僕はこの間どうしていたか――闘病生活でつかみ取った命と変革
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皆さんお久しぶりです。数年前から、特にここ1、2年、疲れや頭痛で寝込む時間が増えました。不調は「起き上がってる時に頭痛がし続けて、止める方法がなく、また寝込むしかない」という状態に集約されました。
もう限界の中、「脳脊髄液漏出症」という難病に近い診断をされ、2回の手術をしました。それでも治らないから実家に帰った。時間経過を待ち、様々に生活改善し、新たに頭痛そのものの治療に通う中で、ようやく回復して来ました。
その過程で自分の不調を、3.11福島原発事故の被ばく被害の深化と結びつけて考え、街頭や官邸前でアピールをしました。動画をぜひ:https://x.gd/42ZLZ
そして自分の闘病・問題の本質・新たな被ばく者や避難者とは何か・社会/反原発運動への提言を書きました。苦闘の中で掴み取ったものを、時間のある時にどうかじっくり読んで下さい。

1:まず、私たちの全体状況。

連載:来たるべきその時(革命)のために③ 野党共闘路線の終わりと、2011年3月11日~4月10日からの総括開始
2011年3月11日、東日本大震災と福島原発事故。東北の人々は、地震津波で多大な死者を出し、それらと放射能からの大規模な避難を余儀なくされた。
関東の人々は地震被害が直撃ではなかったものの、放射能が広く降り注いだ。そして「意味不明な計画停電で動けない」「家にこもって原発作業員に祈れ」「頑張ろう日本の洪水CM」にさらされた。
これは支配層の計画的な扇動だ。社会統合の崩壊→人々が大規模に西へ避難したり、政府や原子力村の打倒に立ち上がる事を恐れたからだ。
twitterはここで最初の力を発揮した。「安全、大丈夫」と言い張る国に対し、そうではない事実を探し、知り、共有する場として一気に広がったからだ。
そして敏感な人々や仲間は、すぐ西日本へ保養や避難に行った。被曝の知識と移動の経験が足りなかった僕は東京に留まり、運動仲間と互いの生存を確かめながら、反原発の緊急学習会などへ通った。
そして僕は、動く自分達と「全員家で祈れ」との落差から、これは戦前戦中の手法を使った支配戦略だと気づいた。それを打ち破るには、事故の責任者を名指す行動が必要だと思い、首相や大臣らが集合していた新橋の東電本店前で3月18日から抗議を始めた(なお最初の抗議はたんぽぽ舎の3月12日)。
この状況は、次の原発大事故、大震災、侵略戦争の発生時にも必ず作られる。当時まとめた文章を読んで下さい(自著『僕が東電前に立ったわけ』のベース)。https://ryota1981.hatenadiary.org/entries/2011/03/21
4
snsや動画配信の世界は、今でこそ炎上・有象無象・デマ拡散が極まったと言われる。マスコミ不信を前提に、ネットに対する評価も割れている。だが3.11後の時は、「嘘ばかりつき私達を黙らせるマスコミ/事実がわかって反原発の声を上げられるネット」という構図が明確化した。
つまり、最高の権力者や命を壊す放射能に、被害者の民衆が対決するという、本来の階級対立とネットの使い道がはっきりした。今でも最大の成功例ではないだろうか。
(つまり99%VS1%。この普遍的な階級対立の構造がうやむやにされてるから、例えば「兵庫の斉藤&立花に協力することが権力との対決だ」と錯誤されてしまう)。
まず、動画配信。僕らが東電前抗議を始めた時、黎明期のIWJ、個人配信者、海外メディアが次々配信や取材をしてくれた。「ようやく抗議が始まった」と。街頭での声は配信で家にいた人々に伝わり、責任追及の必要性を共有した。
そして参加・協力者が3人から増え始め、3月27日・4月1日に東電前には400人が集まり、終了後の話し合いで「東電前アクション」を立ち上げた。3月27日の既存団体の定例デモにも1200人集まった。前の月は20人だ。
