【論文】2000年代、自分は何を考えどう動いてきたか

★11月12日→14日、オバマ来日抗議アクションやってきました。写真&映像:http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/20091114/1258213309
http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/20091117
反戦と抵抗のフェスタ、最新プログラム!http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/20091116 
★11月28日はフラッシュモブがあるそうです。http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20091112
★11月27日のイベントお知らせ。フェスタ直前で多分行けないけど、この27日のような打ち出しのイベントはもっと増えるべきだと思う。ぼくらはことばも身体性も奪われている。あぁ俺も書きたい話したーいー!
「出版関連労組交流会議・秋季シンポジウム「新世代へ繋ぐ言葉を求めて」 http://www.labornetjp.org/labornet/EventItem/1257891922516staff01


★とある所に書いた文章を、こちらにも載せます。長いですが良ければぜひ読んでみてください。

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2000年代のナショナリズム反戦平和運動、そして希望のために
                                                            
園良太

 1991年前後、私が10歳だったころに日本のバブル経済は崩壊し、それまでの経済成長神話は音を立てて崩れていった。同時期に東西冷戦も崩壊し、戦後日本を規定してきたアメリカやアジアとの関係が変化していく。その結果日本は対米依存と戦争参加をこれまで以上に強めていき、人々の間でのナショナリズム自衛隊の積極的な肯定、そして排外主義も高まっていく。ここではそれらを進めてきた政府の政策と人々の中
で新たに出てきた「心情」は何だったのかを批判的に考えたい。そのためには、問題を時系列で見ていくことが必要だ。そして、思春期でもあった自分はそれに対して何を考えどう動いてきたかも紹介し、平和運動・社会運動がつくりだす展望や関係性に希望を見出したい。

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1:前史――自衛隊を広めた1990年代の「心理」

経済グローバリズムによる1990年代以降の長引く不況は、格差と貧困を拡大し、人々に不安と不満を定着させた。また企業活動を最優先させて作られた日本の家庭や教育は、「終身雇用のサラリーマン+専業主婦+親と同じになることを目指して勉強する子ども」という関係性になっていた。それは70年代から変わり始めていたが、不況は変化を加速させ、新たな関係性を自分たちで作る必要が出てきた。経済的な苦しさと、
価値観の混乱が、多くの人に同時に訪れたのである。1997年には山一證券が倒産し、98年には自殺者が3万人を突破する。そして「政治も経済もとにかく変わらなければいけない」と叫ばれ、80年代から進んだネオリベラリズム式の「改革」へ加速していく。
 
 ここで重要なのは、不況は若者たちも直撃したことだ。1994年には「就職氷河期」が訪れ、のちに「ロストジェネレーション」と呼ばれる非正規雇用の若者たちが急速に増えていった。 変化が生む不安、不満、焦燥感は、多感な下の世代になるほど当たり前になっただろう。私は大人たちが慌てふためく姿を見ながら、同じ10代の援助交際や少年犯罪が社会不安のシンボル扱いされ、企業社会へ出る頃には不況がより深刻化する、そんな時代を育ってきた。職場が流動化して経済面も厳しくなれば人は孤立するし、孤立すれば新たな関係性も築きづらくなる。これは、私たちの間に自己の空白感に苦しむ「ひきこもり」やメンタルヘルスが増えてきたことと無関係ではない。

 外政も変化を求められた。湾岸戦争多国籍軍へ十数兆円のカネを支払うも、「人の姿が見えない」と批判され、日本はついにカンボジアPKO自衛隊を派兵した。以降アメリカは日本へより全面的な軍事協力を求め始め、日米新ガイドライン有事法制アフガニスタンイラク戦争への協力や派兵と加速していく。それは軍隊である自衛隊を、「国際協力」の名のもとに「人助け機関」と見なす考えを広め、あらゆる軍事政策を容認しやすくした。そして海外派兵は憲法9条を完全に空洞化させ、その都度「9条は戦後の遺物であり、もう今の現実に合わないのだ」という声を強くさせた。既成事実を先に作りだして憲法を打ち捨てることが常態化する。また冷戦崩壊期にアジア各国が民主化してきたため、各国の「従軍慰安婦」が第二次大戦中に日本軍に強制連行された痛ましい体験談を語り始めた。日米との力関係の中で抑え込まれて来た声は、日本政府や私たちへ戦争責任を追及する大きな動きになったのだ。

