べて今の方が段違いに早くなっている?

キール:そりゃ作品の出る量がハンパじゃないからね。

ナイン:それもあるだろうけど、昔のおたくだったら一つのものに思い入れがあったんだろうけど、今の若いおたくというのは、そういうのを無くして無秩序にぽんぽんぽんと行ってしまうというのはあるのかな。作品数の増加に関連して・・

キール:あー、それはあるね。

ナイン:そういう風に無秩序に消費するようになった人たちが、今後人間としてどういう風になっていってしまうのかが気になるんだ。

Waterr:人格をバラバラにして、取りまとめることが出来なくなる・・。

ナイン:そうだね。これはファッションが一番分かりやすいんだけどね。やっぱ「今日はこんな服を着て、明日はこんな服を着て、それぞれ違う自分らしさを表現しましょう」みたいなのは、『an・an』とか見ると70年代くらいからやってはいたんだけど、時代が現代に近づいて服の種類が増えていく中で、どんどん着せ替えのスピードが速くなっていったし。後は低年齢化だよね。だんだん10代に降りてきて、今や小学5〜6年生くらいの女の子が「今日はこんな格好、明日はこんな格好」みたいにやっている。あるいはシチュエーションだね。ここへ行くときにはこんな服、あそこへ行くときにはこんな服・・・。

Waterr:「気分」だね。

ナイン:そう、「気分」って言えば無限にパターンを作れるし。で、そういう分裂したモノ選びを、それが「分裂している」ということが分かっていた世代があえてやるのと、初めからそれしか無かったような環境で育ってきたコたちが、それを当たり前の事としてやるのはかなり違うんだろうし・・・。

キール:かなり違うんだろうね。昔のおたくは、「そういう見方もあるけどこういう見方もあるよ」という視点があったんだよね。つまらない作品だけど、上澄みだけを見るなら見られなくもないよ、みたいな感じで。今はみんながみんな上澄みだけを見て、それで消費して終わり、感動して終わり、そこから先が無い、何も生まない、批判もない。

ナイン:もしそれで種類が少ししか無ければ、すごく寂しいんだろうけど、今は取っ替えひっかえできるくらいにネタ(商品)は事欠かないから、飽きないよね。

Waterr:今と昔を分ける点は、「自分をどう理解するか」に関わると思うんだよね。あるモノを買い、それに触れている自分というものが「自分とは何なのか」に常に関わっているのが以前の世代で、色んなモノと接することによって自分を失うということは余り無いと思う。

ナイン:うーん、言われてみればそうだ。

Waterr:だけど服で言えば今みたく単に着せ替え人形みたいにやっていれば、それを着ている事と自分がどういう生き方をしているかという事に始めから関係がない。だから最終的に取りまとめることができなくなる。でも以前、80年代初期の「初期お洒落」みたいな人たちは、その格好をすることが自分の生き方になってたんで、今のような問題は無かった。ま、それが良いかどうかは知らないけどね。ある種のカルチャーにコミットすることと、どういう服を着るかということが一つのものだった。ポリシーがあった。でも今ファッション雑誌とかが宣伝しているのは、日曜日はアウトドア、月曜日は何とかなお姉さん、火曜日ははつらつとしたスポーツウェアとかさ、全部違う。その一つ一つが自分の生き方とどう関係しているのかというのが直結しないんだよね。

ナイン:そんなこと問題にしていたら絶対やっていられないからね。

Waterr:それをナインが注目しているように、自在に着せ替えていけるような人間が「強い人間なんだ」となる。それこそ派遣会社みたくどこに行ってもどんなシチュエーションになっても対応出来るようになっていく。基本的には自分は空(カラ)で、真っ白で、というのがむしろ奨励されている。でも実際人間がそれに耐えられるかと言ったら、どこへ行っても自分の実力で圧倒出来るような人ということになるけど、そんな人は実際いないからさ。

キール:居ないね。

Waterr:だけど雑誌なり何なりがそういう夢を見せるからさー。モデルはいいんだよ、単に仕事として「着せ替え」をやってるだけなんだから。でもモデルじゃない人が同じ「着せ替え」をやってもさあ、「真っ白な人間」には耐えられないよ。で、それをどうやって回復するかという時にもう一度消費に復帰しなきゃいけなくなるというのが辛い所だ。語学学校に行くなり、スポーツジムに行くなり、何らかの仕方で自分を変えていく。でも無限に反転しなきゃいけないんだよね、それで白が何色かに染まる訳じゃないんで。

