3.11以降の大状況とは何かと、反原発運動のナショナリズム・権力対応などを乗り越えるために(前半)

園良太

目次
はじめに:不当逮捕、出獄、そして
1:官邸前抗議やこの間の反原発運動に問題視されてきたこと
2:今何が起きているか――福島統制、「惨事便乗型資本主義」と未来に対する大虐殺、ファシズム政治、「国民運動」化
3:「立場」の問題――私たちは何者なのか?(被害者/加害者)
4:官邸前や反原発運動へのツイッタ―批判と反論について(自分の立場も)
5:ではどのような運動で世界を変えるか


はじめに:不当逮捕、出獄、そして
自分は2月9日に江東区役所による堅川河川敷公園の野宿者排除に抗議し、不当逮捕・起訴されました。それから6月14日に解放を勝ち取るまでの4か月強の間に、首相官邸前などの原発再稼働反対運動が大きく盛り上がってきました。政治があまりにひどいからです。

自分は3.11直後から仲間と東電前抗議を開始し、その後も東京の反原発デモは6.11まで全力疾走で拡大し、福島や全国各地や関東の小都市でもデモが増えていきました。ただ首相が野田に替わった秋以降は今思うと小康状態に陥り、人数も横ばいか減少していきました。だが野田は財界や米国の思惑通りにTPP、沖縄、武器輸出緩和、対朝鮮戦争政策など凄まじい悪政を開始し、一方東京の自治体も同じ思惑で再開発のための野宿者排除を激化しました。こちらの抗議の手が追い付かない中、自分も仲間と常に少人数で経産省首相官邸防衛省へ抗議していました。そして竪川の強制排除はまさに経産省前に多くの人が集まっていたその時を狙いうちでした。卑劣なやり方を怒った自分は急いで竪川にも駆けつけ、待ち構えていた江東区公安警察にやられてしまったのです。反原発に比べて人数も注目も少なかった。いわば運動の後退期への自分の焦りが罠にはまってしまったのだと思っています。
そして自分は獄中へ。3月16日から移った東京拘置所は、NHKラジオからしかニュースが流れない。それは野田や枝野の再稼働・増税・朝鮮「人工衛星」バッシングへの最悪発言の垂れ流しを浴びせられることで、4畳半の監獄で何もできない怒りと苛立ちから何度も何度もブチ切れました。だけど、外は3.11一周忌の厳粛ムードを経て、再稼働の動きが加速し、主催者の努力もあって抗議行動が拡大していったことを時間差で知りました(暖かくなったこともあるでしょう)。僕も気持ちを落ち着け、読書や執筆に集中し、根本的な世界の変革を目指していこうと思いました。
そして6月14日、出獄。まずはゆっくり休んでから、官邸前にも行ってみつつ、少しずつネットやツイッターをチェックしました。だけど官邸前抗議と反原発運動をめぐる問題や論争が激化していて、自分の逮捕前と変わらず、むしろ悪化していることに正直愕然とし、胸が痛みました。問題と論争は去年の反原発運動でも起きており、もっと言えば自分が運動に参加し始めた10年前のアフガン・イラク反戦以降も何度か繰り返されていたからです。そして官邸前抗議の問題は日本社会全体に根ざしており、私たち一人ひとりにも問われています。さらに3.11からだいぶ経ち、様々な問題が悪化しています。批判がうまく伝わらず、溝が深まる結果になり続けているのは、そうした問題が整理されていないことが大きいと思いました。そこでブログにきちんとまとめ、より良い運動と世界のための分析・批判・展望を行います。みなさんの多くの意見を求めます。
日本で数万人規模に拡大した行動ではどこでも同じ問題が起き、主催は誰もが同じ過ちをする可能性があると思います。そう考えてどのように主催と直接話し合うか、自分が主催だったらどうするか、そうした内在的な介入や討議でなければ誠実でないとも思っています。今回は主催側にも運動初経験の人がたくさんいますし、みな大組織の人ではなく不安定労働の個人が少人数でやっていますし、僕も痛感しますが3.11以降の反原発運動は忙しすぎる。でも、去年の「原発やめろデモ!!!!!」のようにそういう所ほど運動が急拡大し、ますます大変になる。だからまず「行動の無事な成功」に頭が行きますし、批判を受け止める余裕もなくなり対応が雑になるし、マスコミやら文化人・政治家やらが群がってきてそっちに対応が向いてしまうのです。