 それらはすべて、多くの人にとって「戦後日本」のあり方を問い直さずにはいられなかった。70年代以降の日本の若者は「政治や社会に無関心」と言われ続けてきたが、この混乱期に育った若者たちには切実な関心が増えてきた。ここで過去を真摯に振り返っていたら、天皇制に代表される戦争責任、日米安保の戦争協力、経済成長一直線の社会を反省し、誰もが共生できる新たな時代へ踏み出すことができたかもしれない。

 だが、そうはならなかった。日本には中国や朝鮮への差別意識が根深く存在し、国内の戦争体験も風化していた。また憲法9条の価値のみを主張して、植民地支配の責任や日米安保体制の問題を多くの人に届けられなかった平和運動の限界もあっただろう。

 『ゴーマニズム宣言』を書いた小林よしのりは、そこに歴史修正主義を答えとして打ち出した。漫画というわかりやすい形で若者にも大きな影響を与えた彼を小熊英二はこう分析する。

 “たとえば『戦争論』の冒頭は、渋谷の街頭でサラリーマンがぼんやりした顔で歩き、女子高生が座りこんでいる絵が書かれて、「平和だ…。あちこちがただれてくるような平和さだ」「家族はバラバラ、離婚率は急上昇、援助交際という名でごまかす少女売春、中学生はキレる流行に乗ってナイフで刺しまくり」などと書かれている。

 そして「戦後の日本」は、アメリカに影響された「戦後民主主義」のもとでミーイズムと利己主義が蔓延し、モラルが崩壊してしまった時代であるとされ、それに対照させて「人びとが公に尽くしていた時代」としての戦争や特攻隊が美化されているわけです。”(「小熊英二さん『<民主>と<愛国>を語る』上下)http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/book/Democracy_vol1

 そして小林は「アメリカの支配から脱却するために」と、憲法改正をして日本も核武装などをすることを主張した。また「謝罪と賠償を求められ続けた歴史を変えるために」と、従軍慰安婦の強制連行や南京大虐殺を否定する「新しい歴史教科書を作る会」の運動も始めた。どちらも「戦後に骨抜きにされた日本の誇り」を回復させるという目的だった。それらは解決策にならないし、歴史の事実と責任を無視している。

 だがグローバリズムによって変化を求められていた人々は、「日本をダメにした理由」を見つけたと思った。こうしてその後も「2ちゃんねる」での論調や『嫌韓流』が生まれ、歴史修正主義サブカルチャーとして定着していくのだ。また変化する関係性でも家父長主義の復権が唱えられてしまい、女性の抑圧ではなくより自由で平等なあり方を提唱していたフェミニズムジェンダーフリーがバッシングされていく。

 もともと高度経済成長以降の日本のナショナリズムは、太平洋戦争の死者に現代人が自らの思い入れを託すことで続いてきた。「彼らの死の上に今の日本の平和がある」と美化する8月15日の靖国神社が典型である。だが実際には無残な餓死や命令された玉砕死であり、そこに祭られるのは天皇のために死んだ者だけ。だが自分の不満や閉塞感が説明されることを求めていたので、都合のよいイメージが意図的に使われてしま
う。また核武装はアジアの他国にとって本当に脅威であり、慰安婦批判は人権を根底から踏みにじっている。だが彼ら自身が被害者意識を持っているため、「相手がどう感じているか」に気づけないのだ。 それがどんなに滅茶苦茶な理由であっても、自分の実存と結びつけば簡単には変わらなくなる。こうして軍隊と戦争への抵抗感が失われながら2000年代へ入っていく。

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2:アフガン戦争、イラク戦争と生活保守主義

 こうして「9.11事件」を迎える。この事件で、先進各国は即座にアメリカを中心に「テロと戦う」ための「有志連合」を結成した。対米追従を「国際協力のために」と言い続けてきた日本政府の首相小泉は、この連合のアフガニスタン攻撃を当然のように支持した。日本がとった協力策は、多額の資金提出と、戦後初のイージス艦のインド洋派遣だった。
冷戦時代の「対ゲリラ」「対共産主義」は「対テロリズム」に置き換えられ、「テロ」とレッテル張りすれば何でもやれてしまう21世紀の言葉の空間が出来上がっていく。こうして派遣法案はあっさりと国会を通過し、自衛隊は有志連合軍への給油活動に入った。2003年には「対テロ戦争」の標的が再びイラクへ向かう。

