友人の末期大腸がんの松平君が死去しました。追悼文です。通夜と告別式行きます。国と東電を許さない声を

末期大腸がんで都内に入院していた友人の松平耕一さんが、8日朝、亡くなりました。39歳でした。心から冥福を祈ります。ぼくも通夜と告別式に行きます(日時・場所の詳細を知りたい方は連絡下さい)。多くの人に賑やかに見送ってほしいと本人は話していたそうです。ぜひ参加をお願いします。自分も大阪から行きます。彼への思い、私たちの今の気持ちを共有しましょう。

===========

【追悼文】

『自分がもし病気になったら、原発事故と関連があるんじゃないかと想像してほしいし、そう主張してほしいし、主張する人がいたら手伝ってあげてほしいと思います。』

覚悟していたが、その時が来てしまった。無念さ、悔しさ、悲しみ、原発への怒りと恐怖でいっぱいだ。

松平君は多くの人とつながりを持っていた。僕は社会運動で出会った友人だった。僕が彼の病気と原発問題のつながりを強調するのは、お互いの苦しみの交差点だったからだ。反原発反戦デモなど色んな現場で一緒だった。顔の骨格や体型が似ており、「デモで公安に園さんと間違われたんですよ」と笑って話されたこともあった。また彼は弾圧問題に関心が高く、僕の「2.9竪川弾圧」の裁判に何回も来てくれた。大腸がんと発覚する直前の2015年11月19日も来てくれた。僕は彼の容態がわからなかった。

そして、2013年12月の「秘密保護法靴投げ弾圧」の救援会で初めて一緒にやった(全く運動経験のなかった人が、秘密法の強行採決に激怒し、採決の瞬間に国会傍聴席から靴を投げ、逮捕・3ヶ月勾留・有罪にされた)。あの大変な救援で、彼は常に的確に動き、弾圧当事者が最もピンチの時に、自分の経験を生かしてアドバイスと病院への付き添いをしてくれた。大事な仲間だった。

運動経験のあった彼は、末期がんで倒れた時、被曝が原因だと思い、勇気を出してそう主張し始めた。彼の力になりたかった。また僕も同じ2016年初頭、不整脈で倒れ続けていた。このままでは家で寝込んだまま黙らされると思い、被曝も原因だと主張し始めた。僕はまだ動けたため、避難を決意した。だが諸事情で延期された。望んだ引っ越しとは違う。悔いが残る。それは関東に仲間も家族も皆いて、事故5年目、健康被害が続発していた。なのに被曝被害や避難の話ができなくなっていたからだ。自分だけが助かりたいのではない。この状況を変えたかった。そこで彼や、被曝被害に苦しむ仲間に声をかけ、ともに4月に『福島原発による健康被害者の会』を立ち上げた。

彼の精神力は、すごいものだった。闘病方針を自ら選び取り、ネットで公表し続けた。末期がんの体でも3回の集会に自ら出向き、横たわりながら発言した。「因果関係が云々」を恐れず、「原発被曝のせいだ」と言い続けた。それは確実に3.11事故後の初めてで最大の声だ。誰にそんなことができただろうか? 敬服する。広げるのは友人の責務だと思った。

僕は艱難辛苦の経験の上に、東京離脱を決め、自分のことで次第に精一杯になった。活動をともに出来ないことも増えた。申し訳ない気持ちもあった。彼の原発放射能への怒りは、僕の声だった。彼の最大の願いは、自分の存在が知られることだ。

その悔しさはとてもよくわかる。病者は、自動的に、病院や家に隠されるからだ。だから避難しても、新聞で広げ続けた。願いに応えるとは、広げること(被曝被害を認める)、同じ犠牲者を出さないこと(被曝対策や避難をする)、加害の責任を取らせること(国や東電に)、だ。彼の声は、他の人々の命をも守る、未来への警鐘なのだ。

心底つらく悲しいが、黙っているわけにいかない。最大の追悼と教訓とは、人類史上最悪の核被害が続いており、原始視力緊急事態宣言=戦争中だと思い出すこと。こんなにも被曝被害や避難を言えなくさせられ、まるで過去の事になっている状況を、とてつもなくありえないことだと見つめ直し、変えることだ。

松平君は、東京生活の内部被曝をしていた。そして東電の下請けで、福島からの賠償書類をコピーし続ける被曝労働をしていた。その身体への影響もかつて語っていた。さらに東電と派遣会社には、仕事内容を言うなと口止めまでされていたのだ。詳細:http://jimmin.com/2017/07/17/post-3692/
多重派遣の許されざる実体は、以下。https://www.google.co.jp/amp/gamp.ameblo.jp/inoushi71/entry-12122069265.html
https://www.google.co.jp/amp/s/anond.hatelabo.jp/touch/20140728201354%3fmode=amp