 でも僕は2月から6月まで獄中にいた事もあり、主催と同席するチャンネルがありません。何よりツイッター始め批判と論争が多くの人に社会化されています。何人かの主催の応答も酷いです。でもツイッタ―は字数制限から断定調になり、感情的なケンカになりやすく、何が論点かもブツ切りで不明確になります。そこでブログにまとめて書きます。3.11以前の運動と以降の反原発運動に両方に、規模の小さい運動と規模が急拡大した運動の両方に関わってきた者として、事態をよりよく進めるために。


その1:官邸前抗議やこの間の反原発運動に問題視されてきたこと
1:被曝労働者問題、原発の地方押しつけ、福島の避難・被曝問題との連帯といった、都市の反原発運動が自らの立場性、加害者性を問われる問題への関心の低さ。
2:日の丸掲示右翼団体が反原発運動に参加すること。戦前日本の侵略と、それを反省・謝罪せずに今に至るこの日本の国家体制を肯定するものを批判するか否か。
3:労働組合などの旗が規制され、左翼が批判され、「普通の人」の参加ばかりが強調されること
4:6月29日の官邸前抗議で車道へ飛び出した群衆が官邸前へ迫っていた時、主催者が警察車両から解散を呼びかけたことに始まる、主催者が警察や過剰警備に抗議せず、逆に参加者を規制してしまう問題。
 
再稼働反対で運動が拡大したが、今も最も被曝し続けているのは福島の人々と収束作業員です。その深刻さが全然解決されず、再稼働反対運動ともつなげられていないから、「1」の問題が起きます。また「1」「2」「3」は「シングルイシューかマルチイシューか」と呼ばれています。去年の「6.11原発やめろデモ!!!!!」では右翼団体の登壇が問題視され取りやめになりました。だが今の官邸前では右翼団体や周辺の人々も主催を自認し、労組などの団体旗が規制される中で日の丸だけが中心に立つという逆転事態となっています。人は最初おかしいと思っているものにも次第に慣れてしまうので、その意味で悪化しています。「2」「3」は反原発以外の課題と運動が沈没し注目されないことと、日本社会に運動が根付いていない状況を反映しています。そして「4」は、警察は警察イメージを悪化させないよう人々を飼い慣らすと同時に、直接行動家や運動団体と分断することを最初から狙っていました。爆発力のある「原発やめろデモ!!!!!」や反原発以外の運動は不当逮捕で叩きつぶすが、ツイッターデモや小都市の新しい反原発デモには甘く接するという使い分けです。6.29以降の官邸前は、それがある意味一つの行動の中で行われたため、警察側も私たちの側も矛盾や分岐があらわになったのです。
そして1〜4は、何より福島原発事故の被害も、国家権力の政治や資本主義そのもののひどさも、全てが最悪に向かっているから起きたことでもあります。外はデモなど忙しすぎて、運動経験の伝承や現状分析・未来の構想をする時間がないからです。まず現状とは何かを考えます。
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その2:今何が起きているか、4つの大状況――福島統制・「惨事便乗型資本主義」と未来に対する大虐殺・ファシズム政治・「国民運動」化
中の長い時間の中で、僕は今何が起きているのかを必死に考えキーワードにしようとしました。一つずつ説明します。


●福島統制(福島事故問題は今どうなっているのか)
原発再稼働は「3.11」以降の最もわかりやすい国家と資本の暴力であったため、反対運動が盛り上がりました。だがいま最大の暴力が行われているのは福島で、その全貌を明らかにすることが現状を変えるためにまず必要です。
 「3.11」は、国家権力(今の政府や歴代自民党政権や官りょう)と資本主義(東電や財界や原発利権)の矛盾を誰の目にも明らかにしました。すべてを破滅してしまう原発を作り続けてきたのは、原子力利権と核兵器の製造能力を保持するためでした。政府が徹底的に情報を隠して住民を守らないのは、日本には民主主義ないということです。福島には凄まじい被害が生まれ、被害者が本気で立ち上がり、全国の人々と連帯し怒りが広がれば全てが変革される可能性がありました。次いで他地域でも多くの人々が根本的な問題だと気付き始め、自分も当事者だと思って動きだしました。