東電前では、様々な人々が、重苦しさの中で溜め込んでいた思いや主張を爆発させた。それがそのまま責任者全員への追求になった。
東電抗議とその拡散は、震災と原発を同じ扱いにして黙らせる最初期の圧力を突破した。
次に、SnS。「原発やめろ」という言葉とデモだ。人々が声を上げ始めると、今度は「電気が足りなくなる、対案出してみろ」「原発は専門的問題だ、無知な素人は黙っていろ」という権力者や右派の圧力が降り注いだ。よく見る光景だが、人々の覚醒を防ぐために相手も必死で圧力をかけてきた。
これに対し、「#原発やめろ」という投稿がtwitterを席巻した。西日本への初期保養から戻ってきた素人の乱の人々が、4月10日に「原発やめろデモ」を企画して投稿した事がきっかけだ。
彼らの強みは、皆高円寺近くに住んでて毎晩集まり、体験や状況について様々話し合いながらデモを準備できたことだ。―「ぐちゃぐちゃ言われるけど、原発やめろでいいじゃん!」ー心の叫びであり一番シンプルな言葉が、デモ参加と結びついた。
こうして「専門家/素人」で黙らせる次の圧力をこれまた突破した。
3つ目に国際連帯。この場合は海外からの(やや情けない)影響と言える。事故直後から欧州各国で反原発デモが多発し、ドイツは脱原発を決断した。Twitterで日本にもすぐ伝わり、「遠方ですぐ動いてるのに当事者の自分達が動かないのはおかしい」とデモへ促した。
世界民衆の同時課題、同時行動であり、ネットはそれを媒介した。それが本来の使い道と可能性だ。今年のガザデモで発揮されているが、もっと、常に行われれば世界は変わる。
そうして迎えた原発やめろデモ第一回は、ぺぺ長谷川氏が亡くなる前に「個人的に過去最高のデモ」と書いていたと思う。高円寺駅から集合場所へ人の波がうねり続けた。デモは路上とゴール場所の公園を占拠した。
初参加者は同じ思いの人が大勢いる勇気を、企画者やスタッフは見たことない人々が次々参加する感動と衝撃を味わった。根底には共に、国家の圧力や事故の絶望感を行動で打ち破る解放感があった。
こうして東電前抗議や、原発やめろデモ第1回は、人々が立ち上がる時に必須な「共感と勇気の連鎖」を生んだ。
これを作り成功させることこそが、今も日々最も問われていると思う。(続く)


連載「来るべきその時(革命)のために―2000年代~2010年代総括」第2回 自分の目覚めと00年代と「9.11」
予告編&第1回:https://x.gd/fdig7
1、準ひきこもりが歴史や社会運動と出会う
僕は一番多感な10代後半に人間関係から遠ざかっていたため、社会問題に関心を持った。9.11以降の運動に参加し、世界を獲得していった。
81年6月に東京で生まれた。中学2年(95年)の初夏に、小学時代から仲良く遊んでいた先輩達に突然暴力を振るわれ続け、ショックでそれ以降ずっと人と話ができなくなった。学校には行くが完全に一人、外出できるが誰とも話さず、孤独に浮遊し続けた。
勉強にも乗れず、97年に高校は工業高校に入った。そこでも一人で、また横並びの校則が厳しかったため、環境に疑問を持った。なぜこんなに自分は辛いのか?横並びさせられるのか?学校とは?なぜこうなった? それが自分を責めるよりも周囲=社会の成り立ち=戦後史などに関心を向けさせた。親が持っていた何でも体制や流行を批判する雑誌『噂の真相』や、自分で探した本など読み始めた。
2学期からすぐに都内の定時制高校に移り、誰とも話せず読書や町歩きを続けた。援助交際~少年犯罪など同時代で身近だった。一方小林よしのりの『戦争論』が、「戦後日本は平和ゆえのミーイズムが蔓延してそれらに行き着いた。戦前戦中の滅私奉公に戻り、誇りを取り戻せ」などと叫んで時代をつかんだとき、体験や読書経験などからそれは嘘だと思った。