上記の記事で、その労働の危険性を指摘した「内部被曝研」の渡辺悦司さんは、同じくがん死した小林麻央さんをこう書いた。「小林麻央さんは、放射線影響のがんの犠牲者であった可能性の高い事例の一つとして、一時ではなく永遠に、記憶され追悼することになると確信します。それこそがわれわれとして小林さんを追悼する、最もふさわしい道だと。」http://jimmin.com/2017/07/11/post-3611/

僕は友人として、健康被害者として、避難者として、心からそう言いたい。

「松平耕一さんは、放射線影響のがんの犠牲者であった可能性の高い事例の一つとして、一時ではなく永遠に、記憶され追悼することになると確信します。それこそがわれわれとして松平さんを追悼する、最もふさわしい道だと。

時間は巻き戻せない
失った命は帰らない
核・原子力はいらない
国と東電を許さない
命を返せ
友人を返せ
彼が生きるはずだった数十年を返せ
そして私たちの未来を返せ

関東東北の友人たちへ、避難して下さい。避難先で一緒に闘って下さい。あなたを失いたくないのだ。友人の歌を引用し、筆を置く。この作業員とはもはや全ての東日本の住民のことです。また書きます。

『作業員全員撤退せよ 作業員全員ストライキ
作業員全員逃げたら 自民党員120万人にやらせろ
世界最強のストライキ フクイチストライキ
どんな要求だって通すぜ
要求を断ったら 北半球が壊滅
あいつらの全財産が人質だ

作業員全員撤退せよ 作業員全員ストライキ

=======================

渡辺悦司さんからのコメントです。

「皆さまに、心よりお悔やみ申し上げますともに、患われた「大腸がん」についての私の考察を、ささやかではありますが、松平様のご霊前に捧げたいと思います。

きっと皆さまは、今回のような場合に、「周辺で多発しているかに見えるがんは、福島第1原発による放射能がもたらした被ばくが原因とは断定できない」などという、残酷なコメントに直面されておられると思います。

しかし、現在のがん科学(腫瘍学)、がん生物学、がん分子生物学の最新の発展は、このような「不可知論」「分からない論」「確認できない論」に、大きな疑問符を投げかけています。

現在のがん科学の教科書は、がんの発症が、偶然に、放射線により遺伝子変異が起こるというのが原因ではなく、何十個から何万個もの遺伝子変異の多段階での「蓄積」こそ、がんを生じる原因であることを、最近可能になった全遺伝子の解析によって、明らかにしています。

大腸がんについても同じです(私の東京たんぽぽ舎での講演のスライドより)。https://drive.google.com/file/d/0B_BelY_HvnqVN3lqQWJacDQ2ckE/view
ここに掲げてあるような、いろいろな遺伝子の変異が、次々と積み重なることによって、大腸がんが生じるのです。
ですから、がんを発症させる要因もまた、本来、一つではなく、複合的なものです。

農薬や大気汚染などの化学物質や環境汚染要因もあれば、喫煙も飲酒も、食品添加物も、生活習慣も、ストレスも、自然放射能も、原爆実験による放射能も、原発通常運転の放出放射能も、すべて影響を及ぼしており、それらの上に、さらに、福島原発事故による大量の放射能とそれによる外部被曝内部被曝も加わっているのです。

遺伝子変異の蓄積を促すものは、何であっても、福島事故由来の放射能であっても、当然、がん発症の原因の一部なのです。
添付ファイルの中に、被曝と大腸がんの例を挙げておきましたので、ぜひご覧下さい。

松平さんの場合には、(1)本来、大腸がんでは40〜60年かかる前がん病変の進展が、放射線被曝の影響により、ゲノム変異の蓄積が加速したか、(2)それとも、放射線により(おそらくは微粒子による内部被曝により)より、決定的に重要ながん抑制遺伝子(遺伝子変異の修復や異常な細胞のアポトーシス[細胞死]を制御している)が、最初から変異させられたことによる「デノボがん」であったか、のいずれかでしょう。

どちらの場合も、福島事故由来の放射線によって変異蓄積の「最後の引き金が引かれた」か、放射線により「新たながんが生じた」かのいずれかでしょう。
だが、いずれにしても、福島事故由来の放射線が、がん発症をもたらす遺伝子変異の「蓄積」に特定の大きな役割を果たしたことは、誰も決して否定できません。

これは、われわれにとっても同じことです。この点を、ぜひ松平氏の御霊前に報告いたしたいと思います。ご冥福をお祈りいたします。
私は、松平氏の活動を残念ながらよく知良ないまま来ましたが、残されたわれわれが彼の遺志を引き継いで前進していくことこそ、彼の悲劇に報いる唯一の道だ、と確信いたします。