 政府・資本はそれは心底恐怖したため、事故直後から戦前日本のように社会を「統制」し、私たちを抑え込もうとしました。テレビで「(放射能は)直ちに健康に影響しない」「がんばろう日本」と垂れ流して自らの責任を隠しました。関東を輪番停電とし、東北を自衛隊が封鎖し、大規模な避難や抗議の動きを押しとどめました。福島から関東への避難者はたらい回しにして社会から隔離し、私たちと分断しました。それでも始まった反原発デモに対しては、不当逮捕でつぶしてきたのです。そしてマスコミに福島原発を取材させず、報道量を激減させていきました。(これらの「戦時統制」は震災直後の自分の「今こそ抗議が必要な理由」http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20110321/1300649351 と、拙著『ボクが東電前に立ったわけ』に詳しい。また警察のデモつぶしは自分の体験談を。「より、多くの反弾圧と直接行動を!〜不当逮捕を乗り越えるために」http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20111017/1318800610)。 
いっぽう福島には放射能の拡散情報を知らせず、自治体・学校・病院などに「放射能を問題にするな」と素早く指示を出し、東電も賠償を遅らせました。福島の人々を疲れさせ、諦めさせ、福島市郡山市など今すぐ全員が避難すべき場所に閉じ込めてしまいました。そして避難地域を次々解除し、除染キャンペーンを開始し、避難した住民を戻しながら新たな避難も抑え込みました。放射能を問題視する住民とそうでない住民とを内部で分断・対立させ、声を上げにくくさせたのです。放射能被害は時間が経つほど出てきますが、長期化は因果関係の証明も難しくするため、政府・東電はそれによる賠償逃れを狙っているのです。広島、長崎、水俣と全てがそうでした。
 そして今や福島原発は2ヶ月に一回のマスコミ代表取材でしか内部の写真や実態が出なくなりました。史上最悪の事故と被害が起こり続けていることがマスコミからも福島からも抑え込まれています。その動きがなければ膨大な人命は救われたし、再稼働や東電の存続なども絶対にできなかったはず。この最悪の状況の核心は、権力・資本があらゆる手段で福島の情報と人の動きを統制したことにあります。そうして以前の秩序に無理やり引き戻し、責任追及と打倒を逃れ、体制を維持し、復活したのです。東京など都会の運動は原発再稼動反対が中心になり続けていますが、忙しすぎ・盛り上がりすぎてそれ以上に深められていません。福島と収束作業員の人々とともに動くことが変革の必須条件であり、問題にされてきた「1」はその意味で乗り越えられなければいけません。
 そして福島の統制は、原発はそもそも核で、核は国家機密・軍事機密であり、情報統制と人命軽視がその本質だからでもあります。日本の原発導入は、米国と読売の正力松太郎らが、原爆を落とされた日本へ新たに「原子力の平和利用」と振りまいたことが知られてきました。武藤一羊はさらにこう述べます。
原子力産業の産業としての成立は軍事からの独立を意味しなかった……原発から原爆へという回路が開けたのである。NPT自身が両者のこの新しい結合関係を表す条約である。この条約は、条約締結国に原子力の平和利用を権利として認めつつ(第四条)、非核兵器国に核兵器の製造、取得を禁止し(第二条)、それが順守されているかどうかをチェックするためIAEAの保障措置の受け入れを義務づけたものである。……つまり、原子力発電をふくむ「平和利用」は、すべて潜在的核兵器生産能力とみなされ、そのように扱われている。……すなわち原子炉はたえず爆弾という起源に先祖がえりする傾きをもっている。世界支配にしがみつく特権的核保有国にとって、政治的にコントロールできない国の原発はすべて潜在的原爆製造能力なのだ。”(『潜在的核武装と戦後国家−−フクシマ以降の総括』社会評論社
