街頭から官邸前から安倍政権を包囲し、倒そう!未来を変えよう!集団的自衛権反対の闘いをふりかえる(前編)

園良太

(6月30日、官邸前抗議の車道解放の瞬間)


後編はこちら:http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20140708


★1:3.11から集団的自衛権反対・安倍政権打倒へ


7月1日、安倍政権がついに集団的自衛権閣議決定した。だが閣議決定はその政権を倒せば撤回できるし、それには世界中どこでも行われている民衆の大きな街頭行動が最も必要だ。戦争・原発・貧困の全てを極限まで悪化させる安倍政権は倒すしかない。そのための街頭行動に何が必要か、この半年間の政権と運動のせめぎあいと、抗議行動のピークとなった2日間の官邸前直接抗議を振り返り、考えたい。


(11年6月11日の新宿アルタ前広場)
(12年6月29日の首相官邸前)
(13年12月5日、秘密法反対運動@国会前)


3.11以降の東京の街頭行動のピークは、1:11年6月11日の新宿アルタ前広場、2:12年6月の大飯原発再稼働直前の官邸前抗議、3:その直後の代々木公園17万人デモなどがあった。いずれも民主党政権化だ。体制を根本から問う怒りのエネルギーは、12年末の自民党政権復活後はしばらく現れなかった。原発を日本中に作ったのは自民党政権なのに…。


だが13年秋の特定秘密保護法反対運動は再び高揚し、審議の行われた衆議院参議院の前の歩道に人々が押し寄せて連日抗議した。審議が進み問題点が明らかにされるほど報道も抗議行動も過熱し、12月6日の強行採決時にはあらかじめ抗議をしていた人たちと日比谷公園からのデモ隊の計2万人近くが国会周辺を埋めつくした。国会内では靴を投げて弾圧される傍聴者が出てきた。安倍政権はこれを教訓に、次は国会審議ではなく全て政権のペースで進められる閣議決定で突破することを決めたのだろう。そこで次の戦争国家化は当初予定していた国家安全保障法案ではなく、解釈改憲閣議決定にしたのだ。

そして安倍はまず1:マスメディアの上層部と会食を重ねて批判的な報道を抑え込んだ。2:「安保法制懇」の議論もその後の与党協議も、「グレーゾーン」のような現実離れした言葉で人々をケムに巻きながら、3:協議内容は非公開のまま話し合いのフリだけを進めていった。閣議決定原案は公明党側が作成したことも後から判明するほどの茶番劇だった。4:安倍の5月の記者会見は「邦人保護」を強調し、多くの人々が持たされている「テロ」や隣国への作られた不安を都合よく絡めとった。


これでは大衆的な抗議が盛り上がりにくく、私たちは苦しい戦いを強いられた。そのかんも安倍政権は武器輸出や原発輸出の閣議決定辺野古新基地建設、川内原発再稼働、労働法制の改悪などを一気に進めたため、反対する側も力を分散され対応に追われた。それも明らかに安倍の狙いだった。


こうした中、私が関わる「安倍のつくる未来はいらない!人々」は首相官邸前で立憲主義の否定や武器輸出解禁やオバマ来日・日米首脳会談に抗議した。そして個別の問題を「安倍政権打倒」でつなげるために「安倍政権はダメだとはっきり言おう!新宿デモ」を5月と6月に2回開催した。新宿アルタ前で各問題の最前線で闘う人々がアピールし、数百人が「アベ!ダメ!アベダメダメ!」と怒りのコールで練り歩き、沿道の反応もとても良かった。人々は様々な理由から安倍政権は危険だと感じており、「安倍打倒」の普遍性とわかりやすさが届いたのだろう。また「怒りのドラムデモ」も同時期に同じ新宿で安倍政権打倒のデモを開始した。