一方小林よしのりの『戦争論』が、「戦後日本は民主主義と平和ゆえのミーイズムが蔓延してそれらに行き着いた。戦前戦中の滅私奉公に戻り、誇りを取り戻せ」などと叫んで時代をつかんだとき、体験や読書経験などからそれは嘘だと思った。
理由は、高度成長以降、日米安保の元で企業戦士と消費社会を作る事に専念し、家庭も学校も地域もそのために作られた。だが冷戦とバブル崩壊後にその画一性が矛盾を極めたからで、根本的な平和主義や民主主義を達成していないことこそ問題で、目指すべき方向性だからだ。
そうして僕は戦争反対・反権力の思いは固まっていった。こうして90年代以降、生きづらさをきっかけに社会運動に来る人が増えたのは偶然じゃないだろう。
99年後半から、ため込んだ思いを図書室の会報に書き始めた。それを機に徐々に人と話せるようになっていった。01年春、社会学を学びたくて夜間大学に入学。その年9月11日に、米国ニューヨークのwTCビルにハイジャックされた飛行機が突っ込む「9.11事件」が起きる(写真1)。世界は激動し、僕の目は世界に開かれ行動したいと思い、その半年後にアフガニスタンへの報復攻撃反対の「ピースウォーク」に初参加していく。
言いたいのは、今もコミュニケーションや自己不全に悩む多くの人たちに、社会運動を通して原因を社会化し、自分を解放する道がある。特に閉塞を極める日本では皆がそうしてほしいという事だ。
2.9.11は世界をどう変えたか
10代の僕が日本の政治や戦争に反対し始めた先には、世界の長年の南北格差があった。パレスチナ問題、北側先進国による南側の植民地化、今も続く経済的搾取。
ソ連が解体して米国は90年代に一人勝ちし、マックやマイクロソフトなど米発のグローバル企業が世界を覆った。世界中の紛争に介入し、引き起こし、軍事覇権も欲しいままにした。
「9.11」の実行犯は、南側のアフガンのイスラム教徒らの怒りから生まれた「アル・カイーダ」だった。北側世界の中心・米国NYを突き刺した。
激怒した米ブッシュ政権は、「対テロ戦争」と称してアフガンを大規模空爆した(写真2、3)。冷戦までの国家対国家戦争ではなく、敵は対象も場所も不明確な「テロリスト」だと規定し、延々と攻撃を続ける。軍事力が圧倒的に上でも続ける「非対象戦争」の中で、社会も恒常的な戦時体制にしていく。これが米国、欧州、日本に急速に広まった。経済のグローバリズムは世界中への非対称戦争と一体になった。軍需産業や民間軍事会社や監視社会化はますます増長し、正当化された。
ここで日本が憲法9条を主張していたら違っただろう。だが自民党が政権復帰していた。小渕、森の不人気を挽回するため登場した小泉純一郎政権は、即座に米国を支持した。「テロ対策特措法」をほぼ全会一致で成立させ、自衛隊の艦隊をインド洋に派兵し、支援(写真4)。マスコミも「テロを許さない」の大合唱。テロ扱いすれば何でも悪、はここから始まったのだ。そして米軍も自衛隊も、仮想敵=ソ連が消えても「テロリスト」を作ることで延命し続けた。
これに対し日本の市民・平和運動は、「テロにも報復攻撃にも反対」を掲げて大きなデモや集会を始めた(テロにも~と言うか言わないかは議論になり、分かれた)。世界の反グローバリズム運動も、99年に続く01年のイタリア・ジェノバwTO会議で反対運動を爆発させた後、対テロ戦争への反対を世界規模で展開した。
アナキストや学生運動も行動を開始。また90年代から地球規模の環境問題に市民が対応するnGO、阪神大震災で始まったnPOが広がっており、アフガン攻撃に対しても彼らは反対に立ち上がった(ピースウォーク)。これらが絡み合いながら、巨大なイラク反戦運動へと結実していく。(続く)




連載「来るべきその時(革命)のために―2000年代~2010年代総括」予告編と第1回
★はじめに★
【大阪市廃止への賛成論に対して・元都民の声・大阪の良さは地域商店街と人のつながり】