つまり核兵器を独占する国連安保理アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国は核を転用して原発大国にもなりました。その世界秩序を維持するために、情報統制と人命軽視を至上命題としたのです。そのため核=原発が生み出す放射能被害の情報や研究も世界中で最大限統制し続けました。アメリカは日本を抑え込み続けました。広島原爆で被曝者の救助にあたった肥田舜太郎氏は“広島・長崎の原爆について、どんなことでも全部アメリカの軍事機密になっています。ですから、これだけ時間が経って、今原発であんなことが起こってどうしようもないことになっているけれども、何をどうするのかという問題について自由にできない。……東北で起こっている発電所の大事故について、新聞に出てくる記事は全部検閲済みの記事なのです。実際のことは何も書いていないのです。”と語っています。つまりこの情報統制や放射能プロパガンダは、「マスゴミ」批判や政府批判だけのレベルではなく、世界の大国支配と核そのものの本質です。それをやめさせなければいけません。また日本の対米従属の問題だけでなく、日本政府自身が核大国の仲間入りをする欲望をやめさせなければいけません。そして世界の戦争も日本が行う戦争もやめさせなければいけません。だから原発問題自体も「マルチイシュー」であり、根本的な問題なのです。


●「惨事便乗型資本主義」と、未来に対する大虐殺
「3.11」の責任追及を逃れて復活した権力者・資本家は、「3.11」を従来の戦争と資本主義の推進にも利用し始めました。東電は誰も逮捕されずに公的資金で生き延びて、荒れ狂う福島原発の収束作業で作業員を使い捨てにし続けています。収束作業も除染作業も、今も8割以上を他の仕事を失わされた福島出身の人々が行っています。それはゼネコンや東電や原発製造メーカーの東芝、日立などの子会社の仕事です。つまり全てを失った被害者が被害の尻拭いを被曝しながらやらされ、加害者は何も失わずに儲け続けているというあまりにひどい事態が進んでいます。
 そして国政では、「災害時に首相に権限を集中させる緊急事態条項が必要だ」を突破口に憲法9条改悪を目指しています。財界主導の「復興特区」は漁業や農業の大企業への開放が主眼で、新自由主義政策で地場産業や福祉・医療を崩壊させられた東北をさらに食い物にすることです。今やこうした「惨事便乗型資本主義」(ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』より)まで来てしまいました。それはハイチやインドネシアや米国のハリケーンに襲われた地域など、世界中の被災地でやられている事です。権力と資本主義の暴力は福島と被災地に集中しているため、私たちは何よりもそことの連帯が必要です。
これらは「復興」を口実にすれば全て正当化されています。そのためにも権力者・資本家は、私たちの被災地と福島への連帯意識を除染ビジネスや「復興特区」の推進にすり替えることを常に行ってきます。再稼働反対運動が全国的に盛り上がっていますが、福島は今も「除染・帰還」方針が支配的にさせられています。そして盛り上がる前の今年の「3.11」一年目の時期は、メディア上でも多くの人も、事故直後と同じく被災地への祈りと追悼ムードに覆われ、原発反対が後ろに退いていたと思います。3.11直後のように「がんばろう日本」「絆」が一般の中でも連呼されました。それを政府は天皇参加の「国家追悼式」で完成させました。さらに東北の農業と漁業を大企業に儲けさせるために差し出す自由化が「復興特区」と名付けられ、「復興庁」により推進されるという壮大な詐欺を行ないました。「惨事便乗型資本主義」はこの時期大きく持てはやされたのです。そしてデモに出る他地域の私たちも、放射能がある日常にはだんだん馴らされてきています。今でも無関心な人や、無理やり考えないようにして、避難やデモ参加をしない人はたくさんいます。
 これは私たちの側にも、国家の追悼・自粛・復興の翼賛体制を内面化する可能性が常にあるということです。その結果今運動が盛り上がっていても、それで沈静化してしまう可能性が常にあるということです。原発事故による放射能は人体や環境全ての「未来に対する大虐殺」であり、この事故は史上初の継続する大事故であり、政府の対応も史上最悪レベルです。それとともにこのまま動き出さない人が多数なら、それこそ私たち自身が私たちの未来を虐殺するという意味で、真に人類史上初のことと捉えるべきです。