 アメリカは「大量破壊兵器がある」とでっち上げて先制攻撃を行い、日本政府も支持した。そうしてアフガンもイラクも数万人から数十万人もの人々が虐殺されてしまったのだ。
 だが、これらの「新しい戦争」に対しては世界でも日本でも反対運動が盛り上がった。ブッシュのあまりに非道な政策に怒りが広がり、世界では2月15日に世界600以上の都市で合計1300万人もの人々が参加した史上空前の同時デモが行われた。日本でも団体動員ではない数万人もの人々が参加し、様々なメディアにも反戦が広がり、そのダイナミズムは数十年ぶりだと言われた。各国の政権と対決するグローバル民主主義
を実現していく。

 ただ、日本では長続きしなかった。2002年の北朝鮮拉致被害者帰国により、北朝鮮バッシングに火がついた。そこで、憲法9条を担保に国内のみの平和を享受してきた生活保守主義の限界が露呈する。反戦運動高揚の直後にも関わらず「北朝鮮に攻められたらどうする?」と危機感が煽られ有事法制が成立し、その後も政府は日米軍事再編を進めていった。また「アメリカに守ってもらうためには仕方ない」としてアメリ
カが求めるイラク派兵が行われた。その結果2004年に「イラク人質事件」が起きると、彼らの「自己責任」だと切り離す大バッシングが起きた。その後も日本は泥沼化するイラクとアフガンへ派兵を続けたが、メディアは取り上げなくなり、反戦運動も参加者が減っていった。

 海外派兵には「対テロのため」と思考停止し、自らの責任と切り離して無関心になる。近隣の北朝鮮や中国には危機意識をむき出しにして、国内の軍拡を達成する。ともに前者はソマリア派兵まで、後者は「北朝鮮ミサイル騒動」まで今も続いている。それは政府が主導しながら人々も容認する共犯関係となっていた。そして自分たちとは異なる環境で苦しむ人々への想像力や、自らが彼らを抑圧していることへの責任意識が失われていったのである。 

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3:貧困の深刻化と「希望は、戦争」

 前述したように90年代〜2000年代は不況と格差が深刻化していた。90年代の日本政府は対応策をめぐってまだ揺れ動いていたが、小泉政権は対米軍事協力と同時に経済面でもアメリカ型の新自由主義を全面的に取り入れた。利益分配型の自民党政治を「抵抗勢力」と呼び、規制緩和と民営化を推し進める。また民間からは「ライブドア」の堀江崇文も登場し、自らを改革派としてたくみに演出した彼らの姿をマスメディアや人々は好意的に受け入れた。だが実際に進んだのは格差と貧困の拡大だ。このかんもフリーターや非正規雇用は一貫して増え続けており、小泉の「改革」は福祉を削減して非正規雇用や貧困に苦しむ家庭の生活も破壊した。また04年に製造業の派遣を解禁し、若者たちの現場には劣悪な偽装請負が横行するようになり、彼らはどこでも派遣されいつでもクビを切られる「モノ」と化してしまったのだ。それらは仕事と生活の両面で私たちから未来を奪っていった。

 これに対しては90年代末から「機会不平等」と警鐘が鳴らされており、2000年代半ばからはフリーターを中心とした労働運動が一躍注目を浴びるようになった。僕自身も参加し、作り出した「自由と生存のメーデー」のサウンドデモは年々参加者を増やした。違法な派遣を繰り返していた「グッドウィル」や「フルキャスト」を団体行動で廃業させ、幅広い団体の横のつながりは「反貧困ネットワーク」を生み出した。メ
ディアではようやく小泉改革や競争社会の負の側面が語られるようになった。そして2008年末には「年越し派遣村」が最大の盛り上がりを見せたのだ。貧困の問題化は07年の参院選や09年の都議選でも与党を大敗させることにつながり、その意義は大きい。

