『社会評論』に「今」を書きました!

許可を得て転載します。事態はさらに先へ進んでいると思うから、年明けにまた書きます!

2011年から2012年へ  園良太

3.11から9か月、今の課題を書きたい。反原発運動は街頭デモや経済産業省前のテントが盛り上がってきたが、原発を止め避難や賠償を実現させるにはまだ遠い。原発は支配体制の問題だ。核兵器を持って戦争をしたい権力者の欲望、経済的な利益を生み出し独占したい経済界の欲望。どの問題でも常にそこに行きつくことをわかっているからこそ、諸外国のデモやストライキは全社会レベルに巨大化するのだと思うし、その認識が弱いから日本の運動は広がりきらないのだと思う。

3.11で壊れたかに見えた日本の強固な支配体制はその後復活したと思う。まず最初期にメディアが安全キャンペーンに統制され、計画停電交通機関のマヒや軍隊による道路封鎖を活用しながら自由が奪われ、人々を「逃がさない」ための最大限の有事体制が作られた。原発事故への関心と危機感は実は最初期が最も高かったかもしれず、ここで正確な情報が出されたら人々は政権打倒に立ちあがるか、避難支援が行われたら東北や関東から大挙して脱出していたかもしれない。どちらも支配体制の秩序維持にとって脅威だったはずであり、それゆえ総力を持って阻止されたのだ。その後メディアでは菅による表面的な「脱原発政治」も展開されるが、福島現地では廃炉作業や除染作業が再び東電を始め原発関連企業のビジネスになるというおぞましい状況だ。自分や子どもや周りの人々に健康被害が続出し(すでに福島はそうだ)、5年後・10年後にガンや白血病で亡くなっていく人が急増することを、「死」のリアルを、私たちはまだまだ認識しきれていないだろう。

そして野田政権になってからは原発再稼働や海外輸出を全面化させているし、放射性廃棄物は全国に拡散された。野田は増税、TPP、基地の辺野古移設、南スーダン派兵、武器輸出解禁、憲法審査会なども一斉に動かした。まさにファシズムである。私たちは新たな状況によって自らが放射能や貧困で「殺されていく」ことも、他者を戦争や搾取で「殺していく」ことも主題化しきれないまま逆襲されている。

そのため反原発運動でも混乱が生じる。極右による脱原発運動への解釈だ。従来なら核兵器への欲望と原発推進をセットで語るわかりやすい存在が、「核兵器は非効率、原発も国土を汚すから不要」と主張やデモを始めた。だがそれは右翼が支配体制の手先でしかなく運動つぶしを担ってきた過去への総括が無い所か、沖縄やアジアへの差別・戦争は推進するままだ。また福島への視点もパターナリズムであり、原発を都市が地方に押し付け、被曝労働を不安定労働者に押し付けてきた差別構造を問い自らを変革する方向には向かわない。「脱原発右翼」では当然にもそれらの問題を解決することはできないが、支配体制の問題に迫りきれない都市の反原発運動の一部に受け入れられてしまい、運動も割れ気味だ。

前沖縄防衛局長の「犯す」暴言と「本土」側の怒りの鈍さはその状況を明らかにした。必要なのは原発・戦争・貧困・差別の政策をトータルにとらえ変革することだ。経産省前テントがあるような都心、関東のそれぞれが住む地域、福島や原発立地地域が立体的に討論しつつつながりながら、再稼働阻止や避難を実現させ、沖縄やアジアの民衆への加害も終わりにすることなのだ。

 「殺されていく」福島と私たちに必要なのは、「被曝しないため」「逃げるため」のあらゆる賠償要求、制度設計、自律的なコミュニティ作りとそれらをつなげることだ。政府や東電が避難費用を賠償せず、移動先に住居や仕事もないため逃げることのできない人がどれほど多いことか。放射能からの避難も、安心して住める家も、仕事の確保も、全て私たちの基本的人権であり、政治に責任のある事だ。数年前の反貧困運動で確立されたかに見えたその権利をより明確に運動化し要求する事が必要だ。そのためには経産省前テントに福島の女性が座り込みに来ている機会を活かし、福島の当事者と関東の当事者が共に迫っていきたい。

 そして私たちが「殺す」側に立たないためには、福島、沖縄、東アジア、アフリカへの暴力を今すぐやめる/やめさせることであり、それを通して多様な当事者とともに行動できるようにする事だ。自分たちの問題と他者の問題は、「根源的な体制批判」を通してつながるし、つなげなければ変わらない。豊かなダイレクトアクションと平等な関係性を生み出しながら、運動の拡大と深化を両立させながら、新しい年を希望に変えよう!