もちろん人は生まれ育った場所には愛着があり、逃げるか残るかは当人が決めることです。ただ被曝により、子どもや若者ほど将来がんや白血病などになる可能性が高いことは明白なのに、福島は強い圧力で避難が抑止されています。若者が福島に残ることが復興と美化され、東京メディアでは中高年の住民が「戻れてホッとした」と話した、という取り上げ方ばかりされるのです。海でも大地でも新たな生産が不可能になったのに、国も電力会社も原発立地自治体も今ある仕事を守るために再稼働を認めていきます。そして4号機を筆頭に原発の崩壊や被曝労働が全社会から必要になることが現実的なのに、原発の実態が全て隠され続けています。そして実際に全原発廃炉を決めてしまうと、今まで隠されてきた廃炉作業や使用済み核燃料最終処分などの膨大なコストと直面するため、大飯ももんじゅも六か所も動かそうとして問題を先送りし続けています。これはいわば世界一少子高齢化した日本で、権力も私たちも「現在」のために「未来」を犠牲にするから全てが無策になるのです。そして日本特有の強い同調圧力と自己規制が働いています。この結果、今の自分が未来の自分と次の世代を殺しているのです。
 それでもこの巨大な危機は全てを隠しきることも無視することもできないため、福島も全国も無理やり自分で自分をだまし続けるしかなくなっていく。民主党の仙石が「再稼働しないと集団自殺」などと事実と真逆の発言をしたのが象徴です。それは確実に人の精神をボロボロにしていき、うつ、神経症、統合失調の状態が健康被害や自殺とともに激増していくでしょう。それ自体も隠されながら。こうして外の世界と内なる世界の両方を自ら完全崩壊させることが空前の事態なのです。こうして見た時に、官邸前の主催者が参加者を警察目線で規制してしまうのも、「普通の人」を強調しすぎるのも、福島と全国を抑え込む権力目線や同調圧力と同根になってしまうとわかるでしょう。
 『原発いらない福島の女たち』の佐藤幸子さんは、チェルノブイリ事故のときに、福島原発で何かあれば子どもを避難させると決めていたといいます。“未来へつなぐ命が、放射能で途絶えるかもしれないっていう恐怖に駆られたんですね。私には土地への執着心ももちろんあります。けれども、それによって未来の子どもたちに何らかの影響を及ぼすということは、やってはいけないことだと。過去の先祖の命があって初めて自分があると同時に、自分の命、子どもの命がきちんとあって初めて未来へつないでいく命がある。どっちを取るかといったら、先祖代々の土地を捨ててでも、私は未来の子どもたちを守りたいっていうふうに、もうその時に決めてたというのがあります。……私は母のお墓参りに行きました。そこで私は、原発をすべて止めるまでは二度とお墓参りには来ませんと、母のお墓と、その全部のお墓に墓参りに行って。「帰ってこないことを許して下さい」と言ったんです”(『百人百話 第一集 福島に残る 福島を離れる それぞれの選択』岩上安身、三一書房
 人が運動を始めるとは、このように既存の秩序や日常からジャンプすることです。私たちには未来への意思を持ちながら既存の秩序を変えていくことが必要です。「秩序維持」という権力のものの見方を内面化してしまうのではなく、権力から自分をひきはがし、奴隷の鎖を引きちぎらなければいけません。私たち民衆の多様性を認め合い、連帯し、その特徴を最大限出し合わなければいけなません。そうして初めて「未来」を取り戻すことができるのです。


ファシズム政治 
繰り返しているように、野田政権は原発だけでなく自民党ですらできなかったようなあらゆる悪政を行っています。その手法も「ファシズム政治」そのものです。そしてその方向性と手法が、大阪に代表される地方議会、地方自治体にまで貫徹されてきたほどに、私たちの全社会を覆ってきたのです。
 もともと民主党は沖縄の普天間基地の県外移設を始め、次々と公約を破り自民党化していました。東アジアにおける米国とグローバル経済下の財界の力は政権より強いからです。加えて米国は世界金融恐慌と空前の財政赤字で日本にあらゆるカネを出せと要求するからです。日本の権力は小泉政権時代にこれまで支持基盤だった医師会や地方の土木団体を「抵抗勢力」と呼んで切り崩しました。その結果今の政権は、財界と都市富裕層しか基本的な支持基盤がありません。その結果米国と財界の要求は果てしなく強まり、この間の官邸への権限集中の結果官邸主導でホイホイ決めています。国会は戦前と同じく95%以上を民主や自民の保守・軍事化・新自由主義政党で占められているため対立点は何もなく、茶番の論争を繰り返し、官邸の決定事項から私たちの目を遠ざける役割を果たしているだけです。このかんの原発再稼働は暴走の最もたるもので、野田が「国民の安全のために再稼働」などと究極の苦しい暴言を吐いたのはそれほど無茶を押し通しているからです。