ナイン:その語学教室にしても、癒しのための旅行サービスにしても、今ではそれはしっかり企業サービスになっていからね。

Waterr:例えば<癒し>の旅行が、自分の労働の時間とは全く関係無いんだということにどこかで気付かざるを得ないというか、仮に非日常に飛びたした所で、日常が変わる訳でもないので、むしろ分断が進む、人格がバラバラになってしまう。

ナイン:昨日までは旅行だったけど、明日からは仕事だからシャキッとしなきゃという構造は変わらないし。


○音楽でもおたくでも、メジャーにマイナーが飲み込まれていく

ナイン:そういう意味でキールに聞いてみたいのは、少なくともおたく系カルチャーはそれを持ってそのまま会社や学校へ行くことは出来ないから、おたくの人にとっておたく系カルチャーというのは、一時的にわっと楽しんでまた日常に復帰する、そういうものなのかなあ? それとももう少し日常そのものに浸透しているだろうと思うか。

キール:ネットゲームとかは思いっきりそれなんだよね。仮想現実を楽しんで、時間が来たらまた日常に復帰する・・・。

Waterr:「社会での自分」と「そうじゃない自分」との分断もあるよね?

キール:あると思うよー。

ナイン:まあおたく系カルチャーはそれが巨大だよねえ。あのさあ、「おたく系カルチャーはメイン社会とは違うんだ」という意識は、カルチャーを作ってきた年長者の人であればあるほど強烈だと思うんだけど、そういう自意識みたいなものが若い世代になればなる程無くなっていくというのもあるのかな?

キール:あー、確かに。昔はだって社会自体が全くおたくおたくしてなかったんだよね、ポスターとかも普通に劇画調だったりするじゃない? でも最近はありとあらゆる物事がおたく的になってきたんだよ。アニメ調とかさ。それで日常との境目が微妙になってきたんだよね。俺なんかの時代に教室でライトノベル読んでいたら、普通に茶化されてたんだよね、「何そんなもの読んでるんだよ」みたいに。でも今のコはたぶん普通に読んでいるし、カンケーねーし……。

ナイン:音楽でも一緒だよね、昔だったらマニアックな音楽を教室の中で聞いてたら茶化されるというか・・・

Waterr:それはやっぱ、俺が中三くらいの時にスケボーブームが来て、パンクがすごい一般化した時に、それまではパンクを聞いているというだけでメインストリームとは断絶していて、むしろその断絶を原動力にしてやってきたと思うんだけど、自分がその音楽を聴いているという事と自分の生き方に何ら関係してない人間が至って単なるBGMとして聴いているようになったというのが、俺のような古い世代は非常に反発を覚えたわけだよ。

ナイン:その作品がマイノリティであるということも意識せずに引き受けられるようになって…

キール:そのキャラも作品自体も知らないのに、普通にコスプレ出来るって神経だよね。

ナイン:そういう人って多いの?

キール:多いね。

ナイン:それもすごいな、要するにパッと見た印象でコスプレやっている訳でしょ?

キール:そうそう。やっぱそういう服を着れば、カメラ小僧がいっぱい写真撮ってくれるし、チヤホヤしてくれるし。

ナイン:日本の女子高生向けに、アメリカのR&Bやヒップホップを真似た音楽が90年代後半くらいからすごく出てきたんだけど、そういうの見ていてすごいなーと思うのは、アメリカでやっている人たちのを外見から何まで恐ろしいくらいうまーくパクっているんだけど、彼らがその音楽を始めた背景や必然性みたいなものを徹底的に骨抜きにして形だけを与えることの「うまさ」、それは本当に皮肉ですごいと思う、タワーレコードとかに行くと思う。

Waterr:それは音楽の場合は日本って常に輸入だけど、おたく系カルチャーはそうじゃないよね。その辺の構造の違いはあるんじゃないかな。音楽の場合は海外で流行っているものをいち早く輸入する。で、最初にカルチャーが出てきた時はそれなりに重い歴史があるから、それをいかに骨抜きにして軽い商品にするかというのが日本はすごく早いんだと思う。パンクとかヒップホップみたいにあまりに社会的な文脈があると、いちいち引き受けていたら面倒臭くて消費しないよ。だけど、それをいかにも真っ白にして、当たり障りのない、害の無いものにするそのテクニックが日本はすごい。

キール:それってさ、結局関連グッズを作って売るのと同じじゃないの? 今の作品はテーマが薄くなっていると言われているけど、そこまで全くテーマが無いわけじゃなくて、大概の作品にはちゃんと訴えたいこととかテーマがあるんだよね。でもそういうのから一気にキャラだけを引き離して関連グッズを作るというのはまさにそうなんじゃないの?