 ただ、当事者の若者で声を上げる人はまだまだ少ない。小泉改革は「自己責任」というイデオロギーも広げたからである。投資家が株式市場の中でリスクを引き受ける意味に過ぎないものが、自らの責任と無関係に貧困に追い込まれた人々にまで内面化されてしまった。そして「勝ち組・負け組」というある種の宿命論も広まった。イラク人質事件のバッシングと同時期である。「自分の状況は自分のせい」であり、選択
肢は2つしかないと思うことで、若者たちはさらに追い詰められた。

 そのため当事者にとって、自らの貧困の原因や解決は大企業や政府と向き合うことではなく、他の所からも見出される必要があった。歴史修正主義の主張は中流〜富裕層にも広がっており、この恐慌で人が流れ込んだのだとだけ考えるのはやや短絡的だ。だが少なくとも若者たちに貧困と閉塞感は着実に広がり、自らの不満をぶつける対象がより必要とされただろう。ここで貧困からの脱出は「希望は、戦争」と言ったのが赤木智弘だ。彼は戦争が起きれば社会が流動化し、31歳でフリーターの自分のような先が見えない存在にも一発逆転が起きるのではないかと考えた。またフリーターは貶められているが、徴兵され国家のために死ねば表彰されると主張した。

 戦争の美化は危険であり、実際に30代で未経験の赤木が重宝されることも考えにくい。だがなぜそうした主張が出てきたかを考えることが必要だ。90年代からアフガン・イラク戦争まで、海外派兵が一般に受け入れられてきた。そして実際の戦場へのリアリティは後景化しながら、人々の内部での「戦争観」はこれまで以上に語られ始めたのだった。それが彼の戦争観を作り出し、貧困の解決策として主張されてしまった。
その前提には、既存の「左派」や市民運動を強引に一括りにした上で「若者の貧困を扱ってこなかった」という不信感を持っており、より根底には声を上げても変わらないという宿命論があったのだ。

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4:その後の深刻化――貧困徴兵制と排外主義

 そうして迎えた2009年、事態はより深刻化している。まずは政府レベルだ。赤木が求めるまでもなく、国家は古くから戦争で貧者を動因させていた。そして9.11後のアメリカでは、戦争の長期化による兵隊不足を補うため、仕事、社会保障、大学の学費を得られない若者を軍隊へたくみにリクルートしている。彼らは過酷な実態を知らずに戦場へ送られ、帰国後心を病んだりホームレスになる人が激増した。いわば「貧困徴兵制」とでも言うべき事態が進行してきた。そこで「冬の兵士」のようなイラク帰還兵の反戦運動が高揚している。日本でも自衛隊が高校生などを活発に勧誘し、地方で職の無い若者が入隊している(赤木智弘も孤立した地方に住んでいた)。その際基地の航空ショーなどへ人々を呼んで親しみを持たせながら、CMやポスターで入隊は「自己実現」や「社会貢献」というイメージ作りを必死に行っている。

だが実際は初めて海外派兵が日常化したストレスにより、イラク帰還兵を中心に自衛隊内でのイジメ、うつ、自殺者が増えている。つまり弱い者がより弱い者を殺す仕組みが出来上がり、全てを失っているのだ。09年のソマリア派兵では、「海賊」(先進諸国に搾取されてきた漁民)に対する武器使用がついに認められ、海外派兵の恒久化と集団的自衛権の行使が現実になろうとしている。外部に対しては直接的な破壊と殺人の立場に立ち、国内ではそれを貧しく閉塞した若者たちを巻き込み行使させていくのである。

 そして人々の心情では、貧困や抑圧のはけ口が、90年代から醸成されてきた歴史修正主義とついに結びついた。街頭での排外主義の登場だ。「行動する保守」と名乗る彼らは、「犯罪外国人を日本から叩き出せ」と中学生の家の前でデモを行い、「従軍慰安婦は売春婦」と企画を中止に追い込もうとする。また戦前日本の台湾への植民地支配を描いたNHKの番組に抗議する運動が急拡大し、NHKへのデモには1000人近くが、集団起訴の原告にはインターネットを通じて8000人以上が集まった。彼らの特徴はデモのような市民運動的な行動をし、口にするのもはばかれてきた露骨な個人攻撃を行い、サブカルチャーの影響を受けた若者も参加し街頭での発散を楽しんでいることだ。彼らは民主党政権への危機感を煽り世論を右へ引っ張ろうと動き続ける。