増税社会保障の一体改悪、派遣法の据え置き、TPP参加、秘密保全法やマイナンバー制度、死刑の増加、武器輸出の緩和、原子力大綱に「安保利用」と明記して核兵器開発へ道を開く、宇宙の軍事利用開始、果ては集団的自衛権のなど巨大な悪法が次々ごり押しされました。貧困、3・11後の混乱がそれを後押しする。原発、戦争、貧困、差別、弾圧の全問題で史上最悪の法案を通してきているのです。
 さらに国政への不満の受け皿となっているのも橋本大阪市長石原都知事、河村名古屋市長と独裁的に民営化を進める人物です。彼らは財界と富裕層の要望を民衆の要望だと錯覚させ、着実に実現させる手法だけが長けています。そのために労組や教職員を叩いて解体させようとしています。また戦争と愛国心を煽って人気を集める右翼手法でも共通しています。橋本は教育現場に日の丸・君が代を強制し、石原は尖閣列島を都が購入すると宣言し、河村は「南京大虐殺はなかった」と発言したからです。自治体も国政と同じです。
 それは今や最も身近な市区町村に浸透しています。政府は4月に朝鮮の人工衛星を「ミサイルが来る! 撃ち落とそう」と極限まで煽り、全国市区町村自治体と共有しましたが、拒否した所は皆無でした。さらに東京23区(世田谷除く)は7月16日、17日に自衛隊による区役所庁舎を使った訓練と市街地展開を認めてしまいました。また江東区墨田区は渋谷区は、福祉の充実よりもスカイツリーやヒカリエの客を呼び込む再開発に突進しています。そのために警察と結託して公園や川沿いに住む野宿者を暴力排除し、僕はそれを江東区役所に抗議に行ったら不当逮捕・起訴されたのです。(地方自治体のファシズム化は、僕の裁判での冒頭意見陳述書も参照http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20120713
 このファシズム政治は、史上最悪の人災事故の責任と被害や死への恐怖心が闇の奥へ隠されることから強まりました。そしてこのまま行けば冷戦崩壊後の全ての流動化が3・11を経て権力と資本の論理で上から下まで完全に統合されかねません。それを「がんばろう日本」と呼べば問題の解決策だと錯覚させられ、人びとは抗議ではなく自発的に協力してしまうようになります。戦前の破滅を無反省な日本で、再び破滅の道を選ぶなら、それは「復興ファシズム」と呼ぶべきものです。
 このように政府が全ての問題で空前の悪政をしているからこそ、反原発もシングルイシューではなく他の課題とつながり総合的に闘っていかなければいけない。戦争や差別や貧困問題との連携は歓迎されるべき動きで、世界中の運動では必ずそうなるでしょう。今のオキュパイ運動でも多様な運動が全ての問題を主張しています。また官邸前抗議も反原発デモも常に「人数」が評価されます。でもそれは国会が「聞く耳」を持っている=代議制がある程度機能していることが前提です。でも今は「ファシズム政治」、社民党共産党も極少数。官邸も国会も「大きな音」としか扱わないで絶対に中身を聞かず、自分たちだけで動き続けることが絶対的特徴なのです。そして抗議行動に警察を使って巧妙に分断・沈静化します。それと対抗するには人数や規模だけでは足りないし、警察に従って社会秩序を温存していては何も変わりません。激しい直接行動と永続する占拠行動で、相手を真に震え上がらせることが必要なのです。そして議会を見限り、路上占拠した自分たちの中で新しい政治と世界を実践していくことが必要なのです。それが「99%vs1%」の意味であり、世界の抗議や革命の潮流です。


●「国民運動」化 
これは反原発運動を中心とした、日本の社会運動全体の問題です。ファシズム政治に対し、最近ようやく「原発増税、TPPはセットの問題」という語られ方が増えてきました。官邸前への結集は政権総体への怒りが大きく影響していました。しかしその運動はナショナリズムに染まり、日本の外部が見えない「国民運動」化の傾向が強まっています。日本は右傾化とナショナリズムが果てしなく強まっていた上に、「国内」で空前の大惨事が起きてしまったからです。だがこれも前の3つの大状況に匹敵する運動的に大きな問題であり、大状況に簡単に回収されていく危険性があるため、批判します。