そして広い枠組みの集団的自衛権反対運動「戦争をさせない1000人委員会」と「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」が立ち上がった。3月から日比谷野外音楽堂での大集会と国会デモを重ね、国会包囲行動や官邸前抗議も続けた。特に5月15日の安倍の会見への官邸前抗議は爆発的に人が増えた。


そうして国会会期中の閣議決定を阻止したが、安倍が7月1日には決めると報道され、6月後半は連日官邸前抗議が行われ参加者も増え続けた。公明党本部にも市民有志の抗議や座り込みが警察にごぼう抜きされながらも続いた。そして6月29日には新宿南口で集団適時意見反対を訴えて焼身自殺の決起をした人が出た(いまだに病院も容態も隠されている)。騒然とした状況の中、6月30日の官邸前抗議を迎えた。


(6月15日「安倍政権はダメだとはっきり言おう!新宿デモ」)
(6月17日の日比谷野音大集会)
(6月25日、公明党前の座り込み抗議)


★1:6月30日、民衆パワー爆発!2年ぶりの官邸前車道解放

 2年前の原発再稼働反対の抗議は、官邸前の車道全体を数万人の人々が埋め尽くして何度も解放状態になった。再稼働直前には人で溢れた車道から官邸前にデモ隊が内閣を倒す勢いで迫った。大飯現地のテント闘争と合わせてその力が今も再稼働を阻止している。人々の怒りの力を権力に「直接思い知らせる」ことが必要なのだ。


だがその後警視庁は警官と鉄柵を並べて絶対に車道に出られないようにさせ、官邸前左側の歩道以外を封鎖し、参加者を官邸前から離れた場所にわざと誘導し、抗議の規模と迫力を削ぐことに集中した。そして数百〜数千人規模でも官邸前左側歩道だけに細長く並ばされる抗議が常態化した。これは日本のデモが公安条例で4列250人ずつに分断される事と同じだ。抗議者が一つの塊になれず、参加者どうしが横に繋がり話し合うことも難しく、人々が連帯し権力と対峙する力を解体させられている。これが大きな壁だった。


だが6月30日の抗議はツイッター上で大宣伝され、様々な若者や初参加の人々が「自分も行く」と書き込み続けた。18時半開始が16時にはすでに人々が官邸前を埋めてコールを始めた。そこに続々と若者が合流した。主催者、国会議員、著名人のリレー抗議や若者の怒りのコールが始まった。

私は実行委の一人として歩道誘導をしていたが、19時前にはすでに官邸前左側歩道が満杯になり、車道に人が溢れ始めた。さらにこれまで封鎖されていた官邸前右側の歩道も駅から来た人々が埋め尽くし、独自にコールを始めて熱気がどんどん高まった。そして車道に出させないように警官隊が並び始め、参加者との押し合いが始まった。


19時半からは「安倍は辞めろ」とショートコール主体の抗議に移り、増える参加者と熱気に警官隊は後退し始めた。そして20時前に官邸前左側横断歩道の鉄柵を誰かが外し、人々が一斉に青信号の車道へ飛び出した。官邸前という権力の中枢で民衆の表情と能動性が解放され、「安倍は辞めろ、戦争やめろ」と車道全体を縦横無尽に練り歩き、飛び跳ねる。これが参加者に「自分たちがこの社会の主役であり、自分たちには現実を変える力がある」と実感させるのだ。


だから安倍政権=警視庁は社会の主導権を渡さぬために歩道への押し返しを始めた。いったんは官邸前右側も左側も歩道近くまで押し返されたが、車道一車線分は抗議場所が広がった。そして最前列の若者たちは並んで肩を組み、もう一度警察を押し返した。再び車道半分を抗議参加者が埋め尽くした。


私は思った。押し返す人たちは有名も無名も関係なく、ただ隣の人との連帯と安倍政権を倒す意思がある。これが民衆パワーの爆発であり、抗議行動の本質だ。この状態は夜遅くまで続き、TVや新聞には2年ぶりに官邸前車道を埋め尽くした空中写真がトップに出たのだった。(後編に続く)