他者に対しては、これまでの「戦争観」と同様に彼らが敵視する「在日外国人・朝鮮人観」――例えばありもしない「在日特権」――も彼らの内部でのみ作られている。そして自らの境遇や意識と向き合えない状況では、苦しみが増すほど政府や企業への抗議でなく別の理由を求め、行動や妄想も激しくなる仕組みだ。これが北朝鮮への強硬姿勢や在日外国人への入国管理法を下支えしている。外部に対しては差別と排外主義を強めながら、国内では貧困の解決や私たちを疎外するシステムが放置され続けていくのである。私たちは政府の戦争政策や人々の排外主義を批判すると同時に、どうすればグローバルな連帯や不満と希望の叫びを自ら上げることができるようになるかを考えなければいけないのだ。

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5:反戦運動が私たちを「世界」へ切り開く

 日本という内輪空間の矛盾や苦しさは、自分にとっても無縁でなかった。10代の時から小林よしのりに批判的だったが、彼に影響される同世代の閉塞感は自分も共有しており、自分はとても無力な存在だと思っていた。そして9.11事件の際は、対テロ戦争をおかしいと思いつつなぜ事件が起きたのかがわからかなった。日本を含む先進各国が搾取と介入を繰り返してきた歴史が見えていなかったのだ。だがそれが心残りだ
った私は、半年後の2002年に反戦運動に出会えた。渋谷という自分がよく行く街での行動を身近に感じたからだった。

 日本の反戦運動や新たに参加したNGONPOは、「報復戦争反対」を掲げながらデモやピースウォークを開始していた。グローバルな有志連合が形成されたのと同様に、戦争自体も石油資源の確保といったグローバリズムの文脈から理解されやすくなった。そこで彼らの文脈に触れることができた私は、政府とマスコミが「テロ」と一方的に呼ぶ行為の背景には、経済の南北格差や大国の軍事的な思惑に翻弄されてきた歴史が
あることを知った。イスラエルによるパレスチナ占領が典型だ。

知り合ったジャーナリストたちは現地へ入り、現代の戦争が一方的な虐殺であることを伝えた。被害者は来日し証言集会を開いた。軍事産業にまみれたアメリカの殺傷能力を高めた最新兵器の実験場にされる現地では、スマートな「攻撃報道」の裏で果てしない死者と破壊が生まれ、日本も加担している。その現実の前では自己の内部で戦争観を作り肯定することなどできない。内輪空間が破られ始めたのである。

 そして運動がイラク反戦へと発展していったのは世界とのつながりが大きかった。反WTO闘争や世界社会フォーラムといった海外の反グローバリズム運動が2月15日の世界同時行動へ結実し、その情報はインターネットを通して大きく伝わってきたからだ。自分と同じ考えを持って行動する人々が世界中にいると思える。国内にも世界各国の難民がいる。彼らと出会うことで自分の世界認識も変わる。大企業とマネーが世界中へ進出し続ける一方で、私たちにこうした機会がどれほど少なかったか。私の出会いと機会は幸運だったが、世界的な民衆の連帯は本来いつでもどこでも開かれているのだ。

 それを経験できてからは、イラク人質事件でのNGOへのバッシングや派兵への無関心が広がったことはたまらなかった。だが世界の他者からの声が聞こえるからこそ、その閉鎖性がわかり、自分たちは反対を続けなければいけないと思う。イラク反戦サウンドデモ自衛隊官舎への反戦ビラは弾圧されてきた。それは政府と人々が作り出す内輪空間を破ろうとしたからであり、その重要さを表している。戦後日本は、固有のアイデンティティを失ったから閉塞したのではなく(そもそもそんなものはない)、逆に他者へ開かれず閉じていったから閉塞していると思うのだ。