 これは反原発運動の内部とそれ以外の運動の両方で起きている問題です。まず反原発運動の「国民運動」化とは、次のような事態を指します。最初に去年の「6.11原発やめろデモ!!!!!」で右翼団体に発言を要請する事件が起きました。それは取りやめになりましたが、それを問題視しない傾向や「右も左もない」といった発言が特にツイッター上で増え続けました。そして右翼団体は独自に「右から考える脱原発デモ」を開始し、参加者が増え全国に広がりました。またデモで日の丸を揚げる参加者も当たり前になっていき、大阪の「ナツダツゲンパツ」デモではサウンドカーから君が代を流す事件も起きました。そして首相官邸前抗議では、労働組合や社会運動の旗などの存在誇示が全て自粛を求められる中で、日の丸だけが許容されステージ近くに掲げられてしまうほどになりました。
 一方現場で「国民」「国土」「日本」を強調する発言も多いです。放射能への恐怖心が「障がい者」差別の発言になり、女性へのパターナリスティックな発言が出ることもありました。日の丸・君が代とともに、当人や新しい参加者はなぜ問題視されるのかわからない人も多いでしょう。だが「国民」や日の丸君が代は、それらが戦前日本の侵略に全面的に使われたことへの反省から、これまでの運動で避けられてきた言葉でした。また「障がい者」や女性への差別も、それを問題視する「新しい社会う運動」が70年代以降に様々に広がり続けてきました。でも、今でも日本社会には侵略の肯定や差別が平気でまかり通っています。そして3.11以降はそれらの運動に接したことのない新しい参加者が数多く出てきました。だから起きる問題です。私も02年に最初にアフガン反戦デモに参加したころは何もわかりませんでした。様々な出会いや行動の中で問題意識を深めていったのです。
 今、反原発運動が「国民運動化」することの問題は、
1:日本が侵略した国の人々や、様々な社会的マイノリティを軽視・排除することになるから(そうした人々と、加害を反省しながら差別なく連帯することを望む人も、来られなくなる)。
2:侵略戦争への反省や反戦運動といった他の課題を切断・軽視・無視してしまうから。
3:「反原発」自体の広がりも止めてしまうから。原発核兵器と同根で、日本政府が無くさないのは核武装の欲望があるからで、例えば韓国でも反原発が「反核運動」と呼ばれているのに、核批判まで行かない。右派は日本の核武装の欲望を常に抱えており、それは脱原発とは根本的に相容れない。また全ての原発は地方に押し付けられ、都会がその電力を消費してきた。また今も被曝労働者に最も危険な被曝作業が押し付けられており、福島では8割が福島出身者で、全国の原発でも最底辺の日雇い労働者が駆り出され続けてきた。つまり「反原発」は大量消費や階級格差という国家・社会構造とライフスタイルそのものを変えるべき問題でもあるのに、そこまで発展していかない。そして福島で閉じこめられる人々、たらい回しにされる自主避難者、使い捨てにされる被曝労働者、そして日本が原発を海外輸出する国で抵抗する民衆やウラン採掘に抵抗する人々とつながれなくなるということです。

原発デモや官邸前に多くの人が立ち上がったのはとても良いことで、僕も多くの出会いがありました。放射能や権力に対する「民衆知」と呼ぶべき、親の人たちの多彩な学習会や人々の抵抗が生まれているのもすごいです。その意義と、より良くするための事は後半で展開します。けれども、反原発運動が今後も「国民運動」に留まるとしたら、それは人を排除し、歴史を捻じ曲げ、原発廃絶としても真に有効な運動にはならなくなるのです。
参考:「反原発運動(経産省前テント)が極右団体と関係することの何が問題なのか」http://d.hatena.ne.jp/Ryota1981/20111121/1321877776