Waterr:引き受けるものが何もない、と。


●無限の「取っ替え引っ替え」

ナイン:うんうん。で、批評家の東浩紀さんが言っている「動物化」というのは、まさにその状況に適応して、物語性が無くても、そのキャラが出てきた必然性みたいなものを引き受けなくても、キャラの表面的な取っ替えひっかえで十分に充足できてしまう世代というのを意味していると思うんだけど、やっぱりそういう変化というのは見られるのかなあ。

キール:『シスタープリンセス』なんか末期だよなあ。12人の妹が居て、その妹たちの日常をただ単に描いてるんだけどさ、何で妹が12人も居るんだよっていう・・・。

ナイン:妹自体が「萌える」対象なんだ?

キール:そうそうそう。しかもその妹たちは全然外見が似てなくて、「属性分け」されていんだよね。この子は元気っ娘、この子はおとなしい子、この子はお嬢様系、この子はやんちゃっ子・・・

Waterr&ナイン:(爆笑)

キール:この子はスポーツ少女、この子は文学少女・・

ナイン:「この子はメガネッ子」みたいな(笑)

Waterr:「何でだよ」と言いたくなるような(笑)

キール:そうそう。俺分からなかったもん、「何がいいんだコレは!?」って。普通に理解出来なかった・・。

ナイン:それはゲーム? マンガ?

キール:うーんとね、元々は美少女系を扱っている雑誌の中で読者投票みたいにやっていた企画がメジャーに入ってきた。アニメ化されて、ゲーム化されて。

ナイン:で、その日の気分で「妹たち」を取っ替えひっかえ出来て、「妹たち」みんなが「お兄ちゃん」とか言って慕ってくれるんだ?

キール:そう。だって「お兄ちゃん」っていうセリフ自体が「お兄様」「お兄たま」「お兄ちゃま」ってさあ、それぞれ違うんだよ(笑)

Waterr&ナイン:(爆笑)

ナイン:うわー、それ完璧だよね。座っているだけで満足出来ちゃうねえ。

キール:最近のギャルゲーとか、全部そうじゃん。全部属性分けされているからさ。一見個性豊かなキャラクターに見えるけど、結局は属性だからね。

Waterr:いや、それはすごい一般化できる話だね。

ナイン:ほんと、だってファッション雑誌とか見ていてもさあ、超細かく分けられているけど、それ別の雑誌見れば同じように分けられているからね。あるいは一週間くらいでまた元のパターンに戻るからね。

キール:例えば一般的なギャルゲーで言えば、「幼なじみ」「ロリ系」「お姉様」「文学少女」「体育会系」とか、大概そんな感じで分けられている。

ナイン:あー、それは分かるなあ。俺やっぱおたく系文化詳しくないんだけど、ゲームセンターで脱衣マージャンってあるじゃん、俺小さい頃からマージャン家でやっていて好きだったから、中学の時ゲーセンでよく脱マンやっていてさ、それも今から振り返ってみれば、ちゃんとその5パターンくらいに服を脱ぐ女の子たちが分けられていたなあ。グラマーなお姉さん系と、メガネかけたおとなしそうな子と、隣にいそうな普通の子と。

Waterr:はははははは(笑)。そういうキャラ分けみたいなのは、やっぱ小学校中学校くらいの時の記憶に頼っているのかねえ。

ナイン:え、どういうこと?

Waterr:つまりおとなしい女の子とか、元気のいい女の子とかって、小学校中学校ってそういうもののるつぼみたいな所で生きていたじゃん。でも大人になってからそういう人たちが取り揃った空間にいるってあまりないよね。

キール&ナイン:ないね。

ナイン:「あー、そういえばこんな子いたなあ」みたいな。

Waterr:そうそう。小中の時の記憶なり、当時の妄想みたいなものを使わないと、あまり意味が無いんじゃないかという気がするんだよね。

ナイン:「それぞれのタイプにかわいい子がいたよなー、この子たち全員に囲まれたら俺はどんなに楽しかっただろう」みたいな。

Waterr:はははははは(笑)。そりゃ確かにあらゆる意味で実現不可能だ。

ナイン:う〜ん、でさあ、もちろんこれがパターンに過ぎないってことを当の消費者たちが分かっている訳だよね。なのにどうしてガンガン消費していくのか、それで本当にいいのか、もう少し考えていこう。

(※キールより:私はこの会話に出てきた作品の良し悪しを語りたいのではなく、消費社会に飲み込まれていくオタクコンテンツの動向について語るためにいくつかの作品を提示しました。)

(「Part2」http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20050114 に続きます。ますますおたく系と音楽やファッションに共通点した問題点が明らかに!)