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6:プレカリアート運動が「自分」を取り戻す

 そしてその後のプレカリアート運動は、自らの声を上げること、問題は政府や大企業にあることの主張だった。私も2004年の就職活動で面接を落ち続けていた時、自分の要領の悪さや基礎知識の無さを自分で攻めていた。就職活動の忙しさは、多くの学生を「自己責任」のスパイラルにはめてしまう。海外の反グリーバリズムの主張も勉強不足で自らの現状に当てはめることはことはできなかった。

だが格差と貧困を問題視する本が増えたことで自己責任から解放され、数々の抗議行動は不況の構造や企業と経団連の問題を明らかにしてくれた。雨宮処凛氏を始め様々な人が社会に対して「生きさせろ!」と叫び、宿命論ではなく自分自身の怒りや喜びの声がカタチを表すようになった。また自分も関わった「自由と生存のメーデー」は、孤立し空白化する私たちをつなげていく「プレカリアート」という概念を日本でも広めたのだ。

 そうして戦争の仕組みと私たちの貧困や閉塞感の理由が結びついたことで、私には戦後日本の実像が見えてきた。天皇制を存続させ、アメリカに依拠した安保体制を作ってアジアへの戦争責任を逃れたからこそ、経済成長に専念して高度資本主義を達成した。その競争と消費が行き過ぎた結果、社会に不満を感じ自己が空白化したのだ。それをナショナリズムや外国との戦争や外国人への攻撃で回復させようとすることは、不満のそもそもの原因である安保体制と高度資本主義を増幅させるだけのマッチポンプなのだ。

 誰にでも自分を卑下する気持ちや他者に対する不信感はある。職場で、学校で、家庭で、地域で、メディアが作る情報空間の中で、自分を押し殺しながら生きている人がどれほど多かっただろうか? 戦争もそうした社会の上で進められる。だがプレカリアート運動では、復古主義でもより弱い相手への攻撃でもなく、より大きな国家や資本に挑んで社会を変えていく。その過程で自らの尊厳を回復し、新たな他者との共感を作り出していくのだ。

 だから2008年の洞爺湖サミット反対運動や「麻生邸リアリティツアー」に参加した人々は貧困と戦争の責任を首相に求めた。また「素人の乱」の周辺ではモノづくりや衣食を自らの手に取り戻すことが行われている。また近年、軍隊に代表される家父長制と権威主義ではなく個々の人権が尊重される関係性を作るために「セイファースペース」や「アフィニティーグループ」が実践されている。それらはまだ小さな動きだし、理想と現実の溝もあるだろう。だがこうした一つひとつの試みに、戦争と貧困に溢れた今を生きる人々の変革の希望が託されているのだ。

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7:最後に

 2009年のイスラエルパレスチナ攻撃は、この世から抹殺するかのような破滅的なものだった。グローバル秩序の破綻におびえる権力者の悪あがきを思わせた。これは世界の金融恐慌と同時期でもあり、欧州各地でゼネストが行われながら反戦運動も広がった。日本の「反戦と抵抗のフェスタ08」でも、反戦兵士の企画と「恐慌からの脱出は恐慌にあらず」といった企画を同時に行った。グローバルな戦争反対の運動と反貧困/反富裕の運動がつながっていくことが求められているのだ。

またアメリカのオバマはアフガンを主戦場だと宣言した。民主党政権でもアフガン派兵が求められ、日本の軍拡は止まらないだろう。現地では今も有志軍による民間人の殺戮も続いてしまっている。だがアメリカやイスラエルで帰還兵や徴兵拒否の反戦運動が広がっている。日本と韓国で言えばPANDAがある。金融恐慌後、日本経団連が活路として武器輸出の解禁を強く求めてきたように、自衛隊の貧困徴兵制もさらに強まるだろう。だが平和をもたらすのは軍隊や武器ではなく民間人の支援や連帯であり、そうした存在がより知られなければいけない。
そして日本の軍事化の理由にされている北朝鮮の今のあり方が、日本の植民地支配とアメリカの冷戦支配に責任があることも問われるはずだ。

私たちは、自らの貧困と閉塞に被害者としての声を上げながら、その外の世界で自分たちが加担する加害の事実を変えるべく動き出すことが今こそ必要だ。こうした問題を見つめ、行動し、乗り越えられたとき、私たちは戦争も軍隊もきっと無くすことができる。そしてグローバリズムの世界を真に自分たちのものとして生きていくことができるのだ。