 さて、これにつられて他の課題も「国民運動」化しています。「原発増税、TPPはセットの問題」という関心が増えてきましたが、沖縄へのオスプレイ押し付けや高江のヘリパッド工事への関心はまだまだ低いです。また「本土」から沖縄の問題をセットで語る場合も、「米国が日本を思うままにしている」「逆らえない日本は情けない」といったものが多いです。実際には日本政府も自らの意思で沖縄に基地を押し付けているし、止められてこなかった「本土」の私たちにも一定の加害者性があるのに、です。つまり自らを「被害者」と規定できる問題に関心が集中し、そこで止まってしまうのです。そして原発増税だけでなく、4月の人工衛星騒動のような凄まじい朝鮮攻撃、「釣魚台/尖閣諸島」の領有権をめぐる中国攻撃、朝鮮学校の高校無償化からの排除は強まるばかりです。でもそれらは「国民運動」の枠外の問題で、私たちが「加害者」の立場になるため関心も運動も少ないまま。日本は今も世界有数の「豊かな国」で、被害者にさせられることに抗議する「原発増税、TPP反対」が、加害者であることも拒否する反戦運動、反差別運動、戦後補償問題にはつながっていかないのです。
もちろん増税反対もTPP反対も非常に必要なことで、僕も体がもう一つあれば全力でやりたいです。自分たちが被害を受ける問題から動き出すことはごく普通のことで、増税やTPPのような凄まじい悪政ならなおさらです。ただ、日本は今も世界有数の「豊かな国」「攻める側の国」でもあります。本当は少し考えればアジアへの過去の責任をうやむやにし、中国や「南側」から資源を収奪し続け、イラクアフガニスタン
ソマリアで殺しに加担していることがわかります。だが動き始めた人も、運動も、被害者運動の方が盛り上がりやすいからと取捨選択している面は必ずあります。そして今まで言葉使いや問題意識に注意していた筈の運動内でも、「国民」「国土」を使い始めたり、右翼や日の丸を肯定したり、反戦・反差別の運動や言論をやらなくなっています(忙しすぎることも理由です)。これを数年前から金光翔さんは「佐藤優現象」と呼んで批判していました。論文はhttp://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-1.html ブログはhttp://watashinim.exblog.jp/
これが政治的には小沢一郎新党「国民の生活が第一」への期待になっています。運動側が明確に自民党と対立していた時代から、民主党政権になり対立点が不明確になり、それもあって今の野田政権の惨状を招きました。それは「国民」の枠外の問題への関心が低くなっていったことも理由でしゅう。小沢は90年代から自衛隊のPKO派兵を行い、小選挙区制導入で社会党を解体させ、新自由主義推進の旗振り役をしてきました。総括も何もしていません。そのことを私たちがきちんと振り返っていれば、「日本の上〜中間層」の支持さえ一時的に得られれば、それ以外を切り捨てても戦争しても良いのだという思想的基盤がわかるはずです。保守政治家に期待してしまうほど私たちが対抗軸を失い、運動基盤と知的基盤が崩壊しているのです。
日本は戦前、右翼排外主義や「国土の危機」という被害者意識が高まる中で運動側が体制側へ「転向」していきました。そして最悪の侵略と破滅に抵抗するものが誰もいなくなってしまいました。このままでは、「脱原発」だけは一時的に盛り上がっても、憲法改悪して海外で戦争し放題、在日朝鮮人や外国人を差別し放題、死刑や重罰化は増え放題、もちろん増税やTPPも止められず、福島の全ての被害者と被曝労働者は置き去りに、となりかねません。それでは何も変えられず、再び「総転向」となるだけです。運動側も「国民運動」化を乗り越えなければいけないのです。

 現在の大状況を整理することで、反原発運動の問題を変えるべき理由も見えてきたと思います。それでもまだ「今は緊急事態、反原発の一本でまとまればいいじゃないか」「運動初参加者の気持ちをわかっていない」と思う人もいると思います。そこで「そうじゃないよ」ということを語っていきます。まず次は「私たちの立場の問題」から。次に今回の官邸前問題と論争を細かく整理し、僕なりの「人が運動するってどういうこと?」からです。
(先に、友人柏崎さんの論文http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-98.html
北守さんの『剥き出しの生と非常事態』http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110627を読んでおいてください。ぼくはこれをより内在的に、同志的批判として、アフガニスタン反戦以降の自分の経験を交